東京の奥多摩を源にした多摩川は、山間の峡谷を通過して青梅市から平野部に出る。武蔵野台地はこの青梅を頂点に、北西は入間川、北東は荒川、南西を多摩川に画された長軸約50kmの長方形の台地で、またこの青梅を扇頂に東方に開いた多摩川に起源をもつ扇状地とも言われている。武蔵野台地は基盤層の上部に「関東ローム」と呼ばれる火山灰層が厚く堆積し、南関東地方のローム層は多摩川の河岸段丘区分に対比され、下層部から多摩ローム(約40万〜13万年前)、下末吉ローム((約13万〜8万年前))、武蔵野ローム(約8万〜4万年前、立川ローム(約4万〜1万5,000年前)層の順に細分されている。
武蔵野台地の一般的な遺跡を発掘すると、表土(耕作土、近・現代)、黒色土(近世〜古墳時代)、黒褐色(弥生〜縄文時代)という沖積世の遺物包含層が1m程度堆積している。そしてその下には、更新世の堆積物である「関東ローム層」が2m〜3m近く堆積し、段丘面の基層である礫層や粘土層となっている。その中で旧石器時代の遺物が発見される層準は、最上部の「立川ローム層」(約4万〜1万5,000年前)である。かつて立川ローム層準より古い武蔵野ローム層中から石器の発見が多摩ニュータウン内の遺跡で報じられたが、2000(平成12)年11月5日の「旧石器遺跡ねつ造事件」の発覚によって、こうした日本の「中期・前期旧石器時代」(約3万年前以前)と呼ばれた遺物・遺跡はすべて消滅してしまったことは周知の事実である。
本稿では、現在まで日本列島最古級の遺跡である武蔵野台地の「立川ローム第]層文化」について、その研究史と問題点を探ってみることにしたい。
1969・70(昭和44・45)年に実施された東京都調布、三鷹、小金井の3市にまたがる野川遺跡(ICULoc.28c)の大規模発掘調査(団長・国際基督教大学J・E・キダー教授)は、一遺跡で10枚にも及ぶ旧石器文化の多文化層重複遺跡として登場し、日本の旧石器時代研究史に画期的な成果をもたらした(小林・小田・羽鳥・鈴木1971、小田2009)。その一つに今まで型式学的知見によって編年されていた日本の旧石器時代石器群を、より細かな層準識別の中に「生層位学」的知見で変遷を捉えたことに特徴がある。つまり野川遺跡は幸いなことに、立川段丘という武蔵野台地で一番低位面に立地していたことから、5m近くの立川ローム層が厚く堆積していたのである。ちなみに東京の旧石器遺跡の研究史は、板橋区茂呂遺跡(1951)を出発点にして高位の武蔵野段丘面で行われ、立川ロームの層厚も2m前後と薄いものであった。したがって層序区分も、表土、黒褐色土、軟質(ソフト)ローム、硬質(ハード)ローム、そして上下二枚の黒色帯(ブラックバンド、暗色帯)などが調査者によって識別される程度のものであった。
野川遺跡では従来のこうした地質学・考古学者らによる層序識別を基準にして、地質学、火山灰学、土壌学、年代学など学際的研究者の参加によって、表土(耕作土)を第I層、黒褐色土で弥生・縄文時代遺物包含層を第II層とした。それ以下は褐色の立川ローム層準で、最上部の軟質(ソフト)を第III層、硬質(ハード)ローム部分から第IVa層、第IVb層(第0黒色帯−TcBB0−)、第IVc層、第V層(第1黒色帯)、第VI層(姶良Tn火山灰−AT−)、第VII層(第2a黒色帯−TcBBIIa−)、第VIII層、第IX層(第2b黒色帯−TcBBIIb−)、第X層、第XI層、そして第XII層は青灰色砂層、第XIII層は段丘基盤の立川礫層(TcG)と13枚の自然層に細分された。この中で旧石器時代の石器・剥片集中部、礫群・配石などの遺物・遺構類が、この自然堆積層中に合計10枚(第III層〜第VIII層)確認され、層位の名称に合わせて上から「第III文化層・・・第VIII文化層」と命名された(図1)。 その後、野川上流域では小金井市ICULoc.15(1971・72)、府中市武蔵野公園(1971)、小金井市平代坂B(1971)、西之台B(1973・74)、中山谷(1974)、前原(1975)、新橋遺跡(1976)と連続的に旧石器遺跡の発掘調査が実施された。そして小金井市「はけうえ遺跡」(1977・78)の大規模調査で、武蔵野台地における旧石器遺跡研究の集大成が完成する。こうして遺跡から発見される礫群・配石、石器・剥片類、炭化物片などの平面的・垂直的分布状況を観察して文化層設定が行われた。こうして各遺跡で自然層準に照らして文化層決定が行われ、「00遺跡第0層文化」と呼称されることになった(小田1977b,2003,2007)。
野川遺跡の発掘調査で、立川ローム第2黒色帯は第VIII層を挟んで二つに分層(第VII層と第IX層)された。そしてこの黒色帯の下半部(第IX層)の下には、明るい褐色のローム層が確認され「第X層」と命名された。この層は一段高い武蔵野段丘面の遺跡にも同様に立川ローム第2黒色帯の下に存在したが、第X層とは呼ばれずに遺跡ごとに異なった層序名が使用されていた。しかし野川遺跡で設定された立川ロームの基本層序は、その後の武蔵野段丘面の発掘調査でも広く用いられた。そして現在ではその上部に第VIII層が確認されなくても、第2黒色帯の下の層は「第X層」と呼称されるようになった。
1971〜74(昭和46〜49)年、野川上流域の平代坂B、中山谷、西之台B地点の発掘調査行われた。この調査で野川遺跡の「第VIII層文化」が武蔵野台地で最古級の石器文化と考えられていたが、それより下層部の「第IX層」「第X層」に未知の旧石器文化が続々と確認され出した(小田・キーリ1974)。そしてその石器群が、日本各地で最古級とされている旧石器様相と共通した内容を示したことから、旧石器研究者間で「第X層文化」について注目されることとなった。
やがて日本列島の旧石器時代編年が、この武蔵野台地の立川ローム層中に確認された14枚以上の層位的な石器群変遷を基本にして完成することになる(小田・キーリ1975,1979)。
1973(昭和48)年4月板橋区栗原遺跡の試掘調査が、東京都教育庁文化課(担当・小田静夫学芸員)によって行われた。この遺跡からは1955(昭和30)年の発掘調査で、軟質ロームから細石器、硬質ロームから礫群が発見されていた。しかし当地はすでにグラウンドとして約2m以上が掘り下げられていた状況にあり、遺物包含層の有無確認が主目的であった。しかし発掘が開始してまもなく各地点から石器の発見があり、その包含層は明褐色のやや軟質のローム中であった。やがて明治大学学生の斉藤基生君のグリッドから、一点の立派な「磨製石斧」が出土し調査者たちを驚かせた。当時、日本の旧石器時代の磨製石斧は、「ソフトローム」と呼ばれたローム最上部(約1万年前後)に出現する新しい石器とされていた。したがって栗原遺跡でも従来の知見を考えて、出土層準の詳細な検討を行った結果は、想像もしなかった立川ローム第2黒色帯下の「第X層」と判明した。ただちに事の重大性から調査を一時中断し、都文化課と文化庁の小林達雄調査官に通報し指示を待ったのである。その結果、東京都建設局公園緑地部都市公園課との協議で、当地点は土盛りされ保存されることが決定した(小田1977a、小田・キーリ1989)。
日本の旧石器時代の磨製石斧は、1949(昭和24)年の群馬県岩宿遺跡と1970(昭和45)年の千葉県三里塚No.55遺跡で発見されていたが、岩宿遺跡例は研究者間で磨製か摩耗品かという論争があり、三里塚遺跡はC-14年代測定で29,300±980(N-1080)と出されていたが、下総台地での層準認定が不確定という現状であった。その点、武蔵野台地という研究が最も進展していた地域での磨製石斧の発見と、その確かな出土層準の把握は年代決定に重要な示唆を与えることとなった。当時、立川ローム第X層からの出土遺跡例は、小金井市平代坂遺跡B地点しかなく、栗原遺跡のまとまった石器群の出土は重要な資料となった。そして、この発見を契機に日本各地の旧石器時代の磨製石斧が検証され、世界に先駆けた約3万年前という古い時期に、日本列島では多数の磨製石斧が製作されていた事実が判明したのである(小田・キーリ1973)。
遺跡の年代を知る方法として、出土した木材、炭化物などによるC-14年代測定法が多く用いられているが、3万年を超す古い年代を測るには限界があるとされていた。しかし最近では、多くの補正値を駆使して約5万年前頃まで可能であるという。また近年、C-14年代値と暦年較正年代が併記されることが一般化している。この暦年代補正値は、C-14年代値に約2,000〜3,000年を加算すれば近い値となるとされる。
武蔵野台地の立川ローム層の年代は、1968年頃に関東ローム研究グループらによって、成城の上下二つの暗色帯(埋没古土壌)のC-14年代値(上方17,000±400、Gak-1129、下方24,900±900、Gak-1130)が測定されていた程度であった。こうした状況を大きく変えたのが、野川遺跡の大規模発掘調査(1969・70)であった。団長のJ・E・キダー教授と小山修三助手らは、立川ローム各文化層から出土した炭化物片をアメリカのシカゴ大学のC-14測定室に送った。さらに東京大学の渡邊直經博士を通じて鈴木正男助手に、出土した黒曜石石器のフィション・トラック法による理化学的分析(産地同定、水和層年代)を依頼したのである。その後、野川上流で数多くの旧石器遺跡が同じ調査グループで発掘され、多くの自然科学的手法が取り入れられ年代測定値も増加していった。現在では20ヶ所近くの旧石器遺跡から、炭化物片、腐食土壌試料などで100点近くのC-14年代測定値が得られている(小田2003,2007,2009)。
ここでは各ローム層準について、最も古い年代値を平均化した相対年代で「立川ローム層の年代」を推定してみた。その年代は、
と測定されている。ちなみに相模野第2スコリア(S2S)の年代が約35,000年前と得られ、これは第X層中部に確認されている。したがって第X層下部の立川と武蔵野ローム層の境界線は約40,000年前と推定可能である。
こうした年代観から、武蔵野ローム期は約8万〜4万年前、立川ローム期は約4万〜1万5,000年前、そして人類遺跡が確認される立川ローム第X層上・中部は約3万〜3万5,000年前と考えることができる(橋本2007、矢作・橋本2012)。
立川ローム期の自然環境は、泥炭層など花粉量の豊富な土壌からの科学分析によって、更新世後期の気候は氷河期の寒冷気候であったことが知られていたが、台地上の遺跡でのローム層中からの分析は行われていなかった。野川遺跡では日本で初めて立川ローム層の花粉分析が、都立府中東高校の田尻貞治氏によって行われ、続いて日本肥料株式会社花粉分析研究室(現在パリノ・サーヴェイ研究所)の徳永重元博士によって小金井市西之台B、中山谷、前原、新橋遺跡で立川・武蔵野ローム層準の連続的資料の分析と解析が行われた(徳永1975,1976,1977)。その後、小平市鈴木遺跡(1974〜80)、杉並区高井戸東遺跡(1976)、小金井市はけうえ遺跡などの詳細な分析結果が追加され、武蔵野台地の立川・武蔵野ローム期の花粉変遷が体系的に語られる段階に到達した(徳永・橋本1983)。
それによると、3つの花粉ゾーンに区分された(図2)。
ゾーンI: まず武蔵野台地が形成された武蔵野ローム期(約12万〜4万年前)の状況は、まだ植生が定まらず樹木、草木が僅かに生育し、多雨でやや温暖であったことから洪水がたびたび起こり、多く自然小礫「いも石」(小田2012)が地表を流れる荒涼たる景観であった。
ゾーンII: 立川ローム期(3万5,000年前頃)になると、洪水も少なくなり台地上にシダ類が繁茂し針葉樹、草木類が生育しはじめる。
ゾーンIII: やがて立川ローム期の後半(2万4,000年前頃)になると、草地と樹木のまばらな景観で樹種は豊富になってくる。この後は更新世から完新世に移行する時期(1万4,000年前頃)で、針葉樹、落葉広葉樹の混交林や、単独樹木の林も存在し、シダ類も多く繁茂している。気候も温暖になり氷河時代が終末(1万500年前頃)を迎える。
そして立川ローム第X層(3万〜4万年前頃)はゾーンIの初期で、やや温暖で雨の多い気候が続き、多摩川の上流域から砂岩、チャートなどの自然小礫が洪水のたびに台地上に分布し、シダ類が異常に繁茂し樹木、草木がまばらに生育している自然環境であった。武蔵野台地で確認される最も古い遺跡は、この第X層上・中部(第Xab層)に発見される「第X層石器文化」であった。
武蔵野台地の旧石器時代編年は、野川上流域の一連の発掘調査で第T文化期(a・b・c亜文化期)、第II文化期(a・b亜文化期)、第III文化期、第W文化期に区分された(小田・キーリ1975,1979)。この4つの文化期とローム層準を対比させると、上部から第IV文化期は第III層上半部、第III文化期は第III層下半部、第II文化期は第IV層、第I文化期は第V層〜第X層中に包含されている。その中で、第X層には第Ia亜文化期(第X層中部)と第Ib亜文化期(第X層上部)の二つの石器群が確認されている。
第Ia亜文化期: 錐状石器、ナイフ状石器、礫器などがあり、剥片剥離技術としては礫の原面から直接剥離する直接打法や、石材の節離面を生かして剥離する技術に特徴を持っている。不定形の横広剥片が多いが、やや縦長剥片を意識した剥離技法の萌芽が認められる。出土状況は、石器・剥片類がやや広範囲に分布して発見される。炭化物片の集中した遺構は存在するが、礫群と呼ばれる厨房施設はまだ出現していない(図3)。
第Ib亜文化期: ナイフ形石器、磨製石斧などがあり、縦長剥片を連続的に剥離する石刃技法が認められる。ナイフ形石器は石刃基部の両側に僅かな刃潰し加工を行い、磨製石斧は扁平礫や分厚い大型剥片の周縁部を整形加工して先端部を研磨している。スクレイパー類が発達し、鋸歯縁加工を施した例も特徴的に存在している。出土状況は、石器・剥片類が「環状ブロック」と呼ばれる特徴的な出土状況を呈して発見される例が多い。炭化物片が集中した遺構が、多数確認されている。後半期になると「いも石」を使用した小規模な礫群が出現している(図4)。
この第X層文化の武蔵野台地での発見遺跡(1981年当時)は、古期の第Ia亜文化期は野川上流域に4ヶ所発見されていただけで、新期の第Ib亜文化期は20ヶ所以上確認され武蔵野台地全域に分布していた。こうした遺跡の分布状況から、約35,000年前頃に武蔵野台地に初めて登場した旧石器人たちは、また洪水がたびたび襲っていた多摩川に面した野川流域の台地上に居住地を設けた。やがて生活環境も安定してきた約32,000年前頃になると、武蔵野台地上を流れる多くの小河川流域にも生活圏を拡大させていった様子が読み取れる(小田1981、図5)。
武蔵野台地の立川・武蔵野ローム層について、近年、杉並区内の遺跡を中心にしてパリノ・サーヴェイ研究所の橋本真紀夫・矢作健二氏らによって詳細に分析研究されている(橋本2007、矢作・橋本2012)。それによるとこの両ローム層は連続的に堆積されたもので、立川ロームは低位の立川段丘面に、武蔵野ロームは高位の武蔵野段丘面に立川ロームの下部層として堆積している。そしてこの両ロームについては、斜交関係を有する不整合部分を境界線とし、立川ロームには上下2枚の黒色帯の存在が確認される。現在まで、この立川・武蔵野ローム層準の境界線については諸説あるが、この両ローム層の堆積状況には休止期はないことから、この区分は地質学的「層界」というよりも編年的な「境界」と捉えるものとされている。
立川ローム第X層は、第2黒色帯の存在によって確認される層準であり、この黒色帯の下部に相当する第IX層の下から、武蔵野ローム層との境界線までと一般的には考えられている。つまり野川遺跡の立地する立川段丘面では、第IX層(黒色帯IIb)と立川礫層(TcG)との間に堆積したローム層ということができる。武蔵野段丘上では立川段丘の離水頃も、乾いた陸上面に風性砕屑物を母材とする土壌の形成が継続している。一方、離水後の立川段丘上でも土壌の形成が始まるが、その頃の土壌の母材には河川堆積物に由来する砕屑物がかなり多く含まれている。つまりこの両段丘上における第X層は、それぞれ堆積環境が異なっていたことが重鉱物組成、植生分析結果などからも証明されている。こうした事実から両段丘上に発見される第X層文化を、層の厚さや深さなどで比較対比することは適切ではない。ただし同じ段丘上の遺跡においては、各層の層厚は重要であり出土層準を決定づけるには重要な目安になる。
次に第X層文化について各調査報告書を調べると、層準の捉え方や認定にやや不安材料が認められる。それはまず、第X層の定義から始める必要がある。では第X層とは、@立川ローム第2黒色帯(第IX層)下に堆積している。Aこの第IX層と第X層の間に漸移層(第IXb層)が存在する。B上部(第Xa層)、中部(第Xb層、相模野第2スコリアが散見)、下部(第Xc層)に細分できる。C灰色で緻密で硬質な第XI層(武蔵野ローム期)との境界線までが第X層である。こうした定義の中で、Aの漸移層中から出土した石器群を第X層文化と位置付けた報告が存在することである。これは第IX層の第2黒色帯の下限が、第X層と漸移する部分を上下どちらの層準に含めるかという問題でもあり、層準の基質のどちらが勝るかで判定できる。一般的には上位が下位を侵している基質が優位と判断され、漸移層(第IXb層)とし第IX層下部と認定するのである。したがってこの層準から発見された石器文化は、第X層文化とは区別して考える必要がある。
ところで第X層堆積時の地形景観を調べると、武蔵野段丘上の杉並区堂の下遺跡の第X層文化(約3万〜3万5,000年前)が営まれた頃は、神田川との比高は現在よりかなり低かったと推定され、洪水の度に河川小礫(いも石)が台地上に堆積していた。一方、野川遺跡が立地する立川段丘は、野川が多摩川と合流する下流域の二子多摩川付近では、段丘面が多摩川低地に連続するように消滅している。この事実から多摩川河口部では立川段丘はもっと深くもぐり込み、最終氷期寒冷期の海面低下時には東京湾は峡谷状況で、太平洋岸の大陸棚にも人類活動が展開される環境が存在していたことが推定される。つまり立川段丘形成期の第X層文化は、まだ段丘面の比高が低く度々洪水に見舞われていたが、武蔵野段丘上の自然環境がやや安定して生活環境が整った時期に渡来した最初の旧石器人の居住痕跡ということができる。
立川ローム第X層文化は、武蔵野台地に形成された多摩川に面した武蔵野段丘と立川段丘上に堆積した「立川ローム第X層」中に確認される。この層準名は関東ローム研究の標式地域に位置した野川遺跡で命名され、その後の武蔵野台地の旧石器遺跡の発掘調査で広く使用された。一方、日本の旧石器研究者たちは、武蔵野台地の旧石器編年が列島内の様相をよく反映している事実を知り、その中でも最古段階の「第X層文化」について注目したのであった。
現在この日本最古級の旧石器文化である第X層文化には、二つの石器群様相が認められている。一つは第X層中部に包含される「第Ia亜文化期」(35,000年前)、もう一つは第X層上部に発見される「第Ib亜文化期」(約30,000〜32,000年前)である。前者は不定形剥片と礫器を持ち、錐状石器、ナイフ状石器を特徴とし、遺跡数は少なく単独ユニットを示す小規模集落が形成されている。後者は石刃技術を持ち、ナイフ形石器、スクレイパー、磨製石斧を特徴とし、遺跡の数も増大し集落規模は「環状ユニット」と呼ばれる大規模例が出現している。
この二つの石器文化は第X層中での堆積状況から、前者がやや深く後者は上方に包含されていることから、前者が古く後者が新しいものと推定できる。しかしこの二つの石器文化間には発展的関係が明確に認められない。このことから、それぞれ別の原郷から列島内に渡来した石器文化と考えることもできる。おそらく前者は遠く黒潮源流地域(スンダランド)から、後者は周辺大陸側(朝鮮半島)から共に海を渡ってやってきたホモ・サピエンス(新人)たちであったのであろう。
最後に、本稿を草するにあたり多くの先学諸兄,諸先生方にお世話になりました。以下にお名前を明示し、心から御礼を申し上げます。
徳永重元、橋本真紀夫、矢作健二、新里 康、戸田哲也、麻生順司、宮下数史、チャールズ・T・キーリ、椚 國男、佐々木蔵之助、和田 哲、河合英夫、東京都教育委員会、小金井市教育委員会、杉並区内遺跡発掘調査団(敬称略、順不同)