東京大学総合研究博物館には、日本の考古学研究史上に輝かしいーページを残した数々の「考古資料コレクション」が収蔵されている。こうした貴重な資料類は、東京大学に所属した著名な研究者らが、その調査研究活動などで収集した遺物類である。また同大学に何らかの関係をもった団体や、個人コレクターなどからの寄贈資料も多数存在している。
筆者は1972(昭和47)年東京都教育庁に在籍し東京都島嶼部の遺跡調査を担当していた時期に、明治時代に坪井正五郎、鳥居龍蔵両博士らが調査した伊豆諸島の伊豆大島「龍の口遺跡」の発掘資料を、さらに大正時代に植物学者の中井猛之進博士がマリアナ諸島の植物調査の帰途に、小笠原諸島「北硫黄島」から持ち帰ったとされる「丸ノミ形石斧」の資料調査をしたことがある(宮崎・小田他1973、小田1978ほか)。さらにその後の1995(平成7)年には、沖縄県史の考古資料編纂の仕事で、沖縄県の考古学研究者らと1904(明治37)年に鳥居龍蔵博士が調査した「八重山諸島」の資料や、1919(大正8)年に人類学者の松村瞭博士が調査した沖縄本島「荻堂貝塚」など研究史上重要な考古資料を記録する仕事も行ったことがある(安里・小田ほか1996)。
現在は同大博物館の研究事業協力者として研究の場が与えられ、2002(平成14)年には筆者が長年に亘って太平洋諸島で収集した考古・民族資料コレクションを同大博物館に寄贈して「20世紀の石器時代展」(小田2002)として資料展が開催され、さらに2009(平成21)年には「南太平洋80s―文化の再生産の現場―」として公開展示された(西秋2009)。また2005(平成17)年には東京大学教養学部文化人類学教室に保管されていた台湾の先史学研究で著名な「鹿野忠雄コレクション」が、大阪の「国立民族学博物館」に所管替えをする準備作業を手伝った際には、多くの「台湾」関係の考古資料を研究する機会が与えられた。その中には、筆者が研究中の沖縄諸島の「伊江島」のシカ化石と「石器」らしい遺物が含まれており、資料責任者の承諾を得て一部を記録し発表することができた(小田2006)。この鹿野忠雄コレクションについては、国立民族学博物館に収蔵されている民族資料とともに報告書が近い将来刊行される予定という。
こうした経緯で台湾の考古資料について研究する機会が増加し、東京大学総合研究博物館に収蔵されている台湾関係資料についても研究する必要性を痛感していたところであった。ちなみに同大博物館収蔵の台湾考古資料は、50年にも及ぶ「日本統治時代」に収集された土器や石器類が存在している。そしてその中には、鳥居龍藏博士が明治期に合計4回に亘って「台湾先住民族」の現地調査を行った時の「圓山貝塚」「劍潭貝塚」などの考古資料(鳥居1897abcd)も所蔵されている。
筆者も明治大学大学院時代から國立台灣大學の宋文薫先生からはご著書などを頂いており、1988(昭和63)年10月には國立台灣大學人類學研究室を訪問したことがある。研究室では宋文薫、連照美両先生から台湾先史時代の考古資料について、自由な閲覧と貴重なご意見・ご指導を受けたことがある。そして念願の「圓山貝塚」に出かけて驚いたことに、伊能嘉矩や鳥居龍藏の文献で想い描いていた昔日の面影はすでに近代化の波で消滅し、現在の圓山公園内での表面観察では明確な貝塚の所在確認も困難な状況であった。幸いにしてこの年の4月、かつての圓山貝塚の主要部分が「国家第一級古跡」として指定され、台湾考古学研究史に輝かしい一ページを刻んだ重要遺跡が保存された意義は大きかった。
本稿は台湾の考古学研究黎明期の舞台となった台北市「圓山貝塚」の発見史を中心に、日本統治時代初期の人類学・考古学研究者らの調査活動を原典の文献資料から検証してみた。その結果、これまでの台湾の先史時代遺跡発見史では語られなかった新事実や追加資料が判明したので、今後の「台湾考古学研究史」の一助になればと考えここにまとめてみたものである。
台湾の考古学研究は、その初期の段階では、圓山貝塚を巡って展開されたと言われている(金関・國分1950)。この台湾考古学初期研究史について、最も重要な役割を果たしてきた「圓山貝塚」について、戦後の台湾人研究者による発掘調査とその研究成果を概観しておきたい(石1954ab、張1954、宋1954ab,1955、連1986、劉・郭2000ほか)。
名称は「圓山遺址」(Yuanshan/えんざん/まるやま)。地番は台北市中山區圓山里、圓山史跡公園周辺。海抜は約30m〜35.6mの丘陵地。遺跡の面積は400m×350mの規模。1988(民国27)年4月25日、国家第一級古跡に指定される。
台湾島は中国大陸と台湾海峡を隔てた、日本の九州島程度の大きさである。「台北市」は台湾島の北東部に位置し、日本の琉球列島に最も近く、与那国島から晴れた日には望見できる距離にある。
台北市は台北盆地に位置し、大屯火山群が市北部に連なり市南部に向かって緩やかな傾斜を生んでいる。市東部は内湖、南港、そして南部は丘陵地帯である。市内は淡水河の流域が広い面積を有し、基隆河は淡水河より分岐し基隆市に注いでいる。
先史時代、台北盆地の東部には「台北鹹水湖」という大きな湖が形成されていた。圓山遺址は、この湖岸に向かって東北部山麓から張り出した丘陵の先端部に存在した「小島」に立地していた(呂1997)。
現在の遺跡地は、台北盆地を貫流する淡水河と基隆河が分岐する基隆河左岸(西南岸)に位置している。遺跡地の標高は30m程で、圓山山丘上の山麓部と中腹部の二つの地域に集中した遺跡範囲が確認されている。
圓山貝塚の発掘調査は、戦後になって台湾人考古学・人類学者らによって本格的な学際的手法で行われた。その主な発掘とその成果を、年代順に紹介してみることにしたい。
@ 1953年11月と54年3月(民国42・43)國立台灣大學の考古人類學科の李濟と石璋如、そして台北市文獻會によって初めて学術的な正式発掘が行われた(石1954ab、張1954)。成果としては、上層(圓山II層)から圓山文化と下層(圓山I層)から貝塚を伴わない縄蓆文土器文化が確認された。そしてこの下層文化は後になって、大坌坑遺跡から発見(1963)された台湾最古の土器文化と同じであることが理解され「大坌坑文化」と呼称されるようになった(郭2000ほか)。
A 1954・55(民国43・44)年國立台灣大學の宋文薫は、台灣大學に所蔵されている圓山貝塚出土の石器の集成と分類を行った(宋1954ab,1955)。これによって圓山貝塚出土の石器類が多種多様であることが理解された。さらに宋文薫は、石器製作技術も極めて進歩的であることを指摘している(宋1964)。
B 1964(民国53)年宋文薫とアメリカ・エール大学の張光直は、圓山貝塚出土の貝殻と大坌坑遺跡から出土した木炭を利用して放射性炭素年代測定を行なった(宋・張1964,1966)。その年代値は、3,860±80BP(Y-1547)、3,540±80BP(Y-1548)、3,190±80BP(Y-1549)であった。これによって圓山文化の年代が、層位による年代区分を含め、紀元前2,500年頃から西暦元年くらいまで続いたことが判明し、戦前からの年代論争に一応の終止符がうたれたことになった。
C 1980(民国69)年、年國立台灣大學の黄士強と中央研究院歴史語言研究所の劉益昌による発掘調査が行われた(黄1981)。
D 1986(民国75)年國立台灣大學の連照美によって発掘が行われ、圓山文化は石器製作技術と並行して玉器の製作も同様に極めて重要な問題であるとした(連1986)。さらに連照美は学史的な背景と位置づけを行うとともに、保存を前提にした現状確認調査を行い、圓山貝塚の重要性を再認識しその必要性を訴えた。
E 1987(民国76)年、黄士強が発掘調査を行った(黄1989)。
F 1990(民国79)年、台灣地區史前考古資料調査研究計画調査が行われる。
G 1991(民国80)年、台北市による中山三十三道路予定地の緊急調査が行われた(黄1991)。
H 1992(民国81)年、黄士強による遺跡範囲確認調査が行われた(黄1992)。
I 1998(民国87)年8・10月、黄士強、劉益昌による児童主題公園予定地の緊急調査が行われる(黄・劉・楊1999a)。
J 1999(民国88)年3・4月、黄士強と劉益昌により、史蹟公園範囲確認調査が行われている(黄・劉・楊1999b)。
K 1999(民国88)年からは台北市政府民政局の委託研究で、劉益昌と中央研究院院士・國立台灣大學名誉教授の宋文薫、日本東京大學考古學博士候選人の郭素秋、國立台灣大學民族學研究所の陳俊男らによる市内遺跡の試掘調査が行われ、2000(民国89)年にはその詳細な考古資料の集大成報告書が出版された(劉・郭2000)。
台北鹹水湖に張り出した丘陵先端部の小さな島の集落遺址で、この湖沼で漁撈を営み、山麓では狩猟を、また山麓の斜面や平地では農耕(稲作も)をも行っていた。遺構としては大小の貝塚群(タイワンオオシジミが主貝種で、ハマグリ、バイ、カキもある)から形成されている。遺構しては、住居の可能性のある柱穴群、灰層址、墓壙群などが確認されている(劉・郭2000)。
台湾文化編年の西海岸北部地区、新石器時代中期の「圓山文化(圓山期)」の標準遺跡である。
現在までの発掘調査で、舊石器時代晩期持續型文化(10,000〜6,000BP)、大?坑文化(55,000〜5,000BP)、訊塘埔文化(4,500〜3,500BP)、圓山文化(3,500〜2,500BP)、植物園文化(2,500〜1,800BP)、十三行文化(1,000〜400BP)の6枚の重複した文化層が確認されている(劉・郭2000)。
圓山文化(圓山期)の土器は、砂粒の入った手造りの淡褐色土器と少ないが彩文土器(郭2002)がある。ほとんど無紋であるが、文様としては押捺文、網目文がある。器形は丸底の甕や脚台付の甕、鉢、盆、瓶などもある。甕には口縁部から肩部にかけて一対の橋状把手を有するものや、また双口甕も存在している。
石器には有肩石斧、有段片刃石斧、磨製の石鏃、有孔石鏃、箆形石器、漁網錘、砥石、凹石などがある。装身具には玉玦、玉環、玉佩、石製小玉がある。骨角器にはヤス、銛先などがある。また戦前には巨大な大砥石が発見(宮原1919、郭2000)されている。遺構には甕棺葬法の仰臥伸展葬があり、埋葬人骨からは首狩りの風習や抜歯の痕跡が認められている(宋1954ab,1955、呂1997)。
現在の「台湾」の地理的範囲は、台湾本島とその付属島嶼、そして澎湖諸島が含まれる。この中国大陸の東側、太平洋上にある台湾島に関する古代の物質文化資料の記述は、古く中国の明・清時代にすでに存在している。その内容は、当時この「島嶼」で生活していた「先住民族」の日常の生活・習慣の中で使用されていた「道具類」の記録であった。1724(雍正2)年の清朝時代に書かれた『番俗圖』には、当時の先住民の狩猟・漁撈・農耕・家屋造りなどの様子が詳しく描かれている。
その後、オランダはアジア進出拠点を中国沿岸に求めたが失敗し、1624(天啓4)年の明朝時代に台湾島の大員半島(現在の台南市安平付近)に基地を築き、台湾島の平地に居住する先住民(平埔族)を統治下(1624〜61年)に置いた。この時期の資料として、ヨーロッパ人宣教師による先住民族の社会状況などを日誌(オランダ語)としてまとめたものが残されている。
他方、スペインは1626(天啓6)年台湾島の東北端(基隆、淡水河口一帯)に城壁を築き周辺の先住民を統治下(1626年〜1642年)に置いた。がしかし、1642(永暦8)年にオランダに追い出された。この間、宣教師による先住民の言語、社会組織、風俗習慣などを記録(スペイン語)した資料が残されている。
1661(永暦15)年中国は明朝時代が終焉を迎え、大陸を追われた鄭成功が台湾島に渡り、スペイン人を追い出し漢民族の「鄭氏政権」(1662年〜1683年)を樹立した。しかし、鄭氏政権は1684(康煕24)年に清朝軍によって討伐され、台湾島は「清朝政府」(1684年〜1895年)が統治することになった。清朝は台湾島の先住民を「番人」と総称し、「生番」(非漢族)と「熟番」(漢族に近い部族)に区別した。そして、この清朝時代の先住民の記録(中国語)には、@個人の見聞録、A地方誌、Bアーカイヴ資料、C絵画資料など多数が残されている。
1895(清光緒21、明治28)年台湾島は、日清戦争によって清国から日本に割譲された。そして、日本はその後1945(民国34、昭和20)年の終戦まで、50年の長きに亘って「植民地支配」を継続した。台湾島における「考古学的調査」は、この日本植民地支配時代に開始された。その初期は、臺灣総督府と東京帝國大學の研究者が実施した。その後、臺北帝國大學の設立と土俗人種学教室開設に伴って、教室員の研究者らによって推進された。終戦後は、臺灣大學の設置と台湾の考古学研究者らの台頭と活躍によって、今日の新しい研究体制が確立したことは周知の事実である。
いま台湾の歴史を語るとき、「誰の歴史か?」ということを考える必要があるという。それは現在の台湾の社会・政治・経済の発展は、12世紀頃から大陸沿岸部から澎湖諸島を経由して台湾島に渡島してきた「漢民族」が中心に展開してきた歴史がある。一方、台湾島には数万年前の先史時代から現在まで、列強国による植民地化以前から「オーストロネシア語族(南島語族)系先住民」(平埔族・高山族)が「先住民族」として連綿と生活している事実がある。今こうした両民族の共存・共生の歴史を考察することも、この「台湾史研究」にとって重要な視点であることを忘れてはならないと解説されている(劉1996、周2007ほか)。
ここで台湾考古学についての総括的論述を行った研究者らによる先史時代遺跡発見の事情、特に「圓山貝塚」についての解説内容を紹介し、その問題点を整理しておくことにしたい。以下に年代順にその要旨を述べる。
「臺灣に石器時代の遺物が存在することは、臺灣占領後、直ちに知れたのであって、その有名なる場處は、基隆河の上流で、今日の臺北圓山で、臺灣神社のある邊である。尚ほ私は、臺北の附近にて之れを発見したのである。」
「臺北圓山公園一帯の地が石器時代の遺蹟なる事は既に明治29年阿波傳之承及伊能嘉矩(注一)等により知られ、明治30年には貝塚として鳥居龍藏(注二)の報告あり、・・・遺蹟地は圓山公園全部より廣く東方に西庄子に亙り、更に基隆河を越え臺灣神社神苑より其東北脚地大直に連り、(西庄子には貝塚現存すれど大直の劍潭貝塚は現存せず)又分流の一は植物園より臺北第一中学校敷地等に迄及ぶ。・・・昭和10年12月圓山公園一部の貝塚を構成せる貝層二個所を指定して保護・・・」
「臺灣に於ける従来から知られた著名な遺跡は、圓山貝塚を中心とした臺北市附近の遺跡、・・・最初に発見されたのは領臺直後の明治三十年で、・・・これより先國語學校の教諭粟野傳之丞という人が圓山で石器を拾得したと云う知らせにヒントを得て三十年三月七日に伊能嘉矩氏が宮村榮一氏と共に實地に圓山に赴き、貝塚の存在を知り、圓山貝塚と称したのに始まる。後明治三十年十月十二日には鳥居龍藏氏が調査され、・・・」
「・・・明治30年(1897)、国語学校教諭粟野博之丞氏は、円山において石器を拾得し、同年三月七日、伊能嘉矩・宮村榮一両氏は、同地に貝塚を発見した。この円山貝塚の発見は、遂に台湾先史学研究の端緒となったのである。・・・鳥居竜藏博士は、円山貝塚が発見された明治30年(1897)に台湾にやってきた。・・・彼は円山貝塚を調査した後(博士が調査したのは、現在の円山公園内の貝塚ではなくて、基隆河北岸のもと台湾神社、劍潭寺のあった地域の劍潭貝塚である)、・・・」
「いよいよ明治二十九年の夏、私は・・・東京を出発し・・・臺北に到着した。・・・やがて私は淡水河畔で石器時代の貝塚を発見した。・・・その後、この淡水河畔に日本の神社が建設された際、さらに大きな貝塚が発見され、下層は石器時代、その上層は金属器時代であることがわかった」
「1897年に円山貝塚が発見されてから、台湾の考古学の研究が始まったということが出来る。」
「・・・伊能嘉矩と鳥居龍藏による台北盆地を貫流する淡水河と基隆河の合流する沿岸台地に発見された円山貝塚の調査が行われた・・・、鳥居は円山貝塚を調査した後、・・・」
という内容である。
これらの記述の中での問題点を以下に整理すると、
第一は、「圓山貝塚」という著名な貝塚遺跡に対しての認識である。鳥居龍藏(1925)は台北郊外の淡水河と基隆河の合流地点に石器時代の遺跡が集中していて、その場所は「臺北圓山」であると説明している。当時の地図を検討すると、この合流地点の南北に「圓山」という地名が載っていることから、鳥居はこの一帯を圓山と考えていたらしい。したがって、伊能が発見(1897)した圓山貝塚(公園内)と鳥居が新たに確認(1897)した貝塚(台湾神社地)の両方を区別せずに「圓山貝塚」として文化的論述を行っていた可能性がある。その証拠に、当時の圓山貝塚の分布範囲は広大とされ、宮原敦(1936)によると圓山公園のある台地から西庄子、そして基隆河を越えた対岸の台湾神社にまで及んでいる。しかし、現在は「圓山貝塚」「西新荘子貝塚」「劍潭貝塚」の三ヵ所の別の遺跡として登録(劉・郭2000)されている。
第二は、鳥居龍藏は台湾での貝塚遺跡発見年を、死去の年(82歳)に発行された著書(1953)で、明治29(1896)年の第1回台湾調査時(7月に渡台)としている。そして、この記述が多くの台湾研究者の引用(田畑1997ほか)となっている。しかし当時の原典(鳥居1896ab,1897abcd)を詳細に検討する限りでは、この発見の年代は明治30(1897)年の第2回台湾調査の10月10日〜13日である。
第三は、鳥居龍藏が第2回台湾調査時(10月10日〜13日)に発掘調査した貝塚遺跡の場所である。鳥居龍藏は「圓山」で貝塚を発掘したと述べ(鳥居1897c)、この貝塚の場所は後に台湾神社が建てられたと述べている(鳥居1925,1953)。
第四は、台湾の先史考古学研究は、鳥居龍藏による圓山貝塚の発見が端緒になった。また圓山貝塚の発見から始まったという記述である(金関・國分1950、米沢1996、國分1999)。この見解は間違いで、その前年の1896(明治29)年にすでに「芝山厳」で「石器」が発見されている事実であると、台湾の考古学者の宋文薫が指摘している(宋1953,1996)。蛇足ながら、宮本延人(1939)、金関丈夫・國分直一(1950)らによると、圓山貝塚発見前年(1896)の粟野傳之丞の「石斧1点」の拾得地が「圓山」と記されている。がこれは、原典を検証するに「芝山厳」での発見品であり明らかに誤りである。
こうした台湾考古学史における幾つかの問題点を踏まえ、新しく原典に当たってその事実を以下に追跡してみることにしたい。
岐阜県(飛騨高山)で明治20年代に考古学的活動をしていた田中正太郎(斎藤2000)は、東京人類學會会員として同会の東京人類學會雑誌に地元の遺物発見報告を多数投稿している(田中1889〜1899まで15編)。田中正太郎は飛騨の遺跡報告記載がほぼ終了した1896(清光緒22、明治29)年4月に、人類学研究を目的に台湾に渡った。そして早速現地から、10月発行の東京人類學會雑誌に「臺灣見聞録(緒言)」という雑録で、
「・・・、石器時代遺蹟遺物の探究に従事せんと欲するなり。元來臺灣島内には、石器時代の遺蹟遺物の存在する哉、否哉は、未詳の問題にして、・・・九州の南端、種子島に連接せる琉球諸島に於て、既に幾多の磨製石斧が、發見せられたるを見れば、強ち此島に望みなしと云ふべからず、否余は却て大に望みありと信じ居るものなり。・・・後日を期して、讀者に見えんとする意あるを以てなり。」
と述べている(田中1896a:24ページ)。
田中正太郎は琉球列島でも石器が発見されているので、その列島の続きである台湾島には遺跡発見の可能性は大きいと考えていたのである。しかし渡台して百数十日は、仕事に忙殺され石器時代の遺跡・遺物の探索が出来なかったと言っている。しかし、11月発行の東京人類學會雑誌に「臺灣見聞録」という雑録で、
「凹みある石器の用法を考ふべき一材料。七月廿二日の夕方、台北大稻?に散歩し、淡水河岸に接する街を逍遥するの際、圖らず船大工が三味線の撥形をなせる鐡鑿を以って・・・、其鐡鑿を撃つ處の槌は實に圖に示めすが如き石器、即凹み石にてありき。余は直に請ふて之を貰ひ受けたり。土人は呼んでパーチウ(打石)チウツーイ(石槌)といふ。」
と述べている(田中1896b:77ページ)。
つまり、地元の船大工が「凹み石」を用いて、鉄製のノミを敲いて船の側板を製作している様子を目撃したのである。そして同様な石器は中国大陸の先住民は使用しているが、台湾の漢人までが未だ石器を使っていることに驚いている。
その後田中正太郎は、1898(清光緒24、明治31)年8月28日発行の東京人類學會雑誌に「臺灣大嵙崁の石器に就いて」という雑録を載せ、
「・・・臺灣島に於て得たる石器七拾餘個を東京帝國大學に献納せり、・・・、石器發見の場所は・・・、・・・何れも臺灣島の北部にして、淡水河の上流たる大嵙崁河の沿岸高臺の地なりとす。石器存在の有様は、市街の空地、及び茶園内に露出せるもの・・・。・・・臺北圓山公園の貝塚より出づる石器類とは、大に其趣を異にせるの顴ある事にして、・・・。(明治三十一年七月二十四日房州北條にて病気療養中記す)」
と述べている(田中1898:462〜466ページ)。
田中正太郎は1898年前半期に淡水河上流を探索し、大嵙崁河畔で5ヵ所の台地で確かな石器時代遺跡と遺物を発見した。そして、その石器70数点を東京帝國大學人類學教室に寄贈した記事を、千葉県で病気療養中(7月24日付)に投稿したことになる。そして田中正太郎は、帰国後の1899年の飛騨の報告を最後にその後の活動記録は残されていない。つまり田中正太郎は渡台二年後には、身体を悪くして日本に帰っていたことになる。
昭和4・5(1929・30)年に鹿野忠雄が集成した「台湾石器時代遺跡地名表」には、田中正太郎が新竹州の桃園郡竹庄中與、頭章庄、杖頭山麓で発見した打製石斧、凹石が載っている(鹿野1929,1930)。
臺灣総督府の嘱託員として台湾の先住民族の調査に従事していた伊能嘉矩は、
1897(清光緒23、明治30)年5月28日発行の東京人類學會雑誌に「臺灣通信(第十六回)」の中で、「臺灣に於ける石器時代の遺蹟の發見」として論説及報告を載せ、
「臺灣の北部なる臺北平野の北端にありて北淡水山麓の麓なる一丘陵(芝蘭一堡芝山岩)より昨年中臺灣総督府國語學校教諭粟野傳之烝君が石斧一個を採拾せりとて贈り寄せられましたら直ちに坪井教授の御盬定を仰きましたに正しく人工を加へたる石器であるとの御示を得ました是に於て臺灣にも石器時代の遺蹟あることを確かめ爾來其の遺蹟の探究に従ひましたが・・・」
と述べている(伊能1897a:304ページ)。
つまり、1896(清光緒22、明治29)年台北郊外の「芝山厳」で、臺灣総督府國語學校教諭の粟野傳之烝は1個の「石斧」(磨製石斧)を採集し伊能嘉矩に寄贈した。伊能は早速この石斧を東京帝國大學の坪井正五郎のもとに送り、確かな人工品であるとの鑑定を得たのである。
この伊能の送った石斧について、1896年7月4日正午から上野東照宮社前の見晴亭で行われた東京人類學會の「集古懇話会」で、坪井正五郎が「台湾磨製小石斧1個」と題して現品を紹介している(事務局編1896)。そしてこの会合では、鳥居龍藏が得意のカメラで全員の集合写真を撮影している。とすると、坪井は台湾に派遣する鳥居にこの石斧を見せたことは確実で、また鑑定を依頼し意見を求めた可能性も大きい。とにかく鳥居は、この会合の10日後の7月15日には台湾の調査に出発しているのである。
伊能嘉矩は渡台した1895(明治28)年11月に臺灣総督府嘱託になり、12月には「臺灣人類學會」を設立している。また翌年1896年1月には台北近郊の芝山厳で先住民族と銃で交戦し、その後4月には粟野傳之烝が勤務している国語学校の書記にも兼任している(江田2000)。
こうした事実から、粟野傳之烝が國語學校敷地内の「芝山厳」で石斧を発見した時期は1896年の1月〜4月頃、そして伊能傳之烝が粟野傳之烝から寄贈を受けて坪井正五郎に送り鑑定を依頼した時期は5月〜6月頃と考えられ、坪井正五郎はこの石斧を7月4日の「集古懇話会」で会員に公開したことになる。
なお、この粟野傳之烝が勤務し「石斧」を発見した國語學校敷地内の芝山厳は、旧石器時代〜新石器時代に亘る先史時代遺跡として、現在「台北市史前遺址5 芝山岩遺跡(別名・八芝蘭)」と登録されている(劉・郭2000)。
1896(清光緒22、明治29)年7月15日〜12月、東京帝國大學の坪井正五郎から派遣された人類學教室雇用員であった鳥居龍藏(20歳)は、この第1回目の台湾調査で東部地域へ二回に亘り人類学的調査を行い翌年(1897)の2月に台湾を離れている(鳥居1896abd)。
鳥居龍藏は1897(清光緒23、明治30)年7月28日発行の東京人類學會雑誌に「東部臺灣に於ける各蕃族及び其の分布」という論説及報告を載せ、結論部分で、
「余は東海岸秀姑欒渓附近(石梯坪庄?)にて二個の打製石斧を得たり。此石器は抑も何蕃族の曾て使用せしものか。知る事甚難しと雖も、東海岸に曾て石器時代人民の棲息せしは更に疑ひ無きなり。」
と述べている(鳥居1897a:410ページ)。
鳥居龍藏は8月19日に基隆港を出航し、4ヵ月近くの東海岸地域の調査に出発した。そして調査中に、東海岸の秀姑欒渓付近(石梯坪庄?)で2個の「打製石斧」を発見している。鳥居龍藏はこの打製石斧は、先住民族以前の「考古学的遺物」と考えたようである。
この鳥居龍藏の考古学的資料と考えられる遺物の検出(1896年8月〜12月)は、台湾における「先史時代遺跡発見史」における粟野傳之烝の芝山厳での石斧確認(1896年1月〜4月頃)以来の「二番目の発見」であった。
伊能嘉矩は1897(清光緒23、明治30)年5月28日発行の東京人類學會雑誌に「臺灣通信(第十六回)」で、「臺灣に於ける石器時代の遺蹟の發見」として論説及報告を載せた。さらにその中で、
「臺灣にも石器時代の遺蹟あることを確かめ爾來其の遺蹟の探求に従ひつゝありましたが・・・、臺北平野の殆んど中央なる臺北城の北一里弱にして基隆河の南岸に沿へる一丘陵(大龍銅圓山)の南方及び東方の丘復及び丘麓より打製及び磨製石斧の完全せるもの及び缺損せるもの合算すれば總数四十餘個を探拾し・・・、・・・石器時代の土器に近似するやに思はるゝもの多数に散布するを見出しました(此の第一着の發見なせしは三月七日にして・・・)」
と述べている(伊能1897a:304・305ページ)。
つまり、伊能嘉矩は粟野傳之烝が芝山厳で石斧を発見してから、3月7日までの数回に亘り台北城の北1里の基隆河南岸の丘陵を探索し、40点近くの打・磨製石器・土器類を発見したのである。
また、圓山貝塚の発見については、
「或る日此の丘陵の南部を探りし折り 丘路を造れる為めに現れたる断崖の貝殻の少しくあらはれ居るを認め・・・、丘の東北麓に於て貝殻の夥しく層を為しあるを・・・、發掘を試みました・・・」
と述べている(伊能1897a:305ページ)。
つまり、4月18日に金沢人類學會員の宮村榮一が渡台してきたので、伊能嘉矩は二人で圓山を訪れ「貝塚」を確認し「発掘調査」を行い多数の有・無紋土器の出土があった。そして、
「而して此の貝塚は爾今圓山貝塚と称することに定めましたされば此の貝塚を圓山貝塚と稱するときは此の貝塚を指すものたるを了せられんことを豫め申して置きます」
と述べている(伊能1897a:305ページ)。
つまり、伊能嘉矩はこの遺跡を「圓山貝塚」と呼称し、今後は圓山貝塚と呼ぶ場合はこの地点の貝塚部分を指すものであるとしたのである。そして、伊能嘉矩による圓山貝塚の発掘調査は、研究史的に「台湾における最初の考古学的調査」と評価されている(宮本1939、金関・國分1950)。その後、圓山貝塚については、多くの考古学者によって発掘調査(宮原1919,1936ほか)が行われている。
そして、この圓山貝塚は「台湾先史時代研究」の中心的資料となっており(劉1996)、現在「台北市史前遺址1 圓山遺址(別名・圓山貝塚)」として登録され、「圓山文化」という一時期が設定されている(劉・郭2000ほか多数)。
鳥居龍藏は1897(清光緒23、明治30)年10月7日、第2回目の台湾調査にやってきた。そして10月28日発行の東京人類學會雑誌に、「臺灣探撿者鳥居龍藏氏の消息」を載せ、その第二信(十月九日)で、
「(前畧)小生は本日淡水基隆河沿岸の貝塚に行きたり。其遺蹟は都合九ク所見たり。貝殻はシオフキよりなり居候(石器は殆ど百本程採集せり)貝塚及び土器包含層は立派にセクションをなし居候。小生は台灣の石器時代遺跡に就て1篇の論文を草するだけの材料を得候。」
と述べている(鳥居1897b:35ページ)。
さらに12月28日発行の東京人類學會雑誌に、「鳥居龍藏氏よりの通信(坪井正五郎氏へ)」を載せ、
「(十月十二日台北發)前以て申上候如く小生は一昨日より淡水河沿岸に於ける石器時代遺跡の調査に従事致居昨日の如きは八芝蘭まで参候本日は早朝より圓山に行き貝塚を發掘致候・・・、臺北知事橋戸氏は圓山公園の貝塚は・保存し置く様に致度ものと小生に申されたり云々」、「(十月十三日臺北發)貝塚の有る附近は二三日以前土匪起れり小生は腰にピストルを帯びて旅行致居候日本人としてピストルを携へて貝塚を見土石器拾ふと云ふはこれが始なるべし」
と述べている(鳥居1897c:116〜118ページ)。まだ台北市周辺でも、政治的な不穏な事態が続いていたことが分かる。
そして、鳥居龍藏は1897年11月15日発行の地學雑誌に「臺灣に於ける有史以前の遺跡」という論説を載せ、
「兼て臺灣臺北附近に石器土器の出る場所ありと承り居候ひしが今回再び臺灣臺北に來り候を以て小生は其遺跡遺物に就て聊か調査する所あらんとて臺北に到着せし翌日より日々此研究に従事仕候。石器時代の遺跡存在地は第一當時公圓となり居る一小丘に有之候、・・・及び小生が新に發見セし場所・・・、尚圓山と基隆河の一支流を以てへだてられたる劍潭山の圓山に對する斷層に貝塚有之候・・・、これは去る本月六日の雨後、地層の崩れ斷層となり居るを、圓山公園係主任安井君の注意により小生が見に往き新たに發見せしものに御座候、尚劍潭寺、前の断層にも貝塚現れ居候」
と述べている(鳥居1897d:503・504ページ)。
この三通の書間・論説を解析すると、鳥居龍藏は1896年7月〜12月の第1回目の時に石器・土器の出土する場所の情報を得て「今回再び臺灣臺北に來り候を以て」と述べている。この事実から1897年10月の第2回目の台湾調査で、台北に着くや早速10月10日〜13日まで淡水基隆河沿岸の石器時代遺跡の調査を行ったのである。まず伊能嘉矩が1897年3月7日までに発見し4月18日に宮村榮一らと発掘調査した「圓山貝塚」を訪れて、断面観察などで「貝塚遺跡」としての調査を行った。その際、公園係安井主任が10月6日に発見していた新しい貝塚露出場所(圓山貝塚ではない)に案内され、その場所を「発掘調査」し多数の土器、石器、骨角器などを得たと考えられる。
その証拠と思われる写真が、1911(明治44)年4月10日発行の東京人類學會雑誌に「臺灣臺北圓山貝塚」という雑報に二枚掲載されている。それによると、
「口繪寫眞版は臺灣臺北附近圓山石器時代の貝塚なり。上圖は其遺物包含の状態にして、下圖は其貝塚なり。今この二圖に就て説明せん。上圖は貝殻(臺灣オゝシヾミ)と共に遺物の包含せるを示したるものにして、・・・而して下圖は圓山々麓に在る貝塚にして我等一行の之を発掘なしつゝある所なり、」
と述べている(鳥居1911:口絵写真、解説56ページ)。
つまり、この二枚の写真の上図は、単に貝塚断面を説明しているのみで「圓山」の貝塚遺跡の現状写真と考えてよさそうである。しかし下図は、不思議なことに「圓山々麓」に在る貝塚で自分達が発掘したと述べている。このことから、前記鳥居の三つの報告(鳥居1897bcd)と照合すると、新しく発見した「劍潭貝塚」の発掘状況写真と考えられるものではなかろうか。このことは「臺北知事の橋戸氏は、圓山公園の貝塚は保存しておきたいもの」と鳥居龍藏に告げている(鳥居1897c)点からも、この発掘した貝塚が別の遺跡である可能性は大きいと考えられる。
劍潭貝塚の発掘調査については、1925(大正14)年5月25日発行の『有史以前の日本』の「臺灣の有史以前」の中で、
「・・・、その有名なる場處は、基隆河の上流で、今日の臺北圓山で、臺灣神社のある邊である。尚ほ私は、臺北の附近にて之れを發見したのである。・・・主な遺跡は臺北の圓山貝塚であって、・・・その遺跡の範囲は相當に廣かったが、臺灣神社が此處に建てられ社地を取り擴げられたために貝殻はなくなり、遺跡は自然に消滅し、・・・ここが昔の遺跡であるかどうかと疑はれる位であるが、小さい遺跡は今でもあちらこちらに残って居る。」
と述べている(鳥居1925:727・728ページ)。
その後、台湾の考古学を概説した宮本延人は、1939(昭和14)年7月25日発行の『人類學・先史學講座』の「臺灣先史時代概説」の中で、圓山貝塚について、
「・・・、この遺跡の最初に発見されたのは領臺直後の明治三十年で、・・・三十年三月七日に伊能嘉矩氏が宮村榮一氏と・・・貝塚の存在を知り・・・圓山貝塚と称したのに始まる。・・・後明治三十年十月十二日には鳥居龍藏氏が調査され、・・・」
と述べている(宮本1939:6・7ページ)。
しかし、先史時代遺跡の紹介項目に「劍潭貝塚」を記載していない。おそらく、宮本延人が台湾にいた昭和の時期には、すでに鳥居龍藏の報告(鳥居1925)のように劍潭貝塚は台湾神社の建設で消滅し、その存在が話題にならなかったのではないだろうか。
戦後に台湾考古学を総括した金関丈夫・国分直一らは、
「・・・鳥居竜蔵博士は、円山貝塚が発見された明治三十年に台湾にやって来た。彼はすぐさま、その調査報告を日本の学会に寄せ、・・・彼は円山貝塚を調査した後(博士が調査したのは、現在の円山公園内の貝塚ではなくて、基隆河北岸のもと台湾神社、劍潭寺のあった地域の劍潭貝塚である)次のように書いている。・・・」
と述べている(金関・國分1950:4・7ページ)。
また、台灣大學の考古学者宋文薫が著した戦後の台湾考古学の集大成的大論文「由考古學看臺灣」『中國的臺灣』には、
「當時他視察了最有名的圓山貝塚之後説・・」(当時彼は有名な圓山貝塚を視察したあとで以下の説を述べた。)
と述べている(宋1980:96ページ)。
こうした事実から最近の「台湾考古学史」の解説の中では、鳥居龍蔵は圓山貝塚を「発掘調査」したという表現が少なくなり、「圓山貝塚から採集した石器および骨角器を『東京人類学会雑誌』に報告したことから始まると考えてよい」と説明(野林1998ほか)、鳥居は圓山貝塚で「地層調査」や「表層調査」を行ったと解説されることが多くなっている。
なお、この鳥居龍蔵が「発掘調査」した劍潭貝塚は、現在「台北市史前遺址2 劍潭遺址(別名・宮の下貝塚、宮下貝塚)」として登録されている(劉・郭2000)。
鳥居龍藏は1952(昭和22)年9月10日に建設相公邸で完成させた自叙伝『ある老学徒の手記―考古学とともに六十年―』は、翌年1月10日に発行されその四日後の1月14日に83歳の生涯を閉じたのである。この著書には鳥居龍藏の生い立ちから、困難な現地での数々の学術調査の軌跡と全成果が綴られている名著である。そして、その中の「臺灣調査時代」で、
「いよいよ明治二十九年の夏、私は・・・、・・・東京を出發、宇品港から乗船、數日にして臺灣の基隆港に到着した。・・・此處から臺北まで汽車が敷かれていたから、それによって臺北に到着した。・・・、総督府に・・・訪い挨拶をした。・・・やがて私は淡水河畔で石器時代の「貝塚」を發見した。この貝塚から出る遺物は、日本内地のそれと大いに相違していた。即ち缺製の石鏃はなく、磨製石槍、骨製槍、石斧は磨製大形のものと、鑿型のもので、土器は縄紋式土器と異なっている。その後、この淡水河畔に日本の神社が建設された際、さらに大きな貝塚が發見され、下層は石器時代、その上は金属時代であることがわかった。この時臺灣には、學務局に伊能、粟野の兩氏があって、すでに生蕃の調査をされていた。」
と述べている(鳥居1953:59・60ページ)。
この記述から、鳥居龍藏は第1回台湾調査の時に台北に着いてすぐ、台北郊外の淡水河畔で石器時代の「貝塚」を発見したと回想している。また、この淡水河畔に日本の神社が建立された際にはさらに大きな貝塚が発見され、下層は石器時代、その上部は金属器時代であったと述べている。
この鳥居龍藏が淡水河畔で発見した貝塚は、圓山公園主任の安井氏が1897年10月6日に発見し知らせてくれた場所(鳥居1897d,1925)で、後に台湾神社が建立された「劍潭貝塚」であることが指摘されている(金関・國分1950)。
また、この鳥居龍藏の『自叙伝』を引用した単報として、台湾の考古学者宋文薫の「鳥居龍藏と台湾」がある。これは1996年に考古学ジャーナルに掲載され、以前同じタイトルで発表された中文原稿を、長女の鳥居幸子が翻訳し『自叙伝』の附録(pp255-261)に収録されている。今回の原稿は、自分で新たにその内容を正確に日本文で書き改めたものであるという。その中で、
「1896年・・・、坪井正五郎は・・・、鳥居龍藏氏に研究室雇員の肩書きを與えて台湾に派遣し、人類学上の諸調査に従事させた。・・・彼はその翌年(1897)の2月台湾から帰国した。同年(1897)10月7日、博士は再び台湾に渡航し調査を開始した。到着してから3日目(9日)には、発見されて間もない台北市円山貝塚と附近の先史時代遺跡の調査と発掘に手をつけ、坪井正五郎教授にあてて次のように手紙を書き送っている。」
と述べている(宋1996)。
宋文薫は鳥居龍藏の『自叙伝』の附録の原稿でも、圓山貝塚などの考古学的調査については、第2回台湾調査時の1897年10月として、坪井正五郎あての1897年10月9日(鳥居1897c)と10月12日(鳥居1897d)の書間(第2回台湾調査行)を紹介している(宋1953)。
鳥居龍藏は第1回台湾調査(1896)の準備段階で、坪井正五郎に鑑定依頼された粟野傳之烝発見の「石斧」(伊能1897a)の存在を、東京出発前の7月4日に開催された東京人類學會の「集古懇話会」で知っていたはずである。そして、鳥居龍藏は7月15日に東京を出発し台湾に上陸後、8月19日に基隆港から東海岸調査に出発するまでの約1ヶ月は台北に滞在していた。この間、考古学資料の発見にも強い意欲を持っていた鳥居龍藏が、伊能嘉矩や粟野傳之烝に石斧発見地の「芝山厳」の情報を尋ねたことは確かと思われる。しかし、不思議なことに鳥居龍藏の第1回台湾調査行を知らせた東京人類學會雑誌(鳥居1896ab)には、この時、台北近郊で先史時代遺跡を探索した事実や貝塚・遺跡の発見などに関する記事はない。唯一、考古学的内容は東海岸で打製石斧を2点発見して、この石器が先住民以前の遺物の可能性を示唆した記述(鳥居1896a)だけであった。
ここで、現在まで日本人台湾考古学研究者によって解説されてきた、台湾における先史時代遺跡の発見史について、今回の原典による検証によって新たに判明した事実とその内容について以下に整理し終りとしたい。
日本人の人類学・考古学研究者は、台湾先史学研究の端緒を1897(清光緒23、明治30)年の「圓山貝塚の発見」としている(宮本1939、金関・國分1950)。
しかしこの見解は間違いであり、その前年の1896(清光緒22、明治29)年にすでに「芝山厳」で「石器」が発見されている事実であると、台灣大學文學院考古人類學系の宋文薫が1951(民国40、昭和26)年の「台灣風土」(第147期)誌上で指摘している(宋1953,1996)。
つまり台湾で初めて考古学的資料が確認されたのは、1896年の春に粟野傳之烝による台北近郊の「芝山厳」での「石斧」の発見(伊能1897a)である。
また同じ年の秋には、鳥居龍蔵が台湾東海岸調査で「打製石斧」を発見(鳥居1897a)している。鳥居龍藏はこの資料が、先住民族というより石器時代人の可能性を示唆したことは、東京郊外での考古学分野での活躍の成果をここに読み取ることができよう。
伊能嘉矩は1897(清光緒23、明治30)年3月7日に台北近郊の圓山で貝塚を発見し、4月18日に宮村榮一と発掘調査し「圓山貝塚」と命名した(伊能1897a)。これが多くの概説書で、圓山貝塚を最初に発見した経緯として定説化している(宮本1939、金関・國分1950、宋1953・1980、劉1996、劉・郭2000)。
一方、鳥居龍藏は新たに最晩年にまとめられた自叙伝『ある老学徒の手記』で、1896(清光緒22、明治29)年の第1回台湾調査で、台北郊外の淡水河畔で石器時代の「貝塚」を発見したと述べている(鳥居1953)。
しかし鳥居龍藏の前年の報告(鳥居1896ab)には、貝塚などの発見についての記述は存在しておらず、この貝塚についての内容は不明である。鳥居龍藏の第1回目(1896)の調査では、考古学的資料に唯一言及したものに、台湾東部に二回出かけた折に発見した2点の「打製石斧」の記事(鳥居1897a)だけである。
とすると鳥居龍藏が発見した貝塚(場所、名称不明)は、第1回目(1896)渡台の時ではなくて「第2回目(1897)の劍潭貝塚(鳥居1897cd)では」と考えることができようか。
台湾において初めての考古学的発掘調査は、伊能嘉矩が1897(清光緒23、明治30)年3月7日に発見し、4月18日に発掘調査(伊能1897a)した「圓山貝塚」であると定説化されている(宮本1939、金関・国分1950、宋1953・1980、劉1996、劉・郭2000)。
一方、鳥居龍藏は『ある老学徒の手記』で、1896(清光緒22、明治29)年の第1回台湾調査で、台北郊外の淡水河畔で石器時代の「貝塚」を発見し発掘調査したと述べている(鳥居1953)。がしかし、この鳥居龍藏の貝塚発見・発掘調査は、1897年10月10日〜13日(鳥居1897cd)のことで、さらにこの貝塚は圓山貝塚対岸の「劍潭貝塚」であったと解説されている(金関・國分1950)。
つまり、鳥居龍藏は第2回目(1897年)の台湾調査で、10月9日に「圓山貝塚」を訪れ、表面調査(断面露出の掘削をしたかも?)で多くの資料を採集し、10月10日〜13日には圓山貝塚対岸の「劍潭貝塚」を「発掘調査」したということになる。
まず台湾考古学研究者の宋文薫の名論文「由考古學臺灣」『中國的臺灣』(1980)の中で、鳥居龍藏の広い学問領域からの論及を評して「1897年の第二回の渡台野際、鳥居龍藏が台湾史前文化の住民はマライ族に属する可能性を述べている。そして、この論断が日本統治時代の台湾研究に深い影響を与えた」と述べている(宋1980:96・97ページ)。
さらに宋文薫は鳥居龍藏の名著『ある老学徒の手記』(1953)の「附録 鳥居龍藏と臺灣」の中では、日本人学者ら(金関丈夫、國分直一、宮本延人)によって台湾先史学研究の経過を三期(段階)に分け「第一期は圓山貝塚を繞つて展開された」としているが、私は「第一期の研究は鳥居龍藏を繞つて展開された」と改めた方が更に適當であろうと述べ、鳥居龍藏による研究を中心的なものであったと評している(宋1953:261ページ、1996:20・21ページ)。
また鳥居龍藏後に渡台し、現地で活躍した人類学者の金関丈夫と考古学者の國分直一の共著『台湾考古誌』(1979)の中では、鳥居龍藏の東京人類学会雑誌(鳥居1897c)や地学雑誌(鳥居1897d)に掲載された圓山貝塚の調査報告について、「台湾先史時代の人類の系統に最初に論及したもので、それゆえ注目に値するのである。」と評している(金関・國分1979:5ページ)。
本稿をまとめるにあたって、多くの先学諸兄や諸機関から有益な助言や入手困難な文献等について助力があった。以下にお名前を記し、心からの感謝の意を表します(敬称略、順不同)。
安里嗣淳、盛本 勲、関 俊彦、米沢容一、橋本真紀夫、田畑幸嗣、宋 文薫、劉 益昌、郭 素秋、東京大学総合研究博物館、東京大学理学部人類学教室、東京大学総合図書館、東京大学教養学部文化人類学教室、沖縄県公文書館、国立国会図書館、國立台灣大學人類學系研究室、中央研究院歴史語言研究所。
田中正太郎 | 粟野傳之烝 | 伊能嘉矩 | 鳥居龍藏 | |
1896 | 4月人類学研究を目的に渡台する | 国語学校(勤務地)付近の「芝山厳」で「石斧」1点を発見する(1〜4月頃) (台湾考古資料の最初の発見) | 坪井正五郎に石斧の鑑定依頼する(5〜6月頃)
坪井が7月3日の「集古懇話会」でこの石斧を紹介する | 東京帝國大学人類学教室で資料整理 7月3日の集古懇話会で集合記念写真の撮影を行う |
7月22日淡水河岸で地元民が「凹み石」を使用しているのを目視する | 7月15日出発〜12月第1回台湾調査を行う 東海岸で「打製石斧」2点を発見する | |||
1897 (明治30) | 5月23日〜12月1日伊能と台湾全島の原住民調査に出かける | 3月7日石器・土器を基隆河南岸台地で発見 4月18日圓山貝塚を「発掘調査」し、「圓山貝塚」と命名する | 2月離台する | |
淡水河上流の大嵙崁河沿岸高台部で考古学的踏査を行い、5ヵ所の遺跡から石器類を発見する | 5月23日〜12月1日全台湾先住民調査を鳥居龍蔵に依頼される 11月22日調査の帰路に紅頭嶼(蘭嶼)で鳥居と出会う | 10月〜12月第2回台湾調査を行う
10月9日淡水・基隆沿岸の遺跡を踏査する 10月10日〜13日淡水河沿岸と圓山貝塚を「表面調査」し、剣譚貝塚を「発掘調査」する 11月紅頭嶼で磨製石斧と打製石斧各1点発見する | ||
1898 (明治31) | 大嵙崁河沿岸高台部採集の石器70数点を、東京帝國大学人類学教室に寄贈する | |||
7月24日に千葉県で療養中に「人類誌」に投稿する(帰国していた) | 9月〜12月第3回台湾調査を行う
西海岸で石器時代の「土器」を発見する 15日離台する | |||
1899 (明治32) | 1月9日伊能と連盟で長官に「台湾蕃人事情」の複命書を提出する
1月11日離台する(帰国) | 1月東京帝国大学人類学教室嘱託員になる
2月〜3月鳥居龍蔵と東京近郊の遺跡を散策する | ||
12月11日台湾総督府雇員(民政部殖産課・学務課、総督官房文書課)になる | ||||
1900 (明治33) | 3月25日伊能と共著の大著『台湾蕃人事情』が台湾総督府から出版される | 3月25日粟野と共著の大著『台湾蕃人事情』が台湾総督府から出版される | 1月〜9月第4回台湾調査を行う
台中州の新高郡で打製石斧、土器を多数発見する 9月15日離台する | |
12月27日〜翌年1月15日膨湖島虎頭山で磨製石斧を発見する |