南島考古 No.36 2017年7月発行 p.21-34

考古学からみた新・海上の道

小田静夫

はじめに

 日本民俗学の父と呼ばれる柳田國男は、最晩年の1961(昭和36)年に著した『海上の道』の巻頭論文「海上の道」(昭和27年雑誌「心」に三回連載)の中で、「原日本人の起源について、縄文期と弥生式期の境目の頃に、米の種実と稲作技術を持った南方の人々が黒潮を北上して本土に住みついたと考えられる」という仮説を提示した。このユニークな日本文化論は、海のロマンと結びつき日本人の心を魅了したことは良く知られている。そして、この「海上の道」の発想は、学生時代(明治31年夏、東京帝國大學二年生、23歳、松岡姓)に1ヵ月半ほど訪れた三河の伊良湖崎の砂浜で、裸珀していた椰子の実を三度ばかり見たことの「思い出」にあると評されている。またこの話は、柳田から聞いた友人の島崎藤村が、1901(明治34)年8月の詩集に「椰子の実」として発表し、1936(昭和11)年7月に国民歌謡として作曲されたエピソードも有名である。柳田はこのひと夏の体験を、1963(昭和38)年8月8日(87歳)に亡くなる前年まであたためて、柳田民俗学の総決算、遺書とまで言われる「単行本」に結実されたのであった(中村哲2010『新版 柳田國男の思想』)。

 この柳田國男が想定した「原日本人南方渡来説」は約2,000年前頃の「弥生時代」のことで、考古学的方面からは琉球列島と本州島に「南海産貝製腕輪の交易」(貝の道)と「弥生土器、青銅・ガラス製品、米、ブタ」などの搬入関係が知られているだけである。一方、近年の分子人類学の進展で、縄文時代人の祖先は東南アジアの「スンダランド」から北上したホモ・サピエンス(新人)たちが、琉球列島や日本本土に移住・拡散した「南方起源」(DNA分析)の人々であることが判明している(佐々木2003ab、篠田2007、溝口2011)。

 筆者は70年代に東京・武蔵野台地の発掘調査で、伊豆諸島の神津島産「黒曜石」の理化学的分析を行い、日本の旧石器時代人が世界最古の「海上航行」を行っていた証拠を確認した。また伊豆・小笠原諸島の調査で、「黒潮」の流れてくる「琉球列島」からの多くの文物(円筒石斧、貝の道、壺屋焼陶器、糸満漁民の活動など)交流が認められた。こうした事実から、民俗学者の柳田國男が「椰子の実」から想定した原日本人南方渡来仮説になぞって、黒曜石分析や考古学的資料の比較研究などから、「新・海上の道」とも呼称できる最古の日本列局人の「南方渡来説」を提唱し追跡してきた経緯がある(小田2000, 2002)。

 本稿は、黒潮源流地域から台湾、琉球列島、さらに伊豆・小笠原諸島、マリアナ諸島などに展開された「黒潮圏の先史文化」の動態を検証して見ることに主眼がある。

1 海洋航海民の誕生

 最新の分子(遺伝)人類学の成果から、アフリカで旧人または原人から進化した「ホモ・サピエンス」(新人)が、約10万年前(7万年説もある)にアフリカを出てユーラシア大陸に移住・拡散したことが判明している(第二の「出アフリカ」)。ちなみに第一回目の「出アフリカ」は約180万年前の原人段階で、その後、原人から進化した旧人(ネアンデルタール人)らは各地で絶滅(混血説もある)したと考えられている。したがって、世界中のすべての我々「現代人の起源」は、約20万〜10万年前にアフリカで誕生した「新人」だとされる。

 新人たちはアフリカ東部から紅海を通ってアラビア半島南端に渡たるコースと、シナイ半島を抜けて中東に至るコースの二つが推定されている。ユーラシア大陸に出た新人たちは、アジア大陸の東端にはヒマラヤ山脈の北側を通る「北ルート」と、南側を通る「南ルート」があった。そして南ルートの新人は、インド半島を経由して東南アジア地域に到達した。この地域は当時、マレー半島からインドネシア諸島、カリマンタン島が陸地で繋がる「スンダランド」と呼ばれた広大な大陸を形成していた。アフリカから旅立って約6万年前には、彼らはこの生まれ故郷と同じ熱帯環境の内陸部(熱帯雨林環境)に「礫器文化」を、島嶼地域(熱帯海洋環境)に「剥片石器文化」を発達させた。やがて島嶼地域で海洋適応した新人集団の一部が、約5万年前にウォーレス線(生物地理区境界線)を越えて広大な海世界の「オセアニア」に船出した。彼らはオーストラリアとニューギニアが繋がり広大な陸地を形成していた[サフルランド」に移住・拡散し、現在のオーストラリア先住民の「アボリジニ」やニューギニアの人々の祖先となった(後藤2003、海部2005、溝口2011、印東編2012)。

 現在、確認される日本列島最古の人類遺跡は、約4万〜3万5,000年前頃の琉球列島と古本州島(九州・四国・本州)に発見される旧石器文化である。その石器群様相は「礫器・磨石・不定形剥片石器」にその特徴を示し、それらはスンダランドの旧石器文化と共通した石器群様相である。この事実は、東南アジアの旧石器人集団が、約4万年前頃に「黒潮」(日本海流)を利用して、フィリピン諸島、台湾、琉球列島を経由して、日本列島の太平洋沿岸地域に移住・拡散したことの証左と考えられるものであった(NHKスペシャル「日本人」プロジェクト編2001、小田2014)。

2 世界最古の航海記録

 世界史において、人類が初めて海洋航海を行った証拠は地中海のエーゲ海周辺の約8,000年前の「黒曜石交易民」(中石器時代)であった。一方、日本列島本州中央部の太平洋上に浮かぶ伊豆諸島「神津島」に、海洋渡航を行って石器製作材料の「黒曜石」の交易活動をしていた旧石器・縄文・弥生時代人が存在していた。神津島と本州(伊豆半島)の間は、約2万年前の最終氷期最寒冷期でも海深200m、幅30km以上の海峡が存在し、この島の黒曜石を入手するには渡航具(筏舟、丸木舟)を使用した海上航行が必要であった。石器を主道具とする先史時代にあっては、黒曜石を多量に産出する神津島はまさに「宝の島」であった。驚くことに東京・武蔵野台地(野川流域)の旧石器人は、すでに約3万5,000年前には神津島産黒曜石を利用しており、これは「世界最古の海洋航行」の証左であった。

 神津島を最初に発見した旧石器人は、約4万年前に故郷のスンダランド海岸部を船出した海洋航海民であった。彼らは黒潮海流を利用して北上し、フィリピン諸島、香港東湾、そして台湾経由で琉球列島に上陸した。その後、九州南部・四国・本州の太平洋沿岸地域を遊動・拡散していった。その移住過程で、本州中央部の太平洋上で黒曜石のを認め多用したのであろう(小田2000、2002)。

3 サンゴ礁文化の誕生

 九州最南端から沖縄の与那国島までの約1,260kmの洋上に199余りの島々が分布し、「南西諸島」「琉球列島」「琉球弧」などと呼ばれている。これらの島々は、九州に近い方から北部圏(種子島、屋久島、トカラ列島)、中部圏(奄美大島、徳之島、沖縄本島)、南部圏(宮古島、八重山列島)の三つに区分されている。また最近では琉球王国の政治的範囲を基準にして、北琉球圏(奄美、沖縄諸島)と南琉球圏(宮古、八重山諸島)の二つに区分されることが定着している(安里2003)。

北琉球圏:

 旧石器時代遺跡は、鹿児島県奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡(約2万5,0000年前)、徳之島の天城遺跡(約3万年前)、沖縄県沖縄本島の山下町第一桐穴(約3万6,000年前)、同島の港川フィッシャー遺跡(約2万2,000年前)などがある。山下町第一と港川フィッシャーの両遺跡からは、更新世化石人骨(旧石器人)が発見されている(小田1999, 2014)。近年、沖縄本島のサキタリ洞遺跡から2万l,000〜l万3,000年前の釣り針(発見例では世界最古)と、化石人骨と石器、貝製品が共伴(約見があり注目されている(山崎2015)。

 次の貝塚時代前期(縄文時代相当期、約8,000〜2,200年前)になると、九州地方から縄文時代人の南下があり、縄文前期(約6,000年前)には熊本県曾畑貝塚人が、後期(約3,000年前)には鹿児島県市来貝塚人が沖縄本島まで南下している(安里2003, 2011)。一方、縄文草創期(約1万4,000年前)頃には、長崎県五島列島から沖縄本島にかけての地域に「桁ノ原型石斧文化圏」が形成されていた。また約5,000年前頃には、琉球列島を経由して南九州地域に東南アジア、中国大陸沿岸部から、特徴的な磨製石斧(双刃石斧、稜付き石器)を持った海洋航海民の北上が確認されている(小田2001、佐々木2003ab)。

 貝塚時代後期(弥生〜平安並行時代、約2,200〜1,000年前)になると、「貝の道」と呼ばれる南海産貝製腕輪の交易活動が展開された。これは琉球列島のサンゴ礁に生息する大型貝類(ゴホウラ・イモガイ)が、その殻の多様さと装飾性や神秘性から日本本士の縄文・弥生時代人を魅了したことに始まる。特に北九州地方の弥生人は、ゴホウラとイモガイ製の腕輪を特に珍重した。この貝の道は本土では古墳時代まで存続し、大和朝廷では王権の象徴的儀器である貴石製宝器(石釧・車輪石・鍬型石など)にまで南海産貝殻製品の形状が模倣されていたのである(木下1996、安里・岸本2001)。

南琉球圏:

 沖縄本島と宮古島の間には無島空間区域(宮古凹地、約290km)が存在し、先史時代(グスク時代以前)には北琉球圏との文化的関連は認められていない。

 旧石器時代は、宮古島のピンザアブ洞穴(約2万7,000〜2万6,000年前)と石垣島の白保竿根田原洞穴(約2万〜1万5,000年前)が確認されており、両洞穴追跡からは更新世化石人骨(旧石器人)が発見されている。

 次は、先史時代前期(約4,000〜2,500年前)と後期(約2,500〜800年前)に二分され、前期は下田原式土器を持った「下田原文化」、後期は「無土器文化」でシャコガイ製の貝斧が特徴的に発見されている(高宮1991, 1994、安里2011, 2012)。

4 イノシシ牧場と第2の貝の道

 本州中央部の太平洋上に、南に向かって直線的に延びる二つの島嶼群がある。近い方を「伊豆諸島」(本土から約280〜350km)、遠い方を「小笠原諸島」(本土から約1,000〜1,200km)と呼んでいる。

 伊豆諸島に初めて渡航した先史時代人は、本州中央部に居住していた旧石器人で、約3万8,000年前には、石器の材料として優れた 「黒曜石」を、太平洋上に浮かぶ大原産地の「神津島」から本土に運搬していた。次の縄文人も神津島産の黒曜石を大量に採取し、半径約 200kmの範囲に「黒曜石交易圏」を形成した。

 また本土の縄文人は黒曜石採取だけでなく、イヌを連れイノシシの幼獣(ウリボウ)を丸木舟に乗せ、伊豆の島々に渡航していた。これは島に生息しないイノシシを放牧・飼育し、成獣にして食糧にしたものと考えられている。言いかえれば、島は縄文人の「イノシシ牧場」であった。さらに黒潮本流を越えた八丈島の倉輪遺跡(約5,000年前)からは、関東系の他に関西・中部系の縄文上器が多数出土し、さらに「琉球列島」との関連を示す「の」の字状石製品やサメ歯製装身具も発見されている。

 一方、伊豆諸島には「貝の道」と呼ばれる、琉球列島と九州・本土とのイモガイ、ゴホウラ製腕輪の交易活動と同様な交易ルートが存在していた。その確認の初期には、琉球列島からの貝の道と推定されていたが、その後の研究で南部伊豆諸島に生息するオオッタノハガイを使用した貝製腕輪の交易活動であることが判明し「第2の貝の道」と呼称されている。分布範囲は、本州中央部から関東・東北地方の太平洋沿岸部に及び、その活動は約6,000年前の縄文時代前期に始まり、約2,000年前の弥生時代、そして約1,500年前の古墳時代まで継続していた(小田2000, 2002)。

5 円筒石斧の道

 小笠原諸島は、伊豆諸島からさらに1,000km以上南に存在し、聟島列島、父島列島、母島列島、火山列島から成っている。小笠原の住人は、1830(天保元)年にハワイ諸島から移住してきた欧米人に率いられて来島したポリネシア、ミクロネシア人ら約20人が最初とされる。1920(大正9)年東京帝國大學の植物調査の折、北硫黄島住人から3点の磨製石斧が寄贈された。この石斧は円筒形の丸ノミ石斧で、これはマリアナ諸島にもその類例があった。1972(昭和47)年東京都は初めて小笠原の考古学的調査を行い、父島で1ヵ所、母島で1ヵ所の先史時代遺跡を確認した。その後1989〜92(平成元〜4)の調査で、北硫黄島に大規模な先史時代遺跡(石野遺跡)を確認した。石野遺跡は絶海の孤島のサンゴ礁海を見下ろす台地上に立地し、打製石斧、削器、磨石、無文土器、貝製品(貝斧)などが地表に多数散布していた。また自然石、サンゴ・シャコガイなどを配した配石遺構や、巨石の一部に線刻画(雲・鳥)も認められた。この石野遺跡の石器文化は、マリアナ諸島や西太平洋を挟んだ西側の琉球列島、台湾、フィリピン地域、さらに遠くハワイ諸島との類似性が指摘されている(小田1992, 2000)。

 黒潮本流外側に位置する「南部伊豆諸島」の八丈島と小笠原諸島には、石斧の身が円筒形を呈した片刃や丸ノミ状の刃部をもつ磨製石斧が発見されている。同じ形態の石斧は、さらに南のマリアナ諸島のサイパン、ティニアン、グアム島から2,000点以上発見され、この地域はこの種石斧の一大中心地と考えられている(江上1973)。

 現在マリアナ諸島の「ラッテ期」(紀元後約800年以降)に集中して出土するが、それ以前の「先ラッテ期」(約3,500〜1,200年前)でも発見される可能性がある。これと同様な円筒石斧は、伊豆諸島の八丈島では約3,000〜2,000年前以降、小笠原諸島の石野遺跡では約2,000年前と年代測定されている。この「円筒石斧文化」と呼称できる磨製石斧類は、マリアナ諸島から小笠原諸島を経由して、伊豆諸島の八丈島にまで分布しているが、黒潮本流を越えた列島内側の北部伊豆諸島には発見されていない。つまりこの文化も、列島内部の縄文・弥生文化圏と関係しない外側に展開した「もう一つの日本文化」と呼べる先史文化圏の存在を意味するものである(小田1992, 2001)。

6 台湾の先史文化

 台湾は中国東南沿岸部にある高山島で、黒潮本流が東部海岸を洗っている。更新世には大陸と台湾陸橋で繋がっていて、完新世になって台湾海峡が成立し大陸と離れ島嶼化した。台湾最古の文化は、陸橋を歩いて渡ってきた旧石器時代人である。その後、台湾海峡が出来ると、大陸から多くの新石器時代人が海を渡って移住している。また地理的位骰から、黒潮源流地域との文化・民族的関係も多く認められ、近年には「台湾先史文化」を起源としたオセアニア地域への文化伝播論も取り沙汰されている(印東編2012)。

 台湾の考古学的編年は、古い順に先陶時代(約2万〜5,000年前)、新石器時代(約7,000〜2,000年前)、鉄器時代(約2,000〜400年前)、歴史時代(400年前以降)の4つの段階に区分され、それらが北部、中部、南部、東部の4つの地区でどのような地域文化の発達があったかが設定されている。それによると、先陶時代(旧石器時代)には長濱文化が全地区に、新石器時代は大坌坑文化が北・中・南地区、圓山文化が北部地区、卑南文化が東部地区に、鉄器時代は十三行文化が北部地域に分布していることが判明している(宋1980)。

 台湾の旧石器文化は1968年東部地区の八仙洞洞穴遺跡群によって発見され「長濱文化」と命名され、更新世の「前期」と完新世の「後期」の2つの段階が知られている。石器群の特徴は、海岸の礫を使用した礫核石器群が主体で、不定形の小剥片が存在する。多数の貝殻、亀甲、獣骨類が発見され、新期の鵝鑾鼻第2遺跡からはヤコウガイの蓋製貝器が109点も出上している(李2003)。つまり、台湾の旧石器人は海洋資源も多用していたことがわかる。また旧石器人骨も発見され、「左鎮人」(約3万〜2万年前)、「膨湖1号」(約19万〜1万年前)と呼ばれている。彼らの故郷については、陸橋で中国大陸と繋がっていたことから、中国南部や東南アジア海岸部の居住民、さらに黒潮源流地域との関連も推察されている(加藤1995)。新石器文化は台湾海峡が成立し、中国華南地域から筏舟や丸木舟を使用して多くの新石器人が渡来している。最古の渡来民は大坌坑文化と呼ばれ粗縄文土器を持ち、狩猟、漁携、採集以外にタロ・ヤムイモ類、熱帯果術、野菜、香辛料を栽培していた。やがて鉄器時代になると、十三行文化などは農業、漁業が盛んで、唐・宋代の銅銭、金やガラス装飾品など大陸との交易活動も行われた。また首狩風習が認められ、台湾先住民族の起源は、この時期の先史文化人が基層にあるとされている(黄1986、劉1996)。

7 シャコガイ製貝斧の道

 沖縄の宮古・八重山諸島(南琉球圏)には、オオジャコを利用したシャコガイ製貝斧が発見され、石垣島の名蔵貝塚群からは1950年代に多数の発見報告があった。発見される時期は「南琉球新石器時代後期」(無士器文化)で、その前の「前期」(下田原士器文化)には磨製石斧が中心で、貝斧は発見されていない。1990(平成2)年には宮古島の浦底遺跡(約2,000年前)から、200本以上のシャコガイ製貝斧と製作過程がわかる良好な資料が発見され注目された(安里2003)。

 シャコガイ製貝斧はオセアニア、フィリピンの一部に分布しているが、貝殻の使用部分で大きく二つに分けられている。一つは貝の 「蝶番」部分を使用した例、もう一つは貝の「腹縁」部を使用する例がある。南琉球例は前者の蝶番部分使用例でフィリピンと同じで、この地域との関連性が示唆される。さらに、この貝斧とセットで出土するイモガイ製のシェルデスク(貝盤)も、フィリピン先史文化との関係を示す資料である(安里2011)。

 1992(平成4)年貝斧の発生に関する重要な資料が、フィリピン国立博物館が実施したバロボック岩陰遺跡の発掘調査で確認された。それによると下層(旧石器段階)には、打製石製剥片から貝製打製剥片が製作され、打製貝斧が存在していた。中層(新石器段階)からは、刃部磨製石斧が出士し、上層からは全面磨製石斧が発見され、この磨製技術の影薯でI磨製貝斧」が誕生する。やがて黒潮海流を北上し、貝斧が南琉球地域にもたらされたという推定がなされている(安里1993)。

 この南琉球新石器時代後期に発見されるシャコガイ貝斧は、製作技術や利用部位(貝蝶番部)などから黒潮源流地域のフィリピン新石器文化との関連が指摘されている。そして、この「シャコガイ製貝斧文化」は、マリアナ・小笠原ルートの「円筒石斧文化」と同様に、本士の縄文・弥生文化圏とはまった<関係なく、列島文化の外側に展開した「もう一つの日本文化」と言えるものであった(安里2012)。

8 旧石器人の「海」に関する最新の二つの成果

 沖縄で旧石器時代の「海洋航海」を探る実験と、旧石器人が「海洋資源」を利用していた確かな証拠が発見された。これは「新・海上の道」を裏付ける、重要な実験と証左と考えられるので紹介したい。

@3万年前の航海実験

 2016(平成28)年4月、国立科学博物館人類史研究グループ長の海部陽介は「祖先たちは海を越えてきた」という前提に基づいて、「3万年前の航海徹底再現プロジェクト」を立ち上げた。これはアフリカで生まれた私逹の直接の祖先であるホモ・サピエンス(現生人類)は、「第二の出アフリカ」でユーラシア大陸に広く拡散した。彼らは4万5,000年前に、ヒマラヤ山脈の北と南コースでアジアの最東端部(太平洋岸)に到達した。その後、古日本列島に3万8,000年前に「海を越えて」到達したという、日本人渡来ルートの解明を探る検証の一部である(海部2016)。

 7月19日の報道によると、まず沖縄・先島諸島の与那国島から西表島への航海実験が7月17日〜18日に行われた。渡航具は草舟(ヒメガマの茎をトウツルモドキで縛った)2隻を与那国島で製作し、手漕ぎで約75キロの「黒潮海域」を約28時間で航海する予定であった。しかし、草舟は潮流に流され思うような方向には進まず、また夜間の航行は危険で行なわなかったが、無事に目的地の西表島に到着した。次回は、この経験を生かして台湾から沖縄の与那国島(台湾が望見できる)への本格的な黒潮本流の大航海(約100km)を計画し、日本人がユーラシア大陸東端から海を越えて日本列島に到達したことを立証したいという。

 この航海の時代設定が旧石器時代の3万年前というと、沖縄では山下町第一洞人(約3万6,000年前)が生活していた時期である。また古本州島(本州・四国・九州)では「ナイフ型石器文化T」(3万5,000〜3万年前)に相当し、環状ブロックなどの大規模集落が各地に構築され、世界最古の「磨製石斧」が250ヵ所以上の遺跡から900点以上確認されている(小田2014)。この石斧が丸木舟製作用の工具であるとの確証はないが、簡単な木材加工は出来る強度と刃部形成は有している。沖縄の旧石器人がどのような「渡航具」(筏舟、皮舟、葦舟など)を使用していたのか、このロマンある航海プロジェクトに期待している。

A世界最古の釣り針発見

 2016(平成28)年9月20日の報道によると、沖縄県立博物館・美術館の発掘調査で沖縄本島のサキタリ洞遺跡から、約2万3,000〜1万3,000年前の「世界最古の釣り針」が2点(巻貝のニシキウズガイ製、完成品と未成品)発見され、米科学アカデミー紀要(PNAS)に掲載されるという。この洞穴は、2009(平成12)年から調査され、今まで日本列島では確認されなかった、旧石器時代人骨と石器、貝器が伴う重要な遺跡として注目されている(山崎2015)。

 これまで旧石器人が「海の資源」を利用した最古の例は、オーストラリア国立大学と東海大学チームが共同調査した東ティモール東部の「ジェリマライ岩陰遺跡」出土の約4万2,000年前のマグロやカツオの海洋漁の資料である。この事実から、この地域のホモ・サピエンスが、遠洋漁業を行っていたことが判明し、さらに約2万3,000〜1万6,000年前の上層からは、巻貝製の「釣り針」(世界最古例)が発見された(米科学誌サイエンス電子版2012年1月20日付)。

 沖縄での釣り針の発見は、伊是名貝塚学術調査団(帝塚山大学・堅田直団長)が1991・92年調査の「伊是名貝塚」(約4,000〜3,000年前、沖縄貝塚時代前期)で巻貝のサラサバテイラ(タカセガイ)製が1点出土(伊是名貝塚学術調査団編2001『伊是名貝塚』)しているだけで、「釣り漁」による漁撈活動を示す資料は少なかった。このサキタリ洞遺跡での発見で、沖縄の旧石器人が海の資源を利用していたことが理解された。ちなみに台湾の旧石器時代の鵝鑾鼻第2遺跡(李2003)でも、海に関する豊富な遺物(ヤコウガイ蓋製品、サザエ、イルカ、亀甲骨)が出土しており、この地域の旧石器人たちが世界最強級の「黒潮本流」を自由に航海し「漁撈活動」を行っていたことが理解されたことになる。

9 まとめ

 更新世(旧石器時代)の約5万年前、「スンダランド」のホモ・サピエンス(新人)集団は外洋を自由に航行できる渡航技術は未熟だったものの、オセアニア地域に初めて船出し「サフルランド」に移住した。これは人類が初めて、大陸から100km以上も離れた島々へ船出した「海洋航海の始まり」と言われている。日本列島中央部でも約3万8,000年前、本土から80km以上離れた太平洋上の伊豆諸島の神津島へ、本州島の旧石器人は「黒曜石」を採取するために外洋航行(往復渡航)している。世界最古の海洋航海が、この「黒潮圏地域」で開始されていたことを証明するものである。

 約4万年前、スンダランドの大陸沿岸部から、黒潮海流を北上した旧石器人集団がいた。彼らはフィリピン、香港東湾から台湾に移住・拡散し、さらに黒潮本流を越えて琉球列島に渡島(約3万6,000年前)した。その後、九州南部から太平洋沿岸の黒潮本流地域を北上し、古本小什島中央部に定着(約3万5,000年前)する。これが日本列島への現生人類(ホモ・サピエンス)の「南からの渡来ルート」の動態である。

 約7,000年前、日本列島の二つの地域から外洋に進出した縄文人集団があった。一つは本州島中央部から伊豆諸島の八丈島まで、もう一つは南九州地域から琉球列島の沖縄本島までの南下行動である。双方とも、黒潮本流(時速7.4km)を越えられるほどの航海技術を持った「海の縄文人」たちであった。

 約4,000年前、ニューギニア北東部地域にラピタ式士器を持った「ラピタ文化」が忽然と登場する。彼らは優れた大洋航海技術民で、島の海岸部に居住し非常に早いスピードで南太平洋を拡散・居住していった。このラピタ人の起源を、最近、台湾地域の先史文化と結びつける視点も指摘されている。同じ頃、南琉球圏(宮古・八重山諸島)に、下田原式士器を持った「下田原文化」が登場するがその出自は解明されていない。

 約3,500年前、東南アジア島嶼地域に生活していた新石器時代人が、マリアナ諸島方向に拡散・移住する行動を開始する。彼らは南マリアナ(グアム・サイパン島)を中心に、マリアナ赤色士器をもった「先ラッテ文化」を形成した。

約2,500年前、東南アジア島嶼地域からアウトリガー付きカヌーを開発し、 ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアに拡散・居住した「海のモンゴロイド」がいた。また黒潮を北上して南琉球圏(宮古・八重山諸島)に渡来した「無士器文化人」は、シャコガイ製貝斧を持った「フィリピン新石器文化人」の可能性が指摘されている。

 約2,000年前、マリアナ諸島から小笠原諸島を経由して伊豆諸島の八丈島まで、「円筒石斧」を持った海洋航海民の北上(太平洋の道)があった。しかし現在、彼らが八丈島と三宅島の間を流れる黒潮本流を越えて、本上の先史文化(縄文・弥生文化)に影轡を与えた証拠は確認されていない。

 四周が海に囲まれた島国・日本には、先史時代以来さまざまな人々が渡来し、その都度さまざまな文化の波が押し寄せてきた。最新の人類学・考古学の研究成果により、約3万8,000〜3万5,000年前頃に、二つの地域から日本列島に「旧石器時代人」の渡来が判明している。最初の集団は、東南アジアのスンダランドに生活していた「南の旧石器人」で、彼らは「黒潮」を利用して船出し、フィリピン諸島、台湾東岸、琉球列島の島伝いに、九州南部や四匡から本朴Iの太平洋沿岸地域に到達した。次の渡来集団は、北部中国・シベリア地域から朝鮮半島を経由した「北の旧石器人」で、細い水道が存在していた対馬海峡を渡航し、九州北部から古本州島の日本海沿岸地域に到達した。

 こんにち日本列島の先史文化を語る時、黒潮海流を介した「海上の道」は重要な文化回廊であった。近年の学際的研究によって、日本列島には周辺地域から多くの文物(ヒト・モノ・コトバ)が渡来したことが判明している。なかでも北西太平洋を環状に分布するフィリピン諸島、台湾、琉球列島、南九州、四国、本州太平洋沿岸、伊豆諸島、小笠原諸島、マリアナ諸島、ヤップ諸島、パラオ諸島という「黒潮文化圏」に活動した「海洋航海民」の動態が、日本文化の基層に大きな影響を与えた事実が解明されてきたのである。

おわりに

 このほど沖縄考古学の先達者で、かつ重鎮であられた高宮廣衛先生が鬼籍に入ってしまわれ、われわれ先生の学恩を受けた一人として痛恨の極みであります。先生との出会いは1979(昭和54)年1月、日本第四紀学会が「琉球列島における後期更新世と完新世の諸間題」(沖縄県立博物館)と題するシンポジウムを開催し、その懇親会の席上で紹介されたのが最初と記憶しております。高宮先生は 「新石器時代の沖縄諸島」という話題提供で、1975(昭和50)年に発掘調査した読谷村渡具知東原遺跡の成果を発表されました。この調査で初めて発見された上層の「曾畑式土器」 (縄文前期)と下層の「爪形文土器」(縄文草創期)について、列島内の縄文文化の南下と縄文草創期に遡る年代が明らかになったと述べています。この時の出会いを契機にして、高宮先生は多くの論文の抜き刷りをサイン入りで送ってくださり、「沖縄考古学」を学ぶ大きな礎になりました。

 その後1989(平成元)年4月、東京都小笠原諸島調査の準備で沖縄を訪れた際、琉球大学の池田榮史先生と県立博物館でお会いし、沖縄県教育庁の安里嗣淳氏を紹介して頂きました。安里氏は小笠原が沖縄と同じ自然環境下であることから調査協力を快諾され、高宮先生の教え子の上原静、盛本勲、岸本義彦氏らとの意見交流の場を持ってくださりました。

 そして1996(平成8年)年9月、安里氏のご厚意で、沖縄考古学会定例研究会(首里公民館)で「南島旧石器時代研究の総括と展望」を発表させて頂くことが出来ました。この記念すべき発表会の懇親会席上で、高宮先生は「君も半分ウチナーンチュになったね」と褒めてくださいました。この高宮先生から頂いた素睛らしい「お言葉」は、一生の宝物として今でも私の心の奥底に大切にしまってあります。

 また本稿の骨子は、2000(平成12)年1月、高宮先生が学長された沖縄国際大学で開催された公開シンポジウム「海上の道再考」(文部省科学研究費特定領域研究、国際日本文化研究センター・尾本恵市代表)で「海上の道の始まり」を、2001(平成13)年8月には日本第四紀学会・鹿児島大学総合研究博物館共催普及講演会(鹿児島大学・大塚裕之代表)で「考古学からみた新・海上の道」を発表し、この二つの発表要旨を発展させたものであることを申し添えます。

 最後に、2009(平成21)年1月、沖縄考古学会の会長をされた嵩元政秀、新田重清両先生のご推薦で『壺屋焼が語る琉球外史』(2008年、同成社)の著作で、沖縄で最も権威のある「伊波普猷賞」(第36回)を頂き、やっと高宮先生にご恩返しが出来たとの感激の一念でした。いつもニコニコと笑顔で接してくださった高宮先生が、突然この世を去ってしまい二度とお会いすることができません。ここに先生から受けた多くの学恩に感謝するとともに、本稿を今は亡き高宮廣衛先生に捧げ、心からのご冥福をお祈りして終わりとします。


引用・参考文献

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