日本における旧石器文化の確認は、1949年に北関東地方群馬県岩宿遺跡の発掘調査(杉原1956)が最初であった。この調査で縄文時代の遺物包含層(黒褐色土)下の、それまで人間の活動が無いとされていた赤土と呼ばれる「火山灰堆積物」(関東ローム層)中から土器を伴わない未知の石器文化が確認されたのである。そしてこの厚く堆積した関東ローム層中には、黒色帯や軽石層、スコリア層などの特徴的な「鍵層」が介在しており、周辺地域の層準との対比や遺跡内の重複した石器群の分離識にも有効であった。そして岩宿遺跡で最初に確認された3枚の旧石器文化層(岩宿I・II・III文化)は、発掘者らにより直ちに提唱された日本旧石器時代の編年(芹沢1957、杉原1965)の骨子になったことは周知の事実である。
一方、南関東地方の東京でも1950年に国分寺市熊ノ郷遺跡(吉田1952)で、岩宿遺跡と同じ赤土層から「礫と黒曜石片」の発見があった。また1951年の板橋区茂呂遺跡の発掘調査(杉原・芹沢・吉田1952)で、ヨーロッパ後期旧石器時代のバックド・ブレイドに酷似した黒曜石製の背付石器(後の「ナイフ形石器」)が日本で初めて出土し注目された。さらに東京地方の旧石器遺跡の調査では、日本第四紀学会など自然科学分野の研究者が参画し、無遺物層と考えられていた「関東ローム層」の研究(関東ローム層研究グループ1965)が進展していった。当時の発掘現場では、理化学的分析が多く取り入れられ、その頃すでに欧米では確立していた遺跡環境の総合的解析・復元作業が積極的に実践された。1968年の神奈川県月見野遺跡群(月見野遺跡群調査団編1969)と1969・70年の東京都野川遺跡(小林・小田・羽鳥・鈴木1971)の大規模発掘調査の成果は、「野川以前」「以後」と呼ばれる日本の旧石器時代研究史の画期になった。その後引き続き行われた東京・武蔵野台地の旧石器時代多文化層遺跡群の調査成果は、野川・石神井川・神田川水系さらに武蔵野台地という一流域史・地域史を越えて、広く関東地方から「日本列島」の旧石器時代史へと言及できる多くの資料が蓄積され、今日に至っているのである(小田1977a.b,赤澤・小田・山中1980,小田2003)。
本稿は、こうした学術的に国際的な認証を得ている武蔵野台地の旧石器時代遺跡の研究成果に基づき、新しい日本旧石器時代研究の現状と将来の方向性を展望するものである。
日本列島中央部に位置する関東平野は日本有数の山脈に囲まれて、日本最長の利根川を有する大河川と洪積台地(相模野・武蔵野・大宮・下総・常総台地など)、丘陵、山麓から成る日本最大の平野である。武蔵野台地はこの関東平野の西南部に位置し、多摩川と荒川に挟まれた長軸約50km,短軸15kmの長方形の扇状地状洪積台地である。武蔵野台地の西南縁は多摩川に面して立川段丘(低位面)と武蔵野段丘(高位面)が発達し、この両段丘を画する国分寺崖線下に湧水を集めた約20km前後の「野川」が東流している。そして現在に至るまでにこの野川を挟む両段丘面では、旧石器時代と縄文時代の大遺跡が多数形成されている。
遺跡の立地は、河川に面した台地縁辺の凹状窪み部(湧水地点)を挟んで半月状に形成されており、武蔵野台地に生活した先史時代人は、台地崖下の湧水を飲料水として台地上に集落を構築していたものと考えられる。その集落構成は、台地縁辺には調理施設の「礫群・集石遺構」、台地平坦部には住居関連施設の「住居址、墓壙、広場」、そして台地奥側の後背地には焚き火跡の「炭化物片集中部」や狩猟施設の「落とし穴」などが配置されていた。こうした集落内の遺構分布状況は旧石器時代から縄文時代にかけてほぼ同じで、この地域の先史時代環境に連続性が看取できるのである(小田1981)。
武蔵野台地の旧石器時代包含層は、赤土と呼ばれる関東ローム層中に発見される。この地域のローム層は多摩川の河岸段丘の変遷史で、古い方から多摩→下末吉→武蔵野→立川ロームに区分され、それぞれの段丘面に準じて各ローム層が組み合わさって堆積している(貝塚・成瀬1958)。そしてこの中でも「人類の遺跡・遺物」が確認されるローム層準は、一番新しい「立川ローム」層中であった。
武蔵野台地の標準層序は、地表面から第I層表土(耕作土)、第II層黒色及び黒褐色(歴史〜縄文時代)土層が認められ、その下に関東ローム層が約3m近く堆積している。遺跡が確認される立川ローム層は、考古学者らの経験的識別によって第III層〜第XII層に区分され、最上部の第III層は「ソフトローム」とも呼称されるローム軟質部で次の第IV層からは「ハードローム」の硬質部になる。この第III層と第IV層の境界部分は、クラックと呼ばれる凹凸の激しい不連続面を呈しており、第V層は立川ローム第I黒色帯に相当する。第VI層下部には約2万9,000年〜2万6,000年前に鹿児島県の姶良カルデラから巨大噴出した「姶良Tn火山灰」(AT)と呼ばれる広域火山ガラスが確認(町田・新井1992)され、層準や考古学的編年対比に有効な鍵層となっている(小田1979)。第VII層〜第IX層までは立川ローム第II黒色帯に相当し、従来は一枚とされていたが、野川遺跡の発掘により間層を挟み上下に分離された。第X層〜第XII層は同じ褐色を呈するロームで、立川ローム層はこの第XII層をもって終了する(小田1980a)。
1969・70年に実施された野川遺跡の大規模発掘調査は、日本の旧石器時代研究に画期的な成果をもたらした。その一つに、それまで型式学的知見によって編年されていた石器群を、より細かな層準の識別の中に「生層位学的」知見で変遷が捉えられたことである。つまり野川遺跡では5m近くの立川ローム層が堆積し、肉眼で13枚の自然層に分離され、さらに黒色帯も4枚(第O・I・IIa・IIb黒色帯)に識別され、石器包含部相互の対比がより正確に、かつ識別が容易になったのである(小林・小田・羽鳥・鈴木1971,小田1977b,1980a)(図1)。
野川遺跡では立川ローム層中に10枚の旧石器時代文化層が確認され、大きく三つの流れの石器群様相として把握されている。第1の流れは第VII層〜第V層までの時期で、ナイフ形石器を保有していない石器群。第2は第IV層中に包含され、ナイフ形石器を特徴とする石器群。そして第3は立川ローム最上部の第III層中に包含され、ナイフ形石器が消失している時期である。
このナイフ形石器の有無を基準にした野川遺跡での三つの石器群は、その後の発掘の増加に伴って時期設定層準に若干の訂正はあったが、日本の旧石器文化の流れを良く反映しており、この後実施された日本列島全域の旧石器編年大綱の基礎を成したものであった。
旧石器遺跡を発掘すると、礫群・配石などの遺構や石器・剥片類等の遺物が、平面的に幾つかの集中部をもって発見される。この遺構・遺物集中部を垂直分布カーブとして投影すると、ビーナスラインと形容される極大値面が捉えられる。野川遺跡ではこの平面的・垂直的な一単位の遺構・遺物集中部を、層準に照らして「一文化層」とした。
武蔵野台地には500ヵ所以上の旧石器遺跡が発見され、200以上のコンポーネント(各文化層ごとの石器組成)が得られた。また野川流域には100カ所以上の遺跡が集中し、150近くのコンポーネントが周知されており、こうした多数のコンポーネントと、武蔵野台地という一地域の層序の類似性に基づき、層準の呼称を統一(I・ II・ III・ IV ・V……層)し、層準名と文化層名称の一致( III・ IV1 ・IV2・V……、IV上 ・IV中・IV下・V層文化)に努めてきた。そしてこの用語の画一化により、この地域の石器群対比に便利で且つ遺跡間の文化層対比が用語的に明解になり、理解し易くなったのである。
野川上流の一連の発掘調査、野川(国際基督教大学構内遺跡第28c地点)、国際基督教大学構内遺跡第15地点、武蔵野公園、平代坂遺跡、西之台遺跡B地点、中山谷遺跡、前原遺跡、新橋遺跡、はけうえ遺跡、多摩蘭坂遺跡、武蔵台遺跡などで認められた多数のコンポーネントを体系づけると、4つの時期(フェーズ)に区分できる。この時期区分は、日本各地で発見されている旧石器時代石器群様相に照らしてもほぼ全資料が包括されており、この武蔵野台地の石器群変遷が、そのまま日本列島の旧石器編年に対応することを明示していた(小田・キーリ1979)。
第X層中部〜下部に包含されている石器群である。現在数ヵ所の遺跡が確認され、西之台遺跡B地点と中山谷遺跡がその代表である。石器群の内容は砂岩、凝灰岩などを使用した重量石器群と、チャート、メノウなどを使用した軽量石器群がセットになっているところに特徴がある。器種としては、前者に片面加工礫石器、礫器、スクレブラ、後者に錐状石器、ナイフ状石器、スクレイパーなどがあり、剥片剥離技術として礫の原面を打面とした剥片剥離技法と、大型礫を直接台石に叩きつけて節理面打割する特殊な技法が用いられている。 この第Ia亜文化期は武蔵野台地における最も古い旧石器文化であり、現在のところ日本最古の人類遺跡である(図2)。
第X層上部〜第IX層に包含されている石器群である。遺跡は多数発見されているが、鈴木遺跡と高井戸東遺跡がその代表である。石器群の内容は石刃技法を基盤にし、石刃の基部及び先端部に僅かな整形加工を施した背付石器(ナイフ形石器)、横長剥片の両端を切断・整形加工した背付石器(台形石器)に特徴を持っている。更に特筆すべき石器として、刃部を研磨した斧形石器(石斧)が多数発見されている。この刃部磨製石斧の存在は、その年代と共に周辺大陸にも発見されない器種であり、石材としては粘板岩、流紋岩、硅岩などを中心に使用していた。またこの時期には幼児頭大の河原石を配した「配石」、小粒の河原石を集めた「小礫群」が存在している。この礫群遺構は、この後、礫粒・規模を大きくして連綿と継続して行く。武蔵野台地全域に遺跡が発見され、さらに遺物集中部が幾つか円形に分布する「環状ブロック」と呼ばれる特徴的な集落形成も認められている(図3)。
第VII層〜第V層下部にかけて包含されている石器群である。遺跡数は減少するが、鈴木遺跡と国際基督教大学構内遺跡第15地点がその代表である。石器群の内容は、比較的整った石刃の盛行と、その石刃を加工したナイフ形石器に特徴がある。石材には、良質の信州産の黒曜石が使用されている。第VI層下部には「姶良Tn火山灰」(略してAT)と呼ばれる、約2万6,000年〜2万8,000年前頃に噴出した広域火山灰が堆積しており、またこのATは北海道を除く日本全土、朝鮮半島にも確認されている。このATの発見によって、周辺地域の同時期石器群の編年対比が可能に成ったことは周知の事実である(小田1979,町田・新井1992)。
第V層上部〜第IV層下半部にかけて包含されている石器群である。多数の遺跡が確認され、野川遺跡、西之台遺跡B地点、新橋遺跡がその代表である。石器群の内容は横長剥片を特徴的に伴出し、ナイフ形石器、台形石器、錐、ベック、スクレイパー、彫器、磨石などが出土する。また第Ib亜文化期に出現した礫群が最も盛行する時期でもあった。この文化期は石器群の様相、剥片剥離技術を検討する限り、前の文化期と連続しない多くの要素を含んでいた。
第IV層上半部〜第III層の一部にかけて包含されている石器群である。多数の遺跡が確認され、野川遺跡、仙川遺跡、前原遺跡がその代表である。石器群内容は、石刃技法を駆使したあらゆる器種の石器が存在する。なかでも両面加工尖頭器(ポイント)の出現がこの時期の終末に見られることは、狩猟具の発達という面で画期的なものである。この文化期は最も遺跡数が多く、その分布も武蔵野台地全域に認められている。また生活内容も充実していたようで、拳大の河原石を集合させた礫群や、石器・剥片類の遺跡内での分布も大規模で、集落構成面から見ても最も発達した段階であった(小田・金山1976)。
第III層に包含されている石器群である。遺跡数が減少するが、中村南遺跡、武蔵野公園遺跡、西之台遺跡B地点、新橋遺跡がその代表である。石器群の内容は細石刃とそれを剥離した細石刃核に特徴があり、細石刃文化、細石器文化とも呼ばれている。本文化期の石器組成は、従来細石刃と若干のスクレイパーが認められるだけであったが、資料の増加に伴い両面加工尖頭器、礫器などが出土することが確かめられてきた。しかし石器組成では、前の文化期に較べると極端に器種が少なく、当然、細石刃を組み合わせた多種類の道具の存在が示唆されている。
第III層上部に包含されている石器群である。遺跡数は少ないが、平代坂遺跡、西之台遺跡B地点がその代表である。石器群の内容は、大型の両面加工尖頭器に特徴があり、大型石刃、チョッパーも伴う。完成された石器が多数発見される傾向があり、それがこの文化期の特徴でもある。この文化期の石器群は、次の縄文時代草創期に繋がる多くの要素を保持している。
武蔵野台地の旧石器時代遺跡研究は、日本の研究史上において「野川以前」「以後」と言われるほどの画期的な成果をもたらした。その特徴の一つは自然科学的手法による遺跡の解析が多く実施されたことにある。なかでも、それまで火山堆積物である風性ローム層中から花粉化石を探すことなど、当時の発掘では誰もが行わなかった。が、野川遺跡での分析では花粉・胞子の量は少なかったがそれなりに検出することができた。これは丁度その頃考古学と自然科学分野の研究者間で、学際的な共同研究体制の組織化が提唱されていた時期でもあったことが幸いしたのである。
そして武蔵野台地に発見される500ヵ所近くの旧石器遺跡の成果から、約2万5,000年以上にも亘って連綿と生活した旧石器人の植生環境と石器文化の様相がここに明確になった(小田1977b,2003)。
現在、旧石器時代遺跡が確認される「立川ローム層」中の古植生は、大きく三つのゾーンに区分することができる(小田1979c,小田・馬場監修2001)。
武蔵野台地の標準層位で第XIII層〜武蔵野礫層までに相当する。植生がまだ定まらず樹木、草木類が僅かに生育していた。気候は温暖であったが、多雨だったせいか、度々大洪水に侵され、チャート・砂岩などの小礫(いも石)が台地下の河川から流出し台地上の地表面に多数堆積した。
この「いも石」を使用した石器類が、立川ローム最古の「第Ia亜文化期」に確認されており、日本最古の旧石器人たちがこの小型河原石(いも石)に注目し利用したことは、彼らの源郷での石器様相が反映したものか否か興味がもたれる。残念なことに、現在までのところこの武蔵野ローム期の人類遺跡はまだ確認されていない。
立川ローム層の下底部で、第XII層〜第X層に相当する。マツ属、スギ属の針葉樹を中心にして、ハンノキ属、コナラ属、ケヤキ属、ヨモギ属、キク亜科が伴ない、シダ類胞子が多く繁茂している。湿潤な草原と温暖な気候であり、現在の武蔵野台地の植生に近い様相であった。今まで度々大洪水に見舞われていた武蔵野台地は、この時期には高台部(武蔵野段丘面)に安定した乾燥地帯が形成され、低地部(立川段丘面)でも水に侵されない微高地が点在する環境になっていたのである。
またこの時期は、武蔵野台地に最初に現れた旧石器人の時期でもある。大型・小型の礫器と錐状石器を保持し、細々と台地の縁辺部に「炉」を構築し生活していた。ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型動物群を狩猟していたが、遺跡数も少なく、人口も一河川に一ないし二つ程度の集団による遊動生活であった。
立川ローム層の中間部分で、第IX層〜第IV層に相当する。このゾーンは層位的に一番厚い部分である。立川ローム層中で最も腐植化が顕著な第II黒色帯と第I黒色帯が入る。樹木としてハシバシ属、草本類のヨモギ属が非常によく生育している。マツ属、スギ属、ケヤキ属、コナラ属の落葉広葉樹と胞子が第II黒色帯で急減し、コナラ属、スギ属、カバノキ属などが草地に点在している。気候は全体的に冷涼であり、第IV層の上部では涼しさが緩和されていく。
最終氷期の最寒冷期に向かう時期で、前半期はナイフ形石器と斧形石器(石斧)に特徴をもつが、後半期は姶良カルデラの巨大噴火で始まり、列島内で均一であった石器群様相が地方ごとにその特徴を示し、ナイフ形石器の型式差や尖頭器、台形石器の卓越する地域も認められるようになった。最も遺跡数が多く人口密度も高かった時期でもある。
立川ローム層の最上部で、第III層〜第II層移行部に相当する。マツ属、スギ属、スギ科の針葉樹とコナラ属の広葉樹がまばらに生育しており、ハシバミ属の純林もみられ、またケヤキ属も多い。草地が展開され単条溝型胞子が非常に多く出現している。草原から森林形成への過渡期的植生である。気温、気候ともに現在とあまり相違はない。
ナイフ形石器に代わって、細石刃を中心にした石器群に移行する。この細石刃文化は北方アジアが起源で、北海道と朝鮮半島の二つのコースで渡来したものである。そしてこの細石刃文化の新期段階には「土器」を伴うことから、旧石器時代終末期から「縄文時代」への過渡期の文化とも言える。
武蔵野台地において「文化層」がどの深さまで発見されるかは、日本列島にいつ頃から人間が住み始めたかに通じるテーマである。この地域には通常8m近くの立川・武蔵野両ローム層が堆積している。不思議なことに、約3m下の第X層辺りから、小さいのは豆粒大、大きいのは拳大まで、大半は小さいが主にチャート、砂岩の円礫が含まれている。これを「いも石」と呼んでいるが、このいも石の出現と共にどの遺跡でも石器の発見はぷっつりと途絶えてしまう。
西之台遺跡B地点(小田編1980)、高井戸東遺跡(小田・伊藤・重住・キーリ1977)において、いも石の平面分布と、層位ごとの垂直分布を調査し、その分析結果からは、自然礫で水成堆積の可能性が考えられた。とすれば、武蔵野台地は、第X層以下に水の影響を被った形跡が認められたことになる。「いも石」の謎を解き明かすことによって、約3万8,000年前より古い日本の初期旧石器遺跡を一日も早く発見したいものである。
ちなみに、本州中央部の火山堆積物(ローム層)の発達した四つの地域(北関東地方・武蔵野台地・相模野台地・愛鷹山麓)のローム層準と旧石器文化層の関連を調べると、武蔵野台地で確認されたと同様の石器群変遷がどの地域でも看取され(図5)、またどの地域においても立川ローム層準中に遺跡が発見されるが、それより下の武蔵野ローム層準からの出土はない。つまり日本列島の旧石器文化は、現在までのところ武蔵野台地の西之台遺跡B地点第X層及び第X層中部文化、中山谷遺跡第X層文化(キダー・小田編1975)、そして高井戸東遺跡第X層中部文化(2006年調査)より古い遺跡は確認されていないことになる(小田2002,2005b)。
日本の旧石器時代は、長い間ヨーロッパ編年に合わせて「前期」「中期」「後期」旧石器時代に区分されていた。しかし2000年11月5日「旧石器遺跡捏造事件」の発覚によって、日本の前期、中期旧石器時代遺跡は全て捏造された遺跡であったことが判明し消滅してしまった(前・中期旧石器問題調査研究特別委員会編2003)。したがって、日本列島にはヨーロッパ編年の「後期旧石器文化」に対比される新人(ホモ・サピエンス)段階の旧石器文化しか存在しないことが判明した(小田2002)。
日本最古の遺跡年代について、現在3万年前以前の年代を測定するには「放射性炭素法」では限界に近く、また1万年以前については暦年較正法が確立していない。さらに別の放射年代測定法は、まだまだ分解能力や精度を向上させる面で種々の障害があり使用できない現状にあり、この時期は科学的な年代が出せないエアーポケット的時間帯に相当しているのである(町田2005)。ちなみに近年調査された確かな日本最古級の遺跡のAMS法によるC-14年代測定値は、鹿児島県立切遺跡が30,500±210(Beta-114267)、鹿児島県横峯C遺跡が31,290±690(Beta-102399)、熊本県石の本遺跡が33,180±560(Beta-84291)、静岡県第二東名関連遺跡が32,060±170(IAAA-10714)、東京都高井戸東遺跡が32,000±170(IAAA-51557)、31,790±160(IAAA-51558)、31,780±200(IAAA-51559)など約3万2,000年前(暦年未較正年代)前後に集中した年代が得られている(日本旧石器学会設立準備委員会編 2003)。そしてこの年代値は、すべて立川ローム期(約1万4,000年〜4万年前)の範囲に収束されることが理解されよう。
一方、捏造事件後もまだ岩手県、長野県、宮崎県、長崎県などで3万年前を遡る「中期旧石器時代」遺跡の発見報道が頻発する現状は何であろうか。いずれの遺跡も70年代に芹沢長介が提唱し議論した「珪岩・石英製前期旧石器」と同様な問題、例えば遺物包含層、年代測定法、火山灰対比、自然石などが各遺跡に存在する事実の解決が先決であろう(小田2001,2002)
日本の旧石器時代区分についても、まだ多くの旧石器研究者が「後期旧石器時代」という呼称を使用している(日本旧石器学会設立準備委員会編2003)。だがこれは、研究史的に単にヨーロッパ旧石器時代編年との対比で、日本の遺跡が後期旧石器文化段階(年代的)に相当するという意味合いに過ぎない。したがって早急に、新しい日本列島の更新世文化の「呼称」を検討し統一する必要がある(例えば旧石器時代、岩宿時代、先土器時代など)。また「区分」に於いては、前・中・後期、1・2・3期、I・II・III期なども早急に検討する必要があろう(小田2002)。ここでは日本の旧石器時代石器群に特徴的に認められる「ナイフ形石器」と「細石器」という、二つの特徴的な「示準石器」を用いた区分名称(小野・春成・小田編1992,小田・馬場監修2001,小田2003)が便利であるので、新しい日本の旧石器時代区分名が確立するまで便宜的に使用しておくことにしたい。
現在、北は北海道から南は琉球列島の奄美諸島まで約5,000ヵ所以上の旧石器時代遺跡が確認され、また列島各地に遺跡の集中地域(遺跡群)が形成され、遊動した狩猟・採集生活(稲田2001)を送っていたことが判明している。
ユーラシア大陸東岸縁に位置する日本列島には、少なくとも約4万〜3万年前頃までに、陸橋で繋がったことのある宗谷海峡、朝鮮・対馬海峡、琉球弧などを経由して、周辺大陸から拡散してきた旧石器時代人が渡来していた可能性は大きい(春成2001)。この段階は、まだ日本列島という固有の島嶼環境が成立する以前の旧石器文化であり、その後列島内で盛行する「ナイフ形石器」と呼ばれる特徴的な背付き石器を保有しない「先ナイフ形石器文化」と位置づけることが可能である。
日本列島にはかつてこの文化期に相当する前期・中期旧石器文化が存在(岡村1990,安蒜1997ほか多数)したが、前述したように2000年11月5日の「旧石器遺跡捏造事件」発覚とその後の検証作業によって、すべて「捏造遺跡」であることが判明し消滅してしまった(前・中期旧石器問題調査研究特別委員会編2003)。一方、芹沢長介が大分県早水台遺跡、栃木県星野遺跡などの資料から提唱する「石英製・珪岩製の前期旧石器文化」(芹沢1970)については、石器か否かの論争や遺跡立地の環境・地質的要因等の科学的分析結果(新井1971)においても多くの問題点を抱えており、現状では否定的見解に落ち着いている(小田2001,2003)。
年代的にこの時期に相当する遺跡は、西南日本地域を中心に数ヵ所程度確認されている。東京地方武蔵野台地の遺跡例では、西之台遺跡B地点や中山谷遺跡の第X上層・第X中層文化に代表される。石器には礫器、錐状石器、不定形剥片に特徴をもち、石材にチャート、砂岩を多用した石器群である。この日本列島最古級の旧石器文化は、重量系石器器種(礫器、敲石、磨石)を特徴とすることから、東南アジア、南中国地域、琉球弧に分布する「南方型旧石器文化」との関連が窺われる(小田1999,2000,安里・小田他編1988)。
鹿児島湾奥・姶良カルデラの巨大噴火(約2万9,000〜2万7,000年前)による「姶良Tn火山灰」(AT)降灰以前の段階である。立川ローム第X層上部と第II黒色帯(第IX〜VII層)が形成された時期に相当する。この黒色帯はイネ科の植物の影響でロームが黒色化していたと見られ、当時のこの地方は草原的な環境だったと考えられている。
石器群の特徴は、それ以前の重量的器種が減少し軽量的器種が卓越し、「石刃技法」に基づく石刃利用石器類に特徴を示すようになる。その中には石刃の先端部や基部に僅かな刃潰し加工を施した背付き石器が出現する。この石器は後に「ナイフ形石器」と呼ばれる日本列島特有の器種に発達し、その原初的形態と理解することが出来る。また横形剥片利用の台形状の背付き石器も共伴し、これも同じナイフ形石器の一員であるが「台形石器」「台形様石器」と呼ばれて区別されている。また、この時期を特徴づける石器に刃部を研磨した斧形石器がある。この磨製石斧は「礫器」の進化した器種と考えられ、形態、重量、加工状況などに規範が看取される。この約3万年前という年代を持つ磨製石斧は、日本列島以外では発見されず、唯一オーストラリアに約2万年前頃の磨製石斧が存在するだけである(小田1992)。
ナイフ形石器文化Iに発見される遺構としては、拳大の河原石を集合させた火熱利用の調理施設である「礫群」が登場する。おそらく楕円形や円形の浅い穴を掘り、この中で石蒸し料理(ストーン・ボイリング)を行ったものと考えられる。この礫群という調理施設は、旧石器時代全般を通じて存在するが、その初期と終末期の例は小規模で使用される河原石(礫)も小粒であることが判明している。そして、礫群が一番盛行する時期は次のナイフ形石器文化IIの前半期で、武蔵野台地でも大規模礫群が多数確認され、列島各地の旧石器遺跡に礫群が広く認められていった時期とも一致している。
姶良カルデラが巨大噴火し、高温の火砕流堆積物(入戸火砕流)「A-Ito」は南九州地方を一瞬時に厚く覆い、南九州の旧石器人の生活を壊滅させた。そして、上空に舞い上がった火山灰(姶良Tn火山灰)「AT」は、偏西風に乗って広域火山灰として朝鮮半島や東北地方にまで降下している(町田・新井1992)。この更新世最大級の巨大噴火は、寒冷気候を生み、旧石器人の生活環境に大きな影響を与えた(小田1993)。最終氷期極相期(約1万8,000年前、現在より約6度〜7度低下)を迎え、海面が現在より約140m〜80m低下し、列島周辺の大陸棚(-200m以浅)が陸地となった。しかし、朝鮮・対馬海峡・トカラ海峡(海谷)・宮古海裂・与那国海峡・津軽海峡は陸橋で繋がらず、僅かに北海道がサハリンと大陸に繋がっていただけである。
ナイフ形石器に地方色が誕生し、各種尖頭器(ポイント)が後半期に発達している。また北は北海道から南は鹿児島県まで、各地にその遺跡が多数確認されている。このAT降灰後、ナイフ形石器に地域的な型式差(広郷型、東山型、杉久保型、茂呂型、国府型、九州型など)が誕生し、その後、本州島中央部を境界にした東北日本、西南日本という「二大旧石器文化圏」が形成されていった。さらにこれ以後「日本の東と西」という、この列島中央部を境界にして対峙する二大地域文化圏は、その地域性が遺伝、言語、習俗など多くの分野においても同様に認められている。つまり日本列島に定着した人々による「列島化」が、このナイフ形石器文化IIの時期に初めて誕生したことが看取されるのである(小田2003)。
この時期の後半期に、本州・中央山岳地域や南関東地方の相模野台地などで、小形両面加工の「尖頭器」(ポイント)を特徴的にもつ石器文化が分布している。尖頭器とナイフ形石器、台形石器は共に刺突具(槍)としての機能を有し、狩猟活動に多用された石器である。また尖頭器が卓越して行くに従いナイフ形石器は衰退して行き、さらにその逆も良く周知されている(戸沢1965)。
本州で尖頭器が盛行している頃、九州地方,北海道を中心にして「台形石器」(トラピーズ)と呼ばれる特徴的な刺突具が分布している。台形石器には「台形様石器」と呼ばれる比較的大形品と、「百花台型」と呼ばれる画一化された小形品がある。鹿児島県ではAT降灰以後に、台形石器が多数出現し順次小形化していく様子が知られており(宮田1998)、「百花台型」は後半に登場し西北九州地方に集中して分布している(小田1971)。
また九州全域・中国地方を中心にして、朝鮮半島との関連性を示す「剥片尖頭器」がAT降灰以後に特徴的に認められることは周知の事実である(松藤1969)。
最終氷期も終焉に向かい、最終間氷期(後氷期)の温暖化が加速していく時期で、日本列島の古地理も、現在の「島嶼環境」に近づきつつあった。
日本列島に認められる細石器文化は、ヨーロッパ地域に特徴的な三角形、半月形、台形などの背付き石器を主体にした「幾何学形細石器文化」とは異なり、柳葉形の小さい石刃(細石刃)を中心にした「細石刃文化」である。この細石刃文化はユーラシア大陸東側から東北アジア、そしてベーリング海峡を越えた北アメリカにまで分布する。日本列島にはこうした周辺大陸の細石刃文化が、朝鮮半島とサハリンを経由して二つの方向から流入したことが判明している。
列島内に認められる細石刃文化は、細石刃核の形態、細石刃製作技法などから二つの細石刃石器群に分類できる。一つはクサビ形(舟底形)の細石刃核を持つもので、もう一つは半円錐・円錐形の細石刃核を持つものである。そして前者には、九州地方に分布の中核をみせる「西海技法」「福井技法」「船野型」を特徴とするものと、北海道・東北・中部・関東地方北半部に分布の中核をみせる「湧別技法」「類湧別技法」を特徴とする二つの細石刃石器群系統が認められている(麻生1965)。後者には九州・中国・四国・近畿・中部・関東地方南半部に分布する「野岳・休場型」「矢出川型」と呼ばれる半円錐・円錐形細石刃核と、北海道東北半に分布する「紅葉山型」と呼ばれる円錐形細石刃核が入る。
細石刃文化もナイフ形石器文化と同様に、列島中央部を境に対峙した二つの石器文化圏を呈する。また日本の細石刃文化は、層位的先後関係で古期と新期の二つの時期に分けられる(鈴木1971,宮田1998)。西南日本地域では、最初半円錐・円錐形細石刃核を持つものが分布し、その後朝鮮半島から流入したクサビ形細石刃核を持つものが西北九州を中心に拡散していった。そして西北九州地方では、この新しい段階のクサビ形細石刃文化に最古級の「隆起線文土器」が伴っている。
旧石器時代最終末期の石器文化である。西南日本に半円錐形細石刃核(野岳・休場型)を持つものが分布している。この細石刃核は、その前段階のナイフ形石器文化期IIの石刃核が小形化し発展したものではなく、別の石器製作技術体系の産物である。つまり,ナイフ形石器文化人と細石刃文化人は別系統の出自をもった集団であり、細石刃文化人は新たに周辺大陸から日本列島に渡来した人々と考えられる。
完新世の「土器」が伴う細石刃文化で、無文平底土器(約1万4,000年前)、隆起線文土器(約1万3,000年〜1万2,000年前)、爪形文土器(約1万1,000年〜1万年前)の三型式に継続して伴出している。
南九州地方の細石刃文化は、第 I期は野岳・休場型単純段階、第II期は野岳・休場型に船野型、畦原型、加治屋園型Aタイプが共伴する段階、そして第III期は船野型、畦原型、加治屋園型の中間タイプで、福井型、加治屋園型Bタイプが出現する段階に三区分されている。また第III期になって最古の土器である無文平底土器と石鏃が伴っており、この段階から土器をもつ日本の新石器文化である「縄文時代」に突入していることが判明している。
日本列島は酸性の火山灰を主体とした土壌環境であることから、ヨーロッパや周辺大陸では残存している「骨」は溶けて消滅し、先史時代遺跡から人骨や動物骨が発見されることは稀である。唯一石灰岩地帯や貝塚遺跡などで、遺構などに伴って出土するのが一般的である。
人類学者らの努力によって「旧石器時代人骨」として登録された資料は20ヵ所ほど確認されていた(国立科学博物館編1988,鈴木1998,楢崎・馬場・松浦・近藤2000)が、2000年11月5日の「旧石器遺跡捏造事件」以後人類学分野でも旧石器時代人骨発見遺跡・資料の再検証が行われ、その結果人骨の測定年代が新しくなったものや、さらに人以外の動物骨であったことなど、かなりの部分で旧石器時代から由来した資料ではないことが判明した(馬場2001,2006,松浦・近藤2001,松浦2006)。
最新の日本列島の旧石器時代人類化石の解釈は、人類学・人類年代学研究者らの研究成果によって以下の通りに説明されている。
ここで先ず旧石器時代研究の標準地域であるヨーロッパと、日本列島における旧石器時代の定義とその枠組みについて整理しておくことにしたい。旧石器時代は地質学的区分で、新第三紀鮮新世後期〜第四紀更新世(約260万〜1万年前)に相当する。またこの時期は、地球上に大規模な氷河が発達し「氷河時代」とも呼ばれる。更新世後半期には、北半球の高緯度地方で大陸氷床の拡大と縮小が規則的に起こり、約10万年単位の周期で、気候の寒冷期(氷期、海面の低下、陸橋の形成)と温暖期(間氷期、海面の上昇、陸橋の消滅)が繰り返され、その変動が現れていた。
人類紀と呼ばれる「第四紀」は、次のように区分されている。前期更新世は約175万年〜78万年前、中期更新世は約78万年〜13万年前、後期更新世は約13万年〜1万1,000年前、そして完新世は約1万1,000年前〜現在までである。
次に深海底堆積物の酸素同位体比変化による海洋酸素同位体ステージ(MIS:Marine Isotope Stage)区分を基に、日本の旧石器時代に関わる時期についても述べておきたい(町田2001,2005,小野2006)。
日本列島は大陸の縁弧であることから、過去に大陸と繋がったことが推定されている。それはまず動物学的方面から「陸橋」存在の可能性が指摘され、大型哺乳類の「ゾウ(長鼻類)」化石産出層の分布や年代から、第四紀更新世の4つの時期にゾウの渡来が認められ、その頃に陸橋が存在したのではないかと議論されている(河村1998、小西・吉川1999、春成2001)。その議論の内容は、
というものである。こうした大陸と日本列島との陸橋問題は、日本列島の形成過程と深く関わりがあることから、この4つの時期の地質学的な東シナ海、日本海の変遷を調べる必要がある。
ヒトは訓練を受けないと本来は泳げない動物である。したがって人類にとって河川や湖沼そして広大な海域は、その拡散・移動に大きな障害物になったはずである。おそらく原人・旧人段階のヒトは、飲料水や居住地としての水辺の利用が主であった。そして人類が積極的に水域へ進出するのはホモ・サピエンス(新人)段階であり、原人・旧人に代わって新たにアフリカで誕生した新人が、その初期から海洋資源を利用していたことも判明している(海部2003)。
約7万年前頃に第二の「出アフリカ」を果たした新人は、ヨーロッパの地中海そしてアジアの太平洋に渡航具(筏舟、丸木舟など)を使用して船出した。人類最初の渡海は、約5万年前頃の東南アジアのスンダランドからサフルランドへ移住した新人集団で、ウォーレス線を超えて約100kmのウォーレス多島海を航海している(片山2002, 後藤2003)。また約3万2,000年前頃に日本列島中央部の太平洋岸から、伊豆諸島の神津島へ「黒曜石」の原石を求めて、約30kmの黒潮激流を乗り越えて交易活動を展開した新人集団も判明している(小田2005a)。つまり日本列島最古の旧石器時代人(約3万5,000年〜1万4,000年前)は、周辺大陸から陸橋を歩いて渡らなくても、すでに習得していた渡航技術を利用して十分に日本列島へ渡来することが可能であったのである(小田2000,2003)。
日本の旧石器時代研究は、2000年11月5日に日本考古学界を震撼させた「旧石器遺跡捏造事件」の発覚によって、3万年前以前とされていた「前期・中期旧石器文化」の存在は全て白紙に戻ってしまった。したがって現在最も確かな日本列島最古の遺跡は、70年代から連綿と発掘調査を続けてきた武蔵野台地の約3万5,000年〜3万2,000年前頃の「第X層文化」の資料である。捏造事件後、若い旧石器研究者らによって「後期旧石器時代のはじまりを探る」(2003)、「立川ローム層下部の層序と石器群」(2005)、「武蔵野台地における野川流域遺跡群の成り立ちと立地環境」(2005)「岩宿時代はどこまで溯るか―立川ローム層最下部石器群」(2006)、「野川流域の旧石器時代」(2006)、「多摩川流域の考古学遺跡の成立と古環境」(2007)など日本最古の遺跡を追跡する研究集会やシンポジウムが活発に開催され、30年以上経ってやっと武蔵野台地の旧石器時代遺跡の重要性が再認識されてきた現状が看取される。そして考古学人生の大半を東京都に籍を置き、「武蔵野台地の旧石器時代遺跡」の大規模調査を担当してきた筆者としては研究が正道に戻った安堵と喜びに耐えません。
末筆ながら、この度韓国旧石器研究の重鎮であられる鄭 永和先生がご退官されるとお聞きし、学生時代から先生の著書・論文などで韓国の旧石器文化を学ばせて頂いた一学徒として感慨深い想いで一杯です。朝鮮半島は日本へのヒト・モノ・文化の主要な渡来回廊であり、現在確認されている旧石器文化にもこの半島経由の石器群様相が多く認められています。先生にはこれからも「韓国考古学」を私たちにご教示下さることを祈念し、さらにご健康に留意なさり益々のご活躍をお祈り申し上げ筆を置く次第です。
本稿を草するにあたり、今日まで筆者と共に武蔵野台地の調査・研究にご尽力下さった多くの諸先生・諸氏・諸機関に感謝申し上げると共に、ここにお名前を明示し心から御礼申し上げます。
J.E.Kidder、小山修三、C.T.Keally、赤澤 威、山中一郎、加藤晋平、長谷川善和、小林達雄、春成秀爾、山口 敏、佐倉 朔、馬場悠男、松浦秀治、海部陽介、小野 昭、白石浩之、阿部祥人、町田 洋、杉原重夫、徳永重元、五十嵐俊雄、橋本真紀夫、戸田哲也、新里 康、辻本崇夫、重住 豊、新田重清、安里嗣淳、上村俊雄、新東晃一、宮田栄二、中山清隆、東京都教育委員会、国際基督教大学考古学研究センター、東京大学総合研究博物館、国立科学博物館、パリノ・サーヴェイ考古学調査室・研究所。(順不同)