八丈島は東京から約300キロ南、太平洋上に浮かぶ伊豆諸島南部の島である。島へは東京・竹芝桟橋から東海汽船が就航しており、この航海で「黒潮本流」を横断する約11時間の船旅が経験できる。夜10時に出航した連絡船は、翌早朝三宅島に寄港する。三宅港を後に御蔵島を望見する辺りで、3,000トン級の大型客船が急に左右前後に大きく揺れ出す。これは地元で「黒瀬川」と呼ばれて漁民に恐れられ、江戸時代には流人の島抜けをも阻んだ航海の難所に突入したのである。船は約3時間近くこの激流に翻弄されて、やがて八丈島・底土港に接岸し、黒潮本流横断の旅が終了する。先史時代人もこの黒潮激流を木の葉のような丸木舟を操り、八丈島に渡航したことを想像すると、その渡海能力の凄さに驚嘆させられる。最近では、こうした渡航の苦労もない空の便が多く利用され、東京・羽田空港からジェット便で約45分の短時間飛行で行ける近さになった。「鳥も通わぬ八丈島」「絶海の孤島八丈島」などと言われた時代は、最早この島のイメ−ジではなくなってしまったのである。
この黒潮洗う南海の孤島「八丈島」に、いつごろから人間が住み始めたのであろうか。この誰でもが知りたがる問いに答えられる成果が、ここ十数年に亘る東京都教育委員会を中心にした考古学調査によって判明してきた。それによると、八丈島最古の住人は、7,000〜 6,500年前の湯浜人(出自系統不明)で、彼らは噴火が続き西山(八丈富士)がまだ形成途上にあった東山(三原山)地域に上陸し、樫立地区の「湯の浜」海岸高台に生活の拠点を設けた。二番目の渡島民は、5,000年前の倉輪人(縄文人)で、同じ湯の浜海岸に上陸し湯浜遺跡の西側海岸高台に集落を構えた。そして、彼らはたびたび縄文本土に渡航した「海の縄文人」でもあった。三番目の渡島民は、大きな噴火活動も終了し、ほぼ現在と同じひょうたん状(まゆ状ともいう)の島形が完成した2,000〜1,200年前まで、東山と西山の中間低地帯(八重根漁港奥の旧火口内)に生活し、干魚・燻製加工を専業にした八重根人(弥生、古墳、奈良・平安時代人)であった。四番目の渡島民は、西山地域の八丈小島側海岸際に生活し、製塩作業を行った1,000年前の火の潟人(平安時代人)であった。以上現在までに確認された 4遺跡(湯浜、倉輪、八重根、火の潟)の発掘成果は、「八丈島先史時代」とも呼べる文献以前の出来事であった。
八丈島の歴史は、これ以後は、国地(本州島)の中央政権との関わりで展開する。そして、その正史や古文書類に八丈島の記事が登場し、ある程度の年表的流れを知ることが出来る。しかし、ここでも考古学的資料が、文献に記載された事象の裏付けや訂正、また新たな追加事項として大きく貢献したことが分かる。その一つは、「陶磁器」による八丈島の歴史解明である。日本の焼き物の歴史は、14,000年前の世界最古の「縄文土器」に始まり、2,300年前の「弥生土器」、1,700年前の「土師器」など、こうした土器類の使用が長く続いていく。その後、朝鮮半島の工人が渡来し「須恵器」の大量生産が開始される。歴史時代に入ると、こうした「陶質土器」に代わって「陶器」が主流を占めるが、近世期に西九州地方の有田で「磁器」の製作が開始され、軽くて丈夫で安価な磁器が庶民の生活用具の主流として定着する。なかでも「せともの」という呼び名で愛称された瀬戸・美濃地方で焼かれた陶磁器類は、東国を中心に広く流布した。八丈島に残された陶磁器資料は、こうした列島の「やきもの」の変遷・生産・流通などを解明する格好の材料を提供してくれる。現在、先史時代から近・現代までの各種やきもの類が、地元の「八丈島歴史民俗資料館」や郷土史研究家によって大切に保管されている。
八丈島の歴史は考古学的資料を見るかぎり、黒潮に洗われた太平洋沿岸地域に広くその系統を求めることが出来る。つまり、地理的位置関係から黒潮の流れる大陸沿岸地域や日本列島太平洋沿岸地域、そして西太平洋に分布する南の島々と強く結びついた「異文化複合文化圏」を形成していたことが理解される(図1)。
1956〜1958年(昭和31〜33)東京都教育委員会は、伊豆諸島文化財総合調査を実施した。考古学調査班(班長・明治大学後藤守一)は、北部伊豆諸島で多くの発掘調査を行い、最南端の御蔵島で縄文時代早期の住居跡を確認した。そしてこの調査で、初めて黒潮本流を越えた南部伊豆諸島の八丈島に渡島し考古学的調査を行った。しかし島には、地点不明の「磨製石斧」が数点保管されていた外には、考古学的遺跡・遺物の発見はなかった。したがって調査班は、「黒潮本流を越えた八丈島には石器時代という古い時代には住民はいなかった」と結論づけた(後藤ほか1958,1959)。
1962年(昭和37)は、八丈島の考古学研究史にとって記念すべき年を迎える。この夏、東山地区樫立の海岸に面した八丈温泉ホテル内で温室工事が行われ、この現場を訪れた地元中学生が一点の「大形磨製石斧」(図7-1)を採集した。この発見は都教育庁八丈島出張所を通し、都教育庁文化課に知らされた。翌年11月文化課による現地視察が行われ、数点の打製石斧らしき資料が確認された。さらに1964年(昭和39)1月には、地元都立八丈高等学校による試掘調査が実施され、打製石器、土器片と炉址らしき遺構が発見された(八丈島誌1973,1993)。都文化課は事の重大さに驚き、直に試掘調査で出土した土器・石器を、伊豆諸島の考古学調査を担当した明治大学に持参し鑑定を依頼した。その結果、杉原荘介は「打製石器の一部にヨ−ロッパ中石器時代のトランシェ(直刃斧)と酷似した資料があり、きわめて重要な遺跡」と評価し、同年3月、明治大学考古学研究室による八丈島初の正式発掘調査が実現することになった。遺跡名は、この遺跡下の海岸名「湯の浜」を採って「湯浜(ゆばま)遺跡」と命名された。
発掘調査では、「住居跡」と考えられる竪穴状の落ち込みが確認された。またこの遺構脇には、人頭大の安山岩製台石とチップ(細片)が散布し、石器製作が行われていたことが判明した。遺物は土器、打製石斧、磨製石斧、石皿、磨石・敲石、台石、剥片・細片であった。年代は木炭片によるC-14年代測定(学習院大学)が行われ、5,840 ±100yr B.P.(Gak-1686)と出された。この年代観は本土の縄文時代前期前半〜中葉に相当し、太平洋の島々の遺跡より古く、また石器の型式的特徴(ヨ−ロッパ中石器時代)から考えた年代よりも新しいものであった。
この調査結果から、杉原・戸沢は湯浜遺跡の石器文化を次のように整理した。
そして以上の事実と推測の上に、湯浜石器文化の出自・系統に関して、
(A) 磨製石斧、黒曜石剥片、石皿の存在などから考えて、日本の縄文文化との関係は深いものとみる。そしてA群の打製石斧は一時的に出現した、その生活との直接の必要上から生まれたもので、特異な土器も島産という事情が生み出した特殊性である。
(B) 湯浜遺跡の遺物の諸様相が縄文文化にくらべてかなり変容しているのは、それが内地からの直接の波及ではなく、他の伊豆諸島に一たん定着したものの再波及であるかもしれない。
(C) 逆に湯浜遺跡の石器文化は、縄文文化となんら直接の関係はなく、より南方諸島、あるいは黒潮の流れる地域からの渡来である可能性も強いというものであった。
と述べている(杉原1965,杉原・戸沢1967)。
八丈島で初めて「石器時代遺跡」が確認されると、多くの研究者がこの「湯浜遺跡」を訪れ、地質・火山灰・年代・考古学などの各種調査が行われた。
1967年(昭和42)9月、一色直記(通商産業省工業技術院地質調査所)が地質調査を行った。この調査で町道の北側道路崖面に、重なる状態で完形の打製石斧5点が発見された。これは一般に「デポ」と呼ばれる石器埋納遺構と考えられる。また一色はこの打製石斧を、地元の東山に存在する「玄武岩」と石質鑑定した(永峯・小田ほか編1976)。
1972年(昭和47)10月と翌年1月、東京都遺跡分布調査団(団長・國學院大學永峯光一)が八丈島の遺跡分布調査を行った。この調査で新たに八丈島に5ヵ所の考古資料が確認され、すべて湯浜遺跡と時代・性格ともに異なるものであった。そして湯浜遺跡の黒曜石分析がフィッシヨン・トラック測定法(立教大学・鈴木正男)で行われ、産地は神津島、水和層年代では5,800yr B.P.と出された(鶴丸・小田ほか1973、宮崎・永峯ほか編1976) 。
1973年(昭和48)3月、湯浜遺跡緊急発掘調査団(団長・國學院大學永峯光一)による本格的発掘調査が行われた。その目的は、遺跡の一部を発掘し、遺跡の時代・性格を明らかし、遺跡を含む付近の地形測量を行い遺物包含層の範囲を記録し、出土品の記録・実測をする。というものであった。その結果、(A) 昭和39年に明治大学が発掘した地点を含め町道下の低い部分は、その後の整地で遺物包含層はすでに消失していた。(B) 町道部分では、道路下に住居跡と考えられる竪穴遺構の一部が確認された。(C) 町道部分を含め、北側の高台部にはまだ遺物包含層が残存していた。という内容が把握された(永峯・小田ほか編1976)。
1978年(昭和58)2月〜 3月、八丈町湯浜遺跡範囲確認調査団(団長・國學院大學永峯光一)が緊急発掘調査を行った。遺構として、竪穴住居跡2軒と屋外炉2基が検出された。遺物は、無文厚手土器、各種打製石器、敲石、磨石、石皿類であった。黒曜石が5点出土し、明大調査分16点、筆者採集分 1点を合わせても22点という、伊豆諸島先史遺跡としては極端に少ない出土量であった。また土器の底部が初めて出土し、全体形は丸底で砲弾形、胴部にやや段が認められ、器面に浅い条痕が施された深鉢形土器であることが判明した。自然科学分析も多く実施され、花粉・胞子化石、鉱物分析(パリノ・サ−ヴェイ研究所)などが行われた。土器の胎土分析(一色直記)で、八丈島の火山灰が検出され、地元産土器の可能性が指摘された。石材鑑定(一色直記)でも、やはり地元八丈島産の安山岩・玄武岩が使用されていた。黒曜石分析(鈴木正男)も行われ、産地はすべて神津島、水和層年代で7,100〜6,400年前と出された(永峯ほか1984)。
1985年(昭和60) から3ヵ年、明治大学地理学研究室(杉原重夫)が文部省科学研究費「伊豆諸島における人類遺跡と火山噴出物の対比・編年に関する研究」による調査を行った。この調査で、鹿児島県鬼界カルデラから噴出した広域火山灰「鬼界−アカホヤ火山灰(K-Ah) 6,300〜6,500年前」が、湯浜遺跡の遺物包含層中と隣接した倉輪遺跡(5,000年前、縄文前期終末〜中期初頭) の遺物包含層下の風化火山灰層中から検出された(杉原・小田1989,1990) 。
八丈島で初めて確認された「石器時代遺跡」である。まだ正確な出自系統は不明であるが、本土の縄文文化との関係も指摘されている(図4)。
1962年(昭和37) | 夏、地元中学生が一点の「大形磨製石斧」を採集(八丈島誌1973,1993)。 |
1964年(昭和39) | 1月、地元都立八丈高等学校による試掘調査(八丈島誌1973,1993)。 |
3月、明治大学考古学研究室による八丈島最初の正式発掘調査(杉原・戸沢1967)。 | |
1973年(昭和48) | 3月、湯浜遺跡緊急発掘調査団の発掘調査(永峯・小田ほか編1976)。 |
1978年(昭和58) | 2月〜 3月、八丈町湯浜遺跡範囲確認調査団の発掘調査(永峯ほか1984)。 |
湯浜遺跡は東山地域の山麓海岸に面した崖上に立地し、8,000平方メートル以上の範囲に遺構・遺物が分布する。現在、隅丸方形の竪穴住居跡3軒と屋外炉2基が確認され、定住的な先史時代集落遺跡と考えられる。
湯浜人が初めて八丈島に渡島した頃は、東山南西腹の側火山(八幡山)が噴火 (7,000年前)し火口を持つ噴石丘を形成していた。引き続きその南麓から大量の溶岩が流出し、斜面を南流し海食崖から海に滝のように流れ落ちた。この溶岩流が、北西部に確認された倉輪遺跡(5,000年前)の基盤層を形成している。台地の東側には唐滝川が谷を深く削り海岸に流れ、この海岸には現在でも温泉が湧出している。八幡山の噴火後、早くて数年遅くて数百年後に、湯浜人がこの湯の浜に上陸したと思われる。湯浜集落付近は、溶岩の一部が地表を覆っており、草木も少ない荒々しい岩山に囲まれた平坦地を呈していた。
遺跡地は3〜4メートルに及ぶ火山噴出物が堆積し、11枚の自然層に分層された。文化層は1枚確認され、同層中に鬼界―アカホヤ火山灰(6,500〜6,300年前)が介在していた(杉原・小田1989,1990)。C-14年代測定が行われ、3,860±80y.B.P.(Gak-557)タブノキ(第V層、大坂トンネル相当層)。4,690±100y.B.P.(Gak-1591) スダジイ(大坂トンネル相当層)。4,110± 95y.B.P.(N-3505)木炭(倉輪遺跡相当層)。5,840±100y.B.P.(Gak-686)木炭(遺物包含層)。6,570±130y.B.P.(N-3503) 炭質物(第1号住居跡出土)。6,660± 75y.B.P.(N-3504) 炭質物(遺物包含層)。また水和層年代測定では、7,710±130y.B.P.(Gak-1592) 木炭(湯浜遺跡遺物包含層相当層、東北東0.8Km地点の同じ層準)。黒曜石水和層では5,800、6,400、6,600、7,100 y.B.P.と出された(永峯ほか1984)。
住居跡:隅丸方形の竪穴住居跡が3軒確認された。第1号は台形で中央部に長円形ピットがあり、柱跡か炉跡と考えられる。第2号はやはり隅丸方形の竪穴住居跡であった。もう一つは、明大調査時に掘り込みが確認されたものである。
焼土跡:焼土が詰まったほぼ円形皿状遺構が第1号住居跡南西隅に確認され、単独の屋外炉と考えられる。
炭化物集中地点:炭化物・炭化材が詰まった長楕円形皿状遺構が第1号住居跡西側に確認され、やはり単独の屋外炉と考えられる。
土器:いずれも脆く取り上げに苦労するほどで、10個体以上が識別された。器形は厚手の丸底深鉢形土器で、土器中央胴部に僅かな段が認められる。器面は浅い条痕が認められるが、基本は無文である。口縁に円形で未貫通の補修孔例も発見されている。こうした様相をもつ土器群は、一見、縄文時代早期前半の撚糸文系土器群に対比できそうであるが、現在のところ本土の縄文文化には認められない土器群と考えられる。
1988年(平成元)の小笠原諸島他遺跡分布調査団(団長・國學院大學永峯光一)が発見した北硫黄島・石野遺跡の土器の胎土分析で、この湯浜遺跡と琉球列島、マリアナ先史文化の比較研究を行った。その結果、サイパン島の1点だけが類似していた(橋本・矢作ほか1994)。
石器:磨製石斧、打製石斧、スクレイパ−、彫器、磨石、石皿、敲石、剥片、石核などがある。湯浜遺跡の石器群は、各種の打製石斧類が豊富に存在することと、石鏃が出土しないことに特徴がある。それに本遺跡発見の端著を成した「大形磨製石斧」の存在であるが、この石斧は最近の研究成果から、湯浜期(八丈島先史時代第一期)より新しい段階(八丈島先史時代第三期)の所産と考えられている(小田2000ほか)。
湯浜人は近くの崖から火山灰と粘土を入手し、危弱で部厚い無文尖底深鉢形土器を焼いた。石器は東山山麓の安山岩や玄武岩を使用し、打製石器を多数製作した。また神津島産黒曜石が若干発見され、この原石はすでに渡島時に所有していたのか、または八丈島に渡ってから採取に行ったのか興味がもたれる。これら打製石器類は森林の伐採や木材加工、住居の掘削などに使用する道具であった。食糧加工用には磨石、敲石、石皿類があり、これらの円礫は湯の浜海岸に転石として多産する溶岩製(玄武岩)浜石を使用していた。 湯浜集落の人口は、確認された住居跡数(3軒程度) からみて15人程度と考えられる。また生活期間は、土器、石器の量などから推察して数世代 (100年以内) であったと考えられる。
八丈島で二番目に発見された倉輪遺跡からは、立派な本土の「縄文土器」をもった縄文文化が確認された(図5・6)。
1977年(昭和52)9月、東山地区樫立の八丈温泉ホテル内で温泉プ−ルの拡張工事が行われた。この工事中に多量の土器・石器類が発見され、都文化課学芸員によって遺跡の現状と遺物の内容調査が行われた。発見された場所は湯浜遺跡の南西高台部で、遺物類は黒褐色腐植土中に骨・貝殻片などと共に包含され、石器には黒曜石剥片が多数存在していた。また黒曜石製の「石鏃」と多数の磨製石斧が存在し、こうした石器群様相は湯浜遺跡には認められないものであった。さらに驚いたのは土器で、器面には見事な文様が施され、これは本土の「縄文土器」そのものであった。土器型式は前期終末〜中期初頭 (5,000年前)の所産で、関東・中部地方の土器群を主体にしているが、そのなかには中部高地、北陸、関西系の土器群も多数認められた。つまり、黒潮本流が流れる本土太平洋沿岸地域にかぎらず、広く内陸部とも深い関係があったことが理解されたのである。
遺物包含層準は、一色直記により隣接した湯浜遺跡より数枚上層であるとの指摘を受けた。この事実から、湯浜遺跡は縄文時代前期終末の倉輪遺跡より古いことがここに確定した。そして、この新発見遺跡は当地に昔「高倉」が存在していたことから、「倉輪遺跡」と命名された(小田1991)。
発掘調査は、第1次(1978)、第2次(1979)、第3次(1980)、第4次(1981)、第5次(1984)、第6次(1985)、第7次(1986)、第8次(1991)、第9次(1992)まで実施された(永峯・川崎ほか1986, 永峯・小林ほか1987,小林・青木ほか1994)。
倉輪遺跡は東山地域の山麓海岸に面した崖上に立地し、2,000平方メートル以上の範囲に遺構・遺物が分布する。発掘調査で 6軒の円形竪穴住居跡、1基の竪穴状遺構、10基以上の土坑、5基の炉跡、1基の灰層、集石状遺構多数、2基の屈葬墓などが確認され、比較的安定した200年間の定住生活が営まれていた。
倉輪人が八丈島に渡島した頃は、東山南西腹(八幡山)の大噴火(7,000年前) が終了し、遺跡周辺の海食崖上は溶岩塊も落ちつき、その後の小噴火による1メートルの火山砕屑物で平坦面が広く形成されていた。湯浜人も経験した樫立地区を襲った側火山噴火も休止期に向かっていたが、この東山火山噴火活動はこの後少なくとも 4回は確認され、本格的に休止したのは2,000〜 3,000年前頃と考えられている。そして、倉輪人が生活した5,000年前頃は、木本類(サカキカズラ属)とイチイ科、ヒノキ科、スギ科の針葉樹が、草本類はイネ科植物、単条溝型胞子を生産するシダ類が繁茂し、スダジイの子葉も発見されている 。
遺跡地の堆積物は3〜4メートルで、自然層は大きく 8枚に区分され文化層は1枚確認された。また包含層下の基盤直上層から、広域火山灰の鬼界−アカホヤ火山灰(6,500〜 6,300年前)が確認された。したがって、この基盤直上層は、湯浜遺跡の遺物包含層に対比されることになった。年代測定も行われ、C-14年代測定で4,230± 95y.B.P.(N-3505) 、黒曜石水和層測定(鈴木正男)で5,100、5,300、5,400、5,500、5,800、5,900、6,000 y.B.P.と出された。
住居跡:円形の竪穴住居跡が、6軒確認された。柱穴は1ヵ所認められ、炉、周溝などの検出は無かった。おそらく、4〜5軒の住居が同時に存在した可能性がある。
竪穴状遺構:不整形竪穴状遺構が 2基確認された。第1号には小柱穴が多数巡っている。
炉跡:円形で焼土を持つ例が 5基確認された。すべて屋外炉と考えられる。
土坑:円形・不整形を呈した土坑が12基確認された。土坑内には炭化物、焼土、あるいは骨粉などが認められ、炉跡的な使用法がうかがえる。
灰層:円形の灰層が 1ヵ所確認された。灰層中には白色の骨片が多数発見され、東側にはイノシシの頭骨が出土した。また黒曜石の小剥片、焼礫も多量に認められた。この遺構の性格は、何か儀式を行った地点か、ゴミの廃棄場所とも考えられる 。
集石状遺構:倉輪遺跡には、拳大の自然礫(海岸の転石)が集落全面に散布していた。多くは使用後の焼礫・破損礫で、あたかも敷きつめられた状況を呈した場所もあった。集石状遺構とした例は、こうした礫の密度の濃い地点を呼称している。また礫の堆積が 1メートルの厚さに及ぶ場所があることから、集落内の整地や舗装部分と考えられるが、集中した遺構状況も認められ、廃絶儀礼に伴う廃棄地点とも考えることも可能である。
埋葬人骨:3体の人骨が確認され、うち2体は埋葬された状態(仰臥屈葬)で出土した。佐倉朔(国立科学博物館)によって、第1号は男性 (熟年) で歯槽膿漏の痕があり、第 2号は小柄な女性 (若い壮年)で重症の中耳炎の病変痕があり、第3号は上腕骨のみだが女性の可能性が強いと鑑定された。また第 2号の頭部には棒状垂飾が、胸部下には扁平な大石が敷かれていた。
土器:すべて本土から搬入された「縄文土器」で、縄文時代前期末〜中期初頭(5,000年前) の限られた土器群である。大半は、関東・中部と東海・近畿地方の型式であった。
石器:石鏃、石斧、石錐、石匙、スクレイパ−、砥石、磨石、石皿がある。石器組成は本土の縄文遺跡と同じである。石鏃が34点出土し、神津島産黒曜石で製作されていた。黒曜石は石鏃、石錐、多量の小形スクレイパ−類に利用され、大形スクレイパ−類は地元安山岩、玄武岩が多用された。打製・磨製石斧は、本土の緑色片岩系石材と地元玄武岩製があり、搬入品と島製作品が混在している。磨石、石皿類は、地元安山岩、玄武岩が多用され、砥石には南方海底火山起源の軽石質流紋岩、また南海のサンゴ石を利用した石皿も存在していた。漁撈用の石錘、土器片利用の土錘もある。
石製品・装身具:「Y」字状石製品、「の」の字状石製品、?状耳飾り、斧状石製品、棒状垂飾、勾玉、小玉などが、土製品には土器片錐が、骨角器には釣針、骨針、管状骨製品、サメ歯穿孔品、鯨骨製品があった。まず注目されるのが「の」の字状石製品で、これは南海産大型巻貝(イモガイの輪切り製品)を石に模した装身具と考えられる。この石材は中部地方北半(日本海側)に原産地がある硬玉系石材で製作され、埋葬人骨の頭部に存在した棒状石製品も同じ産地の垂飾である。また岩手県久慈・千葉県銚子地方に原産地を持つコハク製勾玉・小玉類がある。こうした装身具は、倉輪人が八丈島に渡航する以前からすでに身に付けていた貴重品と考えられる。骨角器では、釣針に特徴があった。釣針の発達は縄文時代後期頃(3,000年前) からとされるが、倉輪遺跡ではその 2,000年以上前に優れた釣針を製作していたのである。またサメの歯に穿孔した製品は、琉球列島をはじめ黒潮海域に特徴的に分布する装身具であった。
動物遺存体:金子浩昌(早稲田大学)の鑑定で、魚類にはサメ類、エイ類、ウツボ類、ハタ類、ベラ類、ブダイ類、フグ類、ニザダイ科の一種が出土した。爬虫類ではアオウミガメが、鳥類ではアホウドリ、ウが、哺乳類ではイヌ、サカマタ、バンドウイルカ、イノシシなどが出土している。倉輪遺跡の崖下は外海で岩礁が広がっており、魚類が豊富に生息していた。ベラ、ブダイが多く出土する傾向は琉球列島的であるが、ハタ類は独特の魚類相であった。爬虫類、鳥類のアオウミガメ、アホウドリ、ウの出土は少なく、捕獲条件が限られていたのであろう。獣類のイノシシが縄文本土でも見られないほど大量に出土し、イノシシは総じて小型であった。また頭蓋や下顎骨が集積した状況が認められ、何らかの狩猟儀式を行った形跡がある。
6,000年前にピ−クを迎えた縄文海進時に、縄文人が漁撈活動地域を内陸や沿岸部から近海に拡大し、海洋航海技術を熟達させ外洋を舞台にした縄文集団(海の縄文人)が誕生した。彼らは外洋航海民としての素養を備え、最初は北部伊豆諸島を中心に渡島活動を行っていた。やがて近畿・東海と中部・関東の二地域から、黒潮本流を越えた南部伊豆諸島の八丈島へ渡航した集団が登場する。湯浜人と同じ湯の浜海岸に上陸した倉輪人である。しかし彼らは、湯浜集落地点を選ばず、北西側のより高台部に集落を営んだ。その理由は不明だが、倉輪集落の北西側に湧水を持つ小さな沢が確認され、この地点が生活に適していたのであろうか。或いは、自分の故郷である縄文本土が一望できる、見晴らしのよい高台地点を選定したのかも知れない。
倉輪人は、イヌを連れイノシシの幼獣(ウリボウ)を携えて、丸木舟で黒潮本流を横切り八丈島に渡っている。イノシシは放牧され成獣にしたのち捕獲し食され、イノシシ祭礼儀式も行われていた。彼らは円形の竪穴住居を数軒構築し、本土と同様の豊かな生活道具を使用し狩猟・採集活動を営んでいた。特に、釣針の製作技術は本土縄文人より優れていた。また度々北部伊豆諸島や本土に出かけ、縄文土器や黒曜石(神津島)などを入手していた。
しかし、200年間近く継続した倉輪集落の繁栄も、5,000年前頃(中期前半)には数人が生活する小規模集団に陥り、その直後に消滅してしまった。その理由は明らかではないが、彼らは島で死滅してしまったのであろうか。また、遠くオセアニア地域に縄文土器と酷似した文様をもつ土器(ラピタ式など)が発見されたという報告もあり、彼らが丸木舟で八丈島よりさらに南の島々に移住したことも否定できない(小田2000,2002)。
八丈島で三番目に発見された八重根遺跡からは、弥生時代後期〜古墳時代前期 (第 1文化層)、古墳時代後期〜奈良・平安時代 (第 2文化層) 、さらに中世・近世(第 3文化層) にわたる 3時期の文化層が確認された(図8・9)。八丈島で過去に発見された 2ヵ所の遺跡(湯浜、倉輪)は共に「石器時代」であったが、今回発見された遺跡はそれ以降の時期を中心にしている。
1987年 (昭和62)7月、八丈町大賀郷八戸の八重根漁港拡張工事現場で、都文化課学芸員によって、その土砂や崖断面から厚手無文の土器が多数発見された。直に八丈島八重根遺跡調査会(団長・國學院大学永峯光一)が組織され、合計 4回の発掘調査が実施された。発掘面積は、島嶼遺跡最大規模の20,980平方メートルにも及んだ。
発掘調査は、第1次(1987)、第2次(1989)、第3次(1990)、第4次(1991)まで実施された(永峯ほか1993)。
遺跡地は西山と東山火山の接した東西に開いた平野の最西端に位置し、八重根漁港が接していることから「八重根遺跡」と命名された。また当地は3,000年前以前に水蒸気爆発した火口(カルデラ)で、火口外壁が遺跡を囲むように高くそびえている。遺跡地には10センチ幅の大規模な「地割れ跡」が多数認められ、この割れ目に砂礫・巻貝・サンゴ・コケ虫などが堆積していた。この地割れ跡は、中世期の層準から基盤層にまで達していることから、八丈島の中世期に大地震があり、高さ10メートルを越える大津波が遺跡地を襲ったことが読み取れる。そして各文化層準には、必ず大規模な「鉄砲水跡」が走った痕跡が観察されている。
遺跡地の堆積物は3〜4メートルで、大きく6枚の自然層に分けられ、文化層は3枚確認された。第1文化層は弥生時代後期〜古墳時代前期並行期、第2文化層は古墳時代後期〜奈良・平安時代並行期、第3文化層は中・近世並行期である。そして、各文化層からC-14 年代測定が行われ、580 ±100y,B.P.(Gak-13938) 地割れ中の貝殻(第 3文化層)、1790 ±100y,B.P.(Gak-13984)炭化物(第 2文化層)、2270 ±100y,B.P.(Gak-13988)炭化物(第 2文化層)、 2090 ±100y,B.P.(Gak-13985)炭化物、2300 ±120y,B.P.(Gak-13986)炭化物(第 1文化層)、2370 ±160y,B.P.(Gak-13987)材(第 1文化層)という結果が得られた。
第1文化層からは、遺物集中出土地点 2ヵ所、大型土坑 1基、小型土坑 6基。第2文化層からは、炉跡 120基、遺物集中出土地点32カ所、小ピット。第3文化層からは、獣骨埋納土壙 1基、土坑 1基、土坑群、大溝 1条、小ピット群、玉石垣が確認された。
遺物集中地点:土器・石器などが集中した場所が各所に存在し、住居跡、土坑などの遺構の存在を確認したが、特に掘り込みなどは検出されなかった。したがって、この遺物集中地点は、使用済の土器・石器などを一括遺棄、廃棄した場所と考えられる。
炉跡:屋外炉型式の遺構が121基確認された。その大半は第 2文化層(120基) の時期で、円形、楕円形、長楕円形を呈した浅い掘り込み中に焼土が堆積している。この遺構内には礫が敷かれたものと、無いものが認められ、形状、規模、掘り込み状況、付属施設などから大きく礫併設炉、貼床炉、地床炉、焚火的簡易炉の 4種類に分類される。炉の機能としては、煮沸が主目的と考えられるが、炉内から土器の出土も少なく、そうした状況もない。しかし、炉周辺に分布する土器には、厚手の壺、甕、鉢などで、黒色のススが土器底部から同部上半まで付着していた。また自然科学分析(パリノ・サ−ヴェイ研究所)で、土器内部の付着物に魚介、海草類の脂質(脂肪酸、ステロ−ル)が検出されおり、また炉内土壌の植物珪酸体分析で燃料材にはキビ族、タケ亜科、ウシクサ族(特にススキ属)などのイネ科植物、樹木の葉部(スダジイ)などが判明している。他に土器製塩の証拠を探すべき分析も行ったが、海水の強い影響を示す成分が土器胎土中に存在していなかった。
土坑:第3文化層の中・近世の土坑(5基) について、リン・カルシウム分析(パリノ・サ−ヴェイ研究所)が行われ、その一つに墓壙の可能性が指摘された。また同じ層から獣骨を埋納した土壙が発見され、西本豊弘(国立歴史民俗博物館)の鑑定で、本州や西表島より小形のウシ(3歳程度) 1頭分とされた。
土坑群:奈良・平安期に、遺跡の海岸寄りにサ−クル状に配列された土坑群が確認され、何かの建物の可能性が指摘された。
溝:この遺跡の存在する低地帯の中央部を山側から海岸部にかけて走る大溝で、湧水、雨水を流す当時の水路(小川)と考えられる。近世以降の層から掘り込まれていた。
玉石垣:人頭大の海岸玉石が見事に積まれた「玉石垣」は、八丈島観光の目玉になっているが、第II層上面(近世以降)から構築された同様の玉石垣跡が存在していた。
土器:本土から搬入された若干の弥生土器と土師器、そして地元で焼かれた大量の厚手・粗製土師器類が存在している。弥生土器は、甕形土器が中心で高杯形土器も認められ、弥生時代後期中葉の久ケ原式期(2,100年前) である。土師器には、杯形土器 、壺形土器 、甕形土器 が搬入品として存在し、南関東系・駿東系で古墳時代後期の鬼高式期に比定されている。そして、大多数の地元で焼かれた「厚手土師器」には、壺、甕、鉢、杯、椀類があり、これらの土器は粘土紐巻き上げ、輪積み技法によって成形されている。また小型の鉢、杯、椀類が存在し、これらは粘土紐巻き上げ、手捏技法によるが、杯、椀類は手捏技法に限られる。
陶磁器:古期のものは、常滑系の甕(14 世紀後半〜15世紀前半)、瀬戸・美濃系の壺 (15世紀後半16世紀前半)がある。新期のものは、瀬戸・美濃系、備前系陶器(15世紀後半〜17世紀前半)、瀬戸・美濃系、肥前系磁器(18世紀後半〜19世紀)である。
石器:弥生時代後期中葉の久ケ原式期(第 1文化層)に、大量の石器類が発見されている。スクレイパ−を中心にして、斧状石器、磨石、敲石、石皿などがある。大半は地元の安山岩、玄武岩を使用しているが、神津島産黒曜石製スクレイパ−が 2点出土している。
紡錘車:第1文化層の古墳時代相当期から1点出土した。おそらく実用品ではなく、何らかの「まじない」の遺物と考えられ、石材からして本州からの搬入品であった。
瓦:第I層から近世期の平瓦片が1点出土した。「愛○」という刻名が入っていた。
鞴羽口:中世末から近世初頭にかけての、製鉄用具の鞴羽口が出土した。
船釘:大溝及びその付近から鉄製品、銅製品が出土した。鉄製品の船釘(中世末〜近世初頭)が判明している。
古銭:中国の北宋から渡来した「太平通宝 (西暦 976〜983年) 」「天禧通宝 (西暦1027〜1022年) 」が出土した。
最初の八重根人が渡島した弥生時代後期(2,000年前頃) は、西山、東山の噴火活動も終息し、現在と同じひょうたん形の島環境を呈していた。八重根の浜に上陸した本土伊豆半島付近の弥生人は、八丈島大賀郷八戸の海岸に面した火口低地部に集落(掘っ立て小屋か)を構え、地元の安山岩、玄武岩を使用して多くの剥片石器を製作した。石器器種の大半は刃器であることから、魚介類の調理が中心と考えられる。また多数の炉跡の存在から、火熱を利用した魚介類の加工も行っていた可能性が大きい(第1文化層) 。
それほど時間を置かず、第二回目の八重根人が渡島する。やはり伊豆半島、神奈川県海岸部の古墳時代人(1,500年前頃) である。彼らはこの八重根集落に本格的な「鰹加工工場」を建設し、地元の粘土を使用して多量の煮沸用鉢形土器(八重根式とも呼ばれる)を製作した。炉跡も各種考案され、100基近い炉から煙が立ち上がっていた。第三回目の八重根人の渡島は、奈良・平安時代である。引き続き鰹加工工場を運営している(第2文化層) 。
中世以降の八丈島は、相模の国(小田原北条氏)の支配地として、国地の封建社会に組み込まれていく。もはや鰹加工工場ではなく、貢納物としての絹織物(黄八丈)生産地として重要な地位を与えられる島になっていた(第 3文化層) 。
八重根集落で生産された鰹製品がどの様な物かは判らない。たぶん今の「生鰹節」のようなものであったと考えられ、奈良時代にも伊豆諸島の特産物として、平城京に生鰹節を貢納した記録も残されている。それにしても黒潮本流を越えた八丈島にまで、大挙して海産物を生産しに渡航してきた八重根人のエネルギ−に感心せざるをえない。
八丈島で 四番目に発見された火の潟遺跡からは、土器、鉄製品をもつ「製塩集団」の活動跡が確認された(図10)。この火の潟人の故郷は、紀伊半島の伊勢湾周辺の人々と考えられる。
1987年 (昭和62) 秋、八重根遺跡の現地説明会で、地元民が八重根遺跡と同様な土器片が拾える場所を教示した。この報告を受けた調査団員と町教育委員会の担当者が、早速現地に赴いたところ、今まで遺跡が無いとされていた西山(八丈富士)側の永郷地区にその場所はあった。前面に八丈小島を望む海岸際で、崩壊した崖面土壌中に多数の土器片が発見された。遺跡名は字名をとって「火の潟遺跡」と命名された。
発掘調査は、第1次(1988)、第2次(1989)の二回実施された(青木ほか編1991)。
火の潟遺跡は、これまで先史時代遺跡が存在しないと考えられていた西山の北西部永郷地区付近に存在する。西山の裾野が八丈小島側に落ちる海岸際にやや小高い独立丘が形成され、この小丘の海側の崖が自然崩壊し波に大きく削られカッテング状になっている。土器は、このカッテング断面から崩落し、発掘前には多数が海岸に散布していた。
層序は現地表から 2.1メートルの深さまで、11枚の火山灰、粘土、砂礫層から成っており、文化層は基盤に近い第10〜11層中に一枚確認された。
時期は、土製釜を使用していることと、竈を持たず粘土貼りの地炉の構築技術からして中世(鎌倉時代)以前と判定される。そして鉄器が出土していることから、八重根遺跡の結果、つまり第3文化層 (弥生後期から古墳時代前半並行期) は、まだ石器が使用され「石器文化」の残存現象が認められ、第2文化層 (古墳時代後半から奈良・平安時代並行期)になって、利器としての石器が消失し「鉄器」使用に変わっていることから、平安時代並行期と考えられる。
遺構には、炉跡、ピット群、遺物集中地点などがある。
炉跡:構造的に次の2形態に分類される。A類は細長い円柱状の自然石を立て、それらが立石群として組になり、この周辺が粘性土で貼り付けられ浅い窪みと硬い床になっている場所で地床炉と考えられる。B類は不定形の浅い掘り込みをもち、このピットの内部に自然石を配置するもので、焼土も上部に認められる。いずれの炉跡からも土器片が多数発見される。本遺跡から A類が4基、 B類が1基確認された。
ピット群:円形、楕円形のピットが11基集中して分布していた。比較的に小形で掘り込みも浅く、貼り床的に故意に埋め戻された形跡が認められる。このピット群の周囲も炉跡と同様に粘性の強い土で貼って焼き固まっている。このピット群は立石群と同じく対をなして配置されている。また、このピット群は切り合い関係から 2時期以上に分かれる可能性がある。このピット群の周囲から製塩用土器が多量に出土した。
遺物集中地点:地床炉、ピット群のほかに、土器類が集中して発見される場所が認められた。これは遺構中の土器類の集中箇所と区別され、山麓側の土器製塩地区と、海側の土器廃棄地区の二つの地域に大別される。
遺物には、土器、鞴(ふいご)、鉄製品などがある。
土器:土器は多量に存在し、全て「製塩用土器」と考えられ、器形から 2つのタイプに分かれる。Aタイプは、底部から緩やかに開く深鉢形を呈する土器で、出土土器の大半はこのタイプである。Bタイプは、基本的には深鉢形を呈し、口縁部には羽釜状のツバを有している。土器の製法は粘土帯による輪積み法で、器面は指によるヨコナデ、若干ヘラナデがみられる。胎土は白色粒子を含み、混和材として稲藁が多量に使用されていた。
鞴の羽口:炉に強風を送るために使われる「ふいご」の羽口が出土した。黄色味を帯びた茶褐色の釉質物質が付着している。
鉄製品:北側のトレンチ中央部から 2点出土した。形状は先端が尖り断面が四角形の釘状鉄製品である。
平安時代に近畿地方の伊勢湾あたりから、八丈島に渡島した製塩集団がいた。彼らは八丈小島が前面に見える、西山(八丈富士)側海岸に集落を形成した。この場所は火の潟と呼ばれ、やや緩やかな山麓部に独立小丘が海岸に張り出し、この平坦部に多くの製塩施設が構築されている。製塩用の土器は地元八丈島で製作され、海岸から塩水を汲み上げてはこの土器に入れて、地炉で煮ることで塩分を凝縮し塩を生産していた。
なぜ火の潟人はこの黒潮激流を乗り越えてまで、八丈島に渡島し製塩生産を行ったのであろうか。この頃、島にはすでに八重根人が生活しており、単に島の生活用製塩を行う工人集団であったのか、または故郷の伊勢・志摩地方に八丈島の良質な塩を運搬する「塩商人」であったのか、この謎に対する興味は尽きない。
八丈島には、もう一つ謎の先史文化が存在している。「円筒石斧文化」と呼べる片刃の磨製石斧を特徴とする石器群である(図7)。まだ、原位置での文化層の確認はないが、他の遺跡との比較で「石器時代」の所産であることは確かである。
八丈島は西山と東山火山から成るひょうたん型の島で、西山は新しく溶岩が厚く堆積し、東山は古く土壌化した火山灰を主体にしている。島では農業用耕作土として、東山の土が西山地域に運搬され「客土」として利用される。ここで扱う円筒石斧文化は、この客土として西山地域に運ばれた土砂の中に発見された特徴的な磨製石斧類である。現在、供養橋、三根、八木沢、樫立向里遺跡などが確かな「遺跡」として登録されているが、まだ現地での「包含層出土」例がなく、時期・年代、遺跡の様相など多くの内容が明らかではない。
1955年(昭和30)頃、三根地区孫兵衛の高床倉庫改築工事で、 1メートル下の黒色土壌中からタガネ状の磨製石斧が1点発見された(図7-2)。この事実は、1962年(昭和37)5月の樫立向里の客土中発見の磨製石斧が島内で報じられたことで周知された。そしてこの2点の磨製石斧は、樫立向里例が弥生文化、孫兵衛例が大洋州諸島の系統に属する型式と考えられた(小川1971)。
1987年(昭和62)3月、孫兵衛の石斧包含層確認調査が八丈町教育委員会と都文化課で行われた。しかし、現地は地表下2メートルまで西山火山の黒色溶岩流堆積物が堆積しており、目的とした黒色土壌は認められなかった(小田1989)。
孫兵衛の石斧は、全体を敲打で棒状に整形されタガネ状を呈し、刃部は片方から研磨されノミ状にやや凹んでいる。この石斧の型式は、日本列島の縄文・弥生文化には認められないものである。類似例は、マリアナ諸島に多数存在している(Thompson1932,江上1973)。つまり、孫兵衛遺跡のタガネ状片刃円筒石斧は、八丈島よりさらに南方地域と比較すべき石器であることが理解される(小田1989)。
供養橋遺跡は、三根地区供養橋の南側支丘である。この丘陵先端東側を崩し国際観光ホテルに客土した際、4点の「大型磨製石斧」が採集された(図7-3〜6)。この報を受け都教育庁文化課は、石斧の写真撮影を行った。その後、1972年(昭和47)の東京都遺跡分布調査(永峯ほか1973 )、1974年(昭和49)の国立歴史民俗博物館の資料カ−ド作成で、この石斧の調査を実施したが現物は行方不明になっていた(永峯ほか1976)。ところが、1975年(昭和50)八丈島歴史民俗資料館がオ−プンした際、供養橋遺跡の1点がホテル為朝園から寄贈され、1981年(昭和56)の東京都島嶼地域遺跡分布調査団によって記録された。そして、この石斧に東山側の火山灰土が全面に付着しており、供養橋地点の土壌とも一致したのである(小田1989)。
供養橋遺跡発見の4点の磨製石斧は、すべて「円筒石斧」としての形状を良く呈し、刃部は片刃石斧としての機能を保持している。そして発見状況からして一括品と考えられ、こうした出土状態は一般的に「デポ」と呼ばれる石器埋納遺構である。
1958年(昭和33)伊豆諸島文化財総合調査の第 3年次に、考古学班の一部が八丈島に渡島したが、石器時代の遺跡は発見されなかった。この時、都立八丈高等学校で2点の磨製石斧を実見したが、形態が縄文本土例と著しく異なり、どこか南方から持ち込まれたもので、八丈島出土品という登録をためらったのである(杉原1967)。その後、この石斧は 2点とも東山側西北麓から出土したことが判明した(小田1977, 1978)。三根発見資料は、島民が八丈高校に持ってきたもので、敲打で断面を円形に全体形を乳棒状に整形し、刃部は両面から研磨され、裏面がやや凹状を呈している。この石斧は太平洋沿岸地域の縄文時代後期(3,000年前)の円筒形磨製石斧(遠州型、乳棒状石斧)に類似している(小田1989)。八木沢発見資料(図7-8)は、八丈高校の客土に入っていたもので、敲打で断面をカマボコ状に全体形を長方形に整形し、刃部は両面から研磨され、裏面がやや凹状を呈している。この石斧は琉球列島・八重山諸島の新石器時代後期(2,000〜1,200年前)の「屋根形」磨製石斧に酷似している(小田1989)。
1950年(昭和25)5月24日発見という記録付きで、東京在住の旧島民が八丈歴史民俗資料館に寄贈した資料がある(図7-7)。敲打で頭部がやや細長い撥型に整形され、刃部は直線状で片側から先端に研磨が施され、裏面は平坦に仕上げられ、断面はレンズ状である(小田1989)。この石斧に類似した資料は、はるか南のマリアナ諸島(グァム、ティニアン、サイパン島)のラッテ期(800年前以降) に多く認められている(Thompson 1932, Reinman 1968,江上1973 )。
1964年(昭和39)8月、東京の久我山高校生が大賀郷小学校の校庭で発見した資料がある。頭部だけで刃部の状態は不明であるが、敲打で全体を円筒状に整形し入念に全面を研磨し仕上げている。この石斧は三根例に酷似しており、本土の太平洋沿岸部に分布している円筒状石斧(縄文時代後期)と関係がありそうである(小田1989)。
八丈島に発見される片刃の「円筒石斧」類は、大きく3つのタイプがある。第一は供養橋遺跡例の大形円筒石斧群、第二は、孫兵衛遺跡例のタガネ状石斧、第三は八木沢例の屋根型石斧である。これらの石斧類は、日本列島の縄文・弥生文化には認められない石斧型式である。周辺地域での類似例では、第一群は琉球列島から長崎県五島列島、鹿児島県南部、そして本州の太平洋沿岸地域に分布する石斧類に共通した様相が認められる。第二群は小笠原諸島、マリアナ諸島に多数存在している。第三群は琉球列島の八重山諸島に特徴的に発見されている。
こうした特徴的な石斧類の存在から、黒潮本流の外側に位置した「八丈島の先史文化」は、西太平洋地域の複雑な文化交流の十字路であったことが理解されたのである(小田1999)。
ここで八丈島の先史文化についてまとめておきたい。
八丈島は本土から約300キロ南の太平洋上に浮かぶ孤島で、また黒潮本流の外側に位置する亜熱帯の島でもある。現在までに4ヵ所(湯浜・倉輪・八重根・火の潟遺跡)の考古学遺跡が発掘調査され、その成果から八丈島の有史以前の歴史が判明されている。その成果によると、この南海の孤島には「八丈島先史時代」と呼称できるほどの特徴的な島嶼文化が形成されていたのである(図3)。
湯浜遺跡(7,000〜5,000年前)で代表される。厚手無文土器と特徴的な撥形の小型打製石器類と刃部磨製石斧、磨石、石皿などを保持している。現在までのところ、その故郷は特定されていないが、本土の縄文時代早期の様相も否定できない。
倉輪遺跡(5,500〜5,000年前)で代表される。本土の縄文土器と石鏃、磨製・打製石斧、砥石、各種装身具、骨角器など豊富な遺物がある。その故郷は土器型式から、南関東地方と近畿・中部地方北半の縄文人の渡島文化である。
供養橋、孫兵衛遺跡(年代不詳)で代表される。円筒片刃石斧に特徴があり、その形態から琉球列島(黒潮の道)や、マリアナ地域(太平洋の道)からの渡島文化の可能性が高い。
八重根遺跡(1,700〜1,200年前)で代表される。最下層文化に厚手無文平底の鉢形土器と本土の弥生土器、土師器が伴い、若干の石器、紡錘車が存在する。その故郷は、伊豆地方や神奈川県南部の弥生・古墳時代人の渡島文化である。
八重根遺跡と火の潟遺跡からは、1,200〜1,000年前の文化層も確認された。八丈島ではこの奈良・平安時代の確かな資料が少なく、この両遺跡の発掘成果で多くの謎が解明された。それによると、伊豆地方や伊勢・志摩地方からの渡島文化が確認された。
加藤有次先生と初めてお会いしたのは國學院高等学校時代で、私たち付属高校生は大学の発掘調査によく参加し、いつも授業が終わると、遺物整理のためクラブ員と青山一丁目駅から地下鉄に乗って渋谷の國學院大學考古学資料室に通っていました。そのころ加藤先生は樋口清之先生の助手をされており、高校生の私たちが土器洗いをしていると、白衣姿で現れ笑顔で考古学の話を良くして下さったことを懐かしく思い出します。大学に入ってからは、授業の合間でも考古学資料室に通うのが日課になり、加藤先生のご指導で博物館学芸員としての基礎を学ぶことが出来ました。現在、どんな展示会や報告書作成でも難なく対応できる素養は、この時の訓練の賜物と感謝しております。卒業して都文化課に籍をおいてからは、小平市鈴木遺跡で加藤先生団長のもと、日本最大級の旧石器時代遺跡の発掘調査を担当させて頂き、10年以上に亘る調査で日本の研究史を書き換えるほどの大成果が挙げられ、大部の報告書、普及書、研究論文も多数刊行することができました。この間、國學院大學が中心になった八丈島歴史民俗資料館展示構想委員の一人として、加藤先生と八丈島を度々訪れたことがあり、先生は八丈島をとても気に入ったご様子で、「小田君!この島は〈黒潮文化の十字路〉だね」とよく話して下さったことを思い出します。このお言葉は加藤先生のすばらしい思い出として、拙著『黒潮圏の考古学』『遥かなる海上の道』の一章として使用させて頂きました。
最後に、高校生の頃から40年以上にわたりご指導を受けた加藤先生が、渋谷で開かれた先生の記念祝賀会でお元気なお姿を拝見してまもなく、突然この世を去ってしまわれました。いつもニコニコと私たちに接して下さった先生に、もう二度とお会いすることはできません。ここに加藤有次先生から受けた多くの学恩に感謝するとともに、心からのご冥福をお祈りして本稿を先生に捧げます。