沖縄県下地原洞穴は、琉球列島北部地域の「沖縄諸島」中の「久米島」に位置している。久米島は沖縄諸島の最西端の島で、本島の那覇から西方約80kmの海上にあり、面積は約55.69u、高さ326mの大岳を有している。本島との間には慶良間諸島や渡名喜島が存在し、晴天の時は本島が望見できる。島は中新世の火山岩類を基盤にして、第四紀の琉球石灰岩が上部に厚く堆積している。久米島には海抜50m以下の琉球層群からなる石灰岩台地が広く形成され、島内には現在までに27ヵ所の洞穴が確認されている。この下地原洞穴は、島の北西部の海抜40mの石灰岩台地に形成され、地元では古くから知られ「下地原(しもじばる)洞」と呼ばれていた(沖縄県立博物館編1996)。
1977(昭和52) 年地元で化石採集をしていた久手堅稔は、この洞穴を探検しシカ化石を発見した。翌年その報告に接した沖縄県立博物館は、1978年(第1次)、1982年(第2次)、1986年(第3次)の三回に亘り、横浜国立大学、国立科学博物館の研究者らと本格的な発掘調査を行なった。その結果、多くの化石動物骨とともに50片近くの「化石人骨」が発見された(大城2001)。
この人骨は国立科学博物館の佐倉 朔によって研究され、生後1歳未満(8ヵ月〜10ヵ月)の乳幼児(新生児)と認定された。出土したカニ化石から年代測定が東京大学で行われ、1万5,000年〜2万年前後と測定された。こうして下地原洞穴から発見された更新世に溯る乳幼児骨は、日本では初めての出土であり、日本列島の旧石器人研究上極めて重要な資料として注目されることとなった(佐倉・大城1996ほか)。
沖縄県内では、現在までに9ヵ所のフィッシャーや洞穴遺跡から「更新世化石人骨」が発見され、旧石器時代人の存在が確かめられている(鈴木1975,1998、安里・小田・神谷・当山編1988)。筆者はこれまで、山下町第1洞穴(小田2003)、カダ原洞穴(小田2007)、港川フィッシャー遺跡(小田2009)、ピンザアブ洞穴(小田2010)について紹介してきた。本稿では残りの下地原洞穴、大山洞穴、桃原洞穴、ゴヘズ洞穴、そして新発見の白保竿根田原洞穴についてまとめ、沖縄における「旧石器遺跡」の今後の問題点について考察してみることにしたい。
下地原洞穴は、沖縄県具志川村(久米島)字具志川北原下地原(しもじばる)洞内に存在する。洞穴は久米島の最西端に位置し、空港の北側の中位段丘面 (標高約40m)下にある。発見当時は、岩陰には「風葬墓」が形成され、使用された厨子甕が洞穴入口に散乱し、洞内へはやっと人間が隙間から入れる状態であった。この洞穴は中央部で屈曲し、南東隅の洞口から陥没ドリーネの底部に開口し、延長約190m、洞幅2m〜20m、天井高2m〜8mのドリーネにつながる大洞穴である。入口は前後にあり、一方の入口は深い竪穴状になり、他方は横穴上に開口している。この横穴の入口を入るとすぐに幅20m、天井高6m、奥行き30mの落盤が多い広間になっている。動物化石、化石人骨は、この広間の東側に沿って堆積した泥岩層中や洞壁に付着した状態で発見された(佐倉・大城1996、大城2001)。
下地原洞穴は1977(昭和52) 年、地元の青年化石採集家の久手堅稔(郷土研究を行っていた文化サークルのメンバー)は、この洞穴を初めて探検しシカの化石を発見した。翌年、この情報にもとづき横浜国立大学の長谷川善和、沖縄県立博物館の大城逸朗らが現地に赴き、現場を確認し試掘調査を行った。1982(昭和57) 年沖縄県立博物館が主体になり、長谷川、大城、国立科学博物館の佐倉朔らが中心になり本格調査が行なわれた。この調査でリュウキュウジカなど多くの動物化石が出土した。そして発掘日程終了後、空港に向かう途中で再度洞穴に寄った際に乳幼児の人骨が確認されるという奇遇によって発見されたものであった(長谷川・佐倉1983)。その後1986(昭和61)年に国立科学博物館による発掘調査が行われ、同じ乳幼児のものらしい数個の人骨が追加された(佐倉・大城1996、當眞1996、大城2001) 。
動物化石や人骨は、広間の床を覆っているトラバーチン(石灰華)の下に、約3m近く堆積した粘土層中に多量に包含されていた。人骨の出土場所は、開口部に近い広間の堆積を覆う厚さ約50cmで上部数10cm〜15cmがトラバーチンで、その直下の粘土層中に包含されていたため保存状況は極めて良好であった。また洞床から約1m50cmの高さの洞壁には、多数の動物化石を含む粘土がしっかりとトラバーチンに覆われ蓋をされた状態で付着していた。こうした遺骸の産出状況から、かつて約3m〜2m以上の厚さの包含層が在ったが、堆積後に流水により浸食されたことが推測される(佐倉1983、大城2001)。
人骨は50点近く発見されたが、すべて同一個体に属するものであった。国立科学博物館の佐倉朔によって鑑定され、人骨は化石化がかなり進行し右下顎骨、多数の脊椎骨と肋骨、肩甲骨、鎖骨、上腕骨、大腿骨などであった(図2)。そして、右下顎骨内面に観察される第2乳臼歯の歯胚洞の大きさにより、歯冠完成期にある生後1歳未満(8〜10ヵ月)の乳幼児(新生児)と認定された。右下顎骨は正中部から下顎頭まで約55cmで、上腕骨は長さ約70cm、大腿骨は骨端を除く長さ約85cmであった。この乳幼児は下顎骨の前端と下顎角部の下に方への突起が強いことと、大腿骨が長さに比べて細いことなど、現代人の乳幼児とは異なった特徴が認められている(Sakura1988、楢崎・馬場・松浦・近藤2000)。また、この人骨の表面には、小形げっ歯類の咬痕が広く観察された (佐倉1983)。
現在人骨は「国立科学博物館」に保管されている。
動物化石は国立科学博物館の長谷川善和によって鑑定され、リュウキュウジカ、リュウキュウムカシキョンの復元できる良好な標本と、ケナガネズミ、ハブなど、また鳥類のカルガモも確認された(長谷川・佐倉1983)。
東京大学によって、粘土層出土のカニ化石のC-14年代測定が行われ、15,200±100yr.B.P.と出された (Sakura1988、松浦・近藤2000)。また国立科学博物館の松浦秀治によって、アミノ酸ラセミ化分析で約 1万6,000年〜1万5,000年前(アスパラギン酸のD/L比は、港川下部で0.43〜0.45、下地原で0.41)であった。またフッ素分析では、上腕骨で 0.21%、大腿骨で0.48%の値、シカ骨でも0.20%、0.15%が得られ、後期更新世の後期と推定された(松浦1984,1999、松浦・近藤2000)。
現在、日本の旧石器時代人骨で乳幼児(新生児)骨が発見されているのは、沖縄県久米島の下地原洞穴のみであり極めて重要な資料ということができる。
日本列島で発見されている更新世化石人骨は、本土の静岡県浜北人と、沖縄県下のここで取り上げた下地原洞人、それと山下町第1洞人、カダ原洞人、ゴヘズ洞人、港川人、ピンザアブ洞人、大山洞人、桃原洞人、白保根田原洞人(新発見)の9ヵ所しか知られていない(鈴木1975,1998、安里・小田・神谷・当山編1988、楢崎・馬場・松浦・近藤2000)。次に大山洞人の発見された大山洞穴、桃原洞人の発見された桃原洞穴、ゴヘズ洞人の発見されたゴヘズ洞穴、白保竿根田原洞人の発見された白保根田原洞穴についてその概要をまとめておきたい。
沖縄県宜野湾市大山名利瀬原、大山(おおやま)洞穴に在る。
1964(昭和39)年6月15日、化石好きのアメリカ人少年(ダグラス・J・コムストック、当時小学校6年生)は、レストラン建設工事で洞穴が崩され、石灰岩片が散乱した道路をたまたま通りかかって人骨(下顎骨)を発見した。
その話を聞いた多和田真淳と高宮廣衞は、ダグラス少年の家を訪ねて人骨の提供を求めたが、父親はアメリカの博物館に寄贈する予定と述べた。その後、多和田・高宮らは、沖縄米軍基地内の博物館に返還を要求し、館長の少佐がコムストック親子を説得してアメリカ軍から琉球政府文化財保護委員会に戻された(藤野1983、呉屋1994)。
1966(昭和41)年秋、多和田はこの人骨を那覇市在住の沖縄歯科医師会長の平良進に託して、東京大学人類学教室の鈴木尚に届け(9月29日)鑑定を依頼した(鈴木1975)。
伊佐三叉路から南方に向かって約300mの国道58号線脇にあり、石灰岩丘陵が舌状に北方向に延びる地点である。洞穴は東シナ海に面した10m〜30mの低位段丘面にあり、横穴状の標高20mの洞穴(宜野湾市登録洞窟第32番)である(宜野湾市史2000)。
下顎骨の右大臼歯部(歯3本付)で、長径6.5cm、幅径4.4cm、高径5.2cmの大きさである。この骨は石灰華に被われ化石化は進んでいる。鈴木尚によると、大臼歯の磨耗状況から死亡年齢20歳前後の男性で、大臼歯に髄腔症が認められるなど原始的な特徴を示し、ホモ・サピエンスではあるが現代人ではないと鑑定された(鈴木1975) 。
下顎骨体のレントゲン像で確認された「髄腔症」とは、ネアンデルタール人などによく見られる原始的な巨大歯髄腔症(タウロドンティズム)状態である(鈴木1975、楢崎・馬場・松浦・近藤2000)。
お茶の水女子大学の田辺義一によりフッ素分析が行われ、0.85%の値で、後期更新世の後期と推定された(鈴木1975、松浦1997、松浦・近藤2000)。
現在、人骨は「東京大学総合研究博物館」に保管されている。
沖縄県沖縄市南桃原と北谷町の境界、桃原(とうばる)洞穴に在る。
1966(昭和41)年多和田真淳と文化財保護委員会の運転手とがシカ化石の出るコザ市(現・沖縄市)桃原洞穴を調査中に、下洞部分の棚状になった部分の石灰岩に埋没していた人骨(頭骨)を運転手が発見した(藤野1983、呉屋1994)。
同年秋、多和田はこの人骨を那覇市在住の沖縄歯科医師会長の平良進に託して、東京大学人類学教室の鈴木尚に届け(9月29日)鑑定を依頼した(鈴木1975)。
洞穴の入口は沖縄市であるが、洞内の大部分は北谷町である。標高約100mの石灰岩丘陵上に分布する小規模ドリーネの一部が陥没して洞穴が形成されている。内部は上部の主洞と下部の支洞に分かれている。主洞は南北に長く伸びており、洞穴南側の川に向かって開口していたと推定される。人骨が発見されたのは、下部の支洞からである(比嘉2002)。
前頭骨前半および頭蓋冠の左側部を欠く、脳頭骨(厚さは中程度の5〜6mm) で、成人男性。頭長幅示数は72.4〜74.4 (最大長19cm〜19.4cm, 最大幅14cm〜14.2cm) で長頭型、かつ低い頭である。右外耳道に小さな骨腫跡がある。化石化は弱い。東京大学の鈴木尚により後期更新世後期のホモ・サピエンスと鑑定された(鈴木1975、楢崎・馬場・松浦・近藤2000)。
お茶の水女子大学の田辺義一によりフッ素分析が行われ、0.39%の値で、後期更新世の後期と推定された(鈴木1975、松浦1997、松浦・近藤2000)。
桃原洞穴発見の人骨は、部分的に石灰華に被われているが化石化は比較的弱く、形質的分析から本土の「中世・近世期」の人骨に似るとの見解も示されており(鈴木1975)、今後の検討が必要な資料である(松浦・近藤2000)。
現在、人骨は「東京大学総合研究博物館」に保管されている。
伊江村(伊江島)ゴヘズ山ゴヘズ洞穴に存在する。
1975(昭和50)年8月、地元の青年(高橋健夫、金城幸一、知念慶輝)らが発見し、多量のシカ化石が採集された。この報告を受けて、安里嗣淳、當真嗣一(沖縄県教育庁)と大城逸郎(沖縄県立博物館)らは現地調査を実施した。安里は発見したシカ化石の中から、6点の加工品(肢骨製品4点、角製品2点)が存在することを報告した(安里1976)。
この情報は同年秋に横浜国立大学の長谷川善和を通して加藤晋平(筑波大学)に知らされ、加藤は翌年春に現地を訪れ、まだ洞穴内におびただしいシカ化石骨が堆積している事実を知り調査を計画し、二次に亘り発掘された(伊江村教育委員会編1977,1978)。
1977(昭和52) 年5月9日、沖縄県指定史跡「伊江島のゴヘズ洞穴遺跡」として登録された。
伊江島は面積23kuの東西に長い平坦な石灰岩台地を呈し、洞穴は中央部の一番高い地点(比高約82m)に位置する。洞穴は主洞と、その奥から北東に屈曲して延びる副洞から成り、開口部は約2m、奥行き約19mである。主洞 (上洞) の西壁際から径約60cmの開口部で、下に「下洞」が存在し、規模は約2.5m縦方向に斜方向に約35mの奥行きを持っている。
1976 (昭和51) 年 9月5日〜15日(第一次調査)。
1977(昭和52)年 7月16日〜22日(第二次調査)。
主洞の上洞トレンチで 5層に区分された。第I層は黒褐色土の現代の堆積土で、Ia層とIb層に細分される。Ia層は上部に家畜骨、ゴミを含み、下部に戦争中の人骨、遺品があった。Ib層は木炭堆積層で戦時中のものであった。第II層は茶褐色土で、上部に炭、貝、銃弾が混入している。 第III層は黒褐色土で、僅かに貝を含んでいる。第IV層は石灰岩塊の層で、崩落した石灰岩が堆積している。
主洞(上洞)の第 III層相当部から、沖縄貝塚時代の土器が人骨、貝殻と共に出土した。下洞はゴヘズ洞穴の中心で、リュウキュウジカ (5576点,730頭分) リュウキュウムカシキョン (1285点,300頭分以下) のシカ類が大半を占め、他にウミガメ、オオヤマリクガメ、リュウキュウヤマガメ、キノボリトカゲ、ハブ、アマミトゲネズミ、コキクガシラコウモリ、ハシブトガラスなど 9種類の動物骨が少数発見された。この事実から更新世後期の伊江島には、大変な量のシカが生息していたことが判明した。
また下洞の第3ホ−ルと第4ホ−ルからは、ヒトの骨11点と歯2点が発見された。
第一次調査で京都大学の池田次郎により、下洞第 3ホ−ルから出土した下顎骨1点は、30才前後の成年(性別不明)と鑑定された(池田1978、楢崎・馬場・松浦・近藤2000)。
また、第二次調査では国立科学博物館の山口敏によって、下洞第 4ホ−ルから出土した前頭骨、左側頭骨、左上腕骨、右大腿骨、左脛骨、右腓骨、右中足骨、歯は、成人(性別不明)と鑑定された(山口1978、楢崎・馬場・松浦・近藤2000)。
国立科学博物館の松浦秀治によって、下洞出土のシカ化石骨のフィッション・トラック法が行われ、8.3ppmのウラン含有量が測定された。そしてこの下顎骨は化石化が進み重いことと、絶滅種のシカ化石と同じ堆積物中から発見されたことにより、暫定的に後期更新世の後期(新しいとの見解もある、山口1978)の時期と推定された(松浦1997、松浦・近藤2000)。
沖縄唯一の更新世の人工品と考えられていた「叉状骨器」が、筑波大学の加藤晋平らによって検討され、こうしたキズはシカの噛み痕によって生じた「自然物」であると結論づけられた(加藤1979)。沖縄県公文書館史料編集室の安里嗣淳も同様な見解に落ち着いている(安里1999,2002)。
現在、人骨は「沖縄県教育委員会」に保管されている。
沖縄県石垣市白保竿根田原(しらほさおねたばる、八重山方言:ソンダパリ)の洞穴で、新石垣空港建設敷地内に在る。
石垣市は「新石垣空港」建設工事に伴って、空港予定地内に分布する「鍾乳洞」の分布調査を「NPO法人沖縄鍾乳洞協会」に依頼した。そして2007〜2008(平成19〜20)年の分布調査中に、同協会の山下平三郎らは「白保竿根田原洞穴」で多量の動物骨と共に「人骨」を発見した。そして、2009(平成21)年7月28日付で「白保竿根田原洞穴周辺遺物散布地」として「周知の遺跡」登録がなされている。
発掘調査は2010(平成22)年から、沖縄県立埋蔵文化財センターが中心になって発掘調査が行われた。そして発掘成果は、同年2月5日の全国新聞紙上で沖縄県石垣島から「2万年前の日本最古の人骨」を発見という大きな記事が報道され注目されることになった(小田2010)。その後、多くの研究会や学術雑誌に「白保竿根田原洞穴」についての発表がなされている(石垣市立八重山博物館編2010、Nakagawa R. et al 2010、片桐ほか2010ab、山崎ほか2010)。
堆積層は次のようであった。第0層は現代の造成土で、近現代の陶磁器が出土した。第I層はグスク時代の遺物包含層で、中森式土器、中国産青磁、タイ産褐釉陶器が出土。第II層は砂礫層で、海砂や枝サンゴなどを含む無遺物層、巨大津波堆積物か。第IIIA層は先史時代の堆積物層で、炭化物集中部、礫敷遺構、崖葬墓などが確認され、下田原式土器、石器、有孔イノシシ牙製品、有孔サメ歯製品、人骨、脊椎動物遺体、貝類遺体などが出土。第IIIB層は完新世初頭の堆積物層で、イノシシ骨が多数発見され、人骨、火成岩、チャート(非在地系石材)が出土。第IIIC層は完新世初頭から最終氷期最盛期の堆積物層で、保存状況が良好な人骨が多数出土。第IV層は最終氷期最盛期の堆積物層で、人骨、イノシシ骨、鳥骨、ネズミなど小型脊椎動物骨、炭化物が発見された。
琉球大学の土肥直美によって研究され発見された人骨は断片的なものであり、現段階では詳しい形質学的な特徴は不明とされる。旧石器時代の年代を示した人骨片は3資料あり、第2号人骨(約2万年前)は頭頂骨片で厚く頑丈であることから男性(20歳〜30歳)と推定される。第4号人骨(約1.8万年前)は成人の右第2中足骨で、性別は不明。第8号人骨(約1.5万年前)は成人の右腓骨片で、断面に見える緻密質が厚く頑丈であることから、性別は男性の可能性が高いと判定されている(土肥2010)。
沖縄発見の化石人骨資料から初めてコラーゲンの残存が認められ、東京大学で加速器質量分析計(AMS)による放射性炭素(C-14)年代測定で、第2号人骨は、20,416±113(MTC-12820)、第4号人骨は、18,752±100(MTC-13223)、第8号人骨は、15,751±421(MTC-12818)と測定された(Yoneda M. et al 2010)。
今回の発掘調査で、南琉球地域で最古の土器文化である「下田原文化」(約4,300年〜3,500年前)の「生活痕跡」を残す包含層が確認され、さらに下層にも人骨や獣骨を包む複数の堆積層の存在の可能性が指摘されている。ただ残念なことに、更新世の年代(約2万年前)を示す人骨群が本来堆積していた確かな包含層までは到達しなかったようである(石垣市立八重山博物館編2010、Nakagawa et al 2010、片桐ほか2010ab、山崎ほか2010)。また、この遺跡の保存要望も出され、今後のグローバルな組織による本格的な学術調査が期待されている。
一方、白保竿根田原洞穴の調査で更新世の年代を示す人骨の発見があったが、旧石器時代人が使用した確かな「旧石器」の発見がなかったことから、沖縄では「石器使わぬ旧石器人」の存在も提示されるに至っている現状もある(2011年2月4日付朝日新聞夕刊)。
現在、人骨は「琉球大学人類学教室」で保管、研究されている。
沖縄県内には、更新世に遡ると考えられる「化石人骨」が、9ヵ所の洞穴やフィッシャーから発見されている。この化石人骨発見地について、ここでは「遺跡」としての可能性と、「発見遺物」などによる「沖縄旧石器文化」の諸問題について探ってみることにしたい。
日本列島内には、現在、北は北海道から南は鹿児島県まで、約1万ヵ所以上の旧石器時代遺跡が確認されている。それらの大半は、火山起源の堆積物であるローム層と呼ばれる「火山灰層」中に発見されている。この火山灰土は「酸性土壌」であることから、動物骨や人骨などは消失し発見されることはない。遺跡の立地は、河岸段丘上や小河川に張り出した台地上に形成された「野外遺跡」である。一方、西北九州地方の一部地域に、旧石器時代にまで溯る「洞穴遺跡」の発見が認められ注目されている。
こうした列島内の遺跡立地状況に対して、沖縄県内では未だ「野外遺跡」の確認はなく、すべて「石灰岩洞穴・フィッシャー」内の自然堆積層中から、更新世の年代を示す「化石人骨」が発見されている。しかし不思議なことに、これらの場所からは旧石器人が生活した確かな痕跡(炉跡、礫群、灰層)や道具(石器、骨角器)などの発見例が無いことから、沖縄の旧石器時代・文化の内容については現在不明と言わざるをえない現状である(安里・小田・神谷・当山編1998)。
沖縄の更新世化石人骨発見地における、遺構などの「生活痕跡」の確認状況はどうであろうか。次に発見年代順に、その内容を調べてみることにしたい。
大量のシカ化石が、海成トラバーチンの下層部(第1号洞穴)、骨層(第2号洞穴)、陸成トラバーチンの下層部(第4号洞穴)から、「自然堆積状況」で発見された。化石人骨も、同じ産状下に遺存していた。そしてこの場所には、旧石器人が生活活動を展開した痕跡(解体作業場ほか)などは確認されていない(鹿間1943)。
化石人骨は、洞穴が工事によって破壊され、その現場に散乱していた石灰岩片の中に存在していた。表面採集品であり、その包含層の状況などの観察はされていない(鈴木1975)。
化石人骨は、上下二つの洞口をもつ洞穴の、下洞部の石灰岩層中から発見された。断面採集品であるが、その包含層の観察はされていない(鈴木1975)。
化石人骨は、第VI層上部から発見された。第V層と第VI層にまたがって赤く焼けた「焼土」と「焼石」が確認され、人為的な遺構と推定されている。さらに第III・IV・V層は同一層準とされ、人間による「人工堆積層」(生活面)と推察されている(高宮・金武・鈴木1975)。
大量の動物化石が、下層部の石灰岩礫混じりの赤土層から、「自然堆積状況」で発見された。化石人骨も、同じ産状下にまとまって遺存していた。そしてこの場所には、旧石器人が生活活動を展開した痕跡(炉跡、灰ほか)などは確認されていない(岸本・新里・大城・橋本・馬場ほか2002)。一方、人骨が9体ちかくもまとまって発見された状況から、この場所が「墓地」の可能性があるのではという指摘(馬場2002,2005)もなされている。
上洞と下洞があり、下洞から大量の動物化石が、人骨は第3ホ−ルと第4ホ−ルから発見された。そしてこの場所には、旧石器人が生活活動を展開した痕跡は確認されていない(加藤・長谷川ほか1977,1978)。
大量の動物化石が、フローストーン(鍾乳石の一種)に覆われた粘土層中から「自然堆積状況」で発見された。化石人骨も、同じ粘土層中に遺存していた。そしてこの場所には、旧石器人が生活活動を展開した痕跡は確認されていない(長谷川・佐倉・岸本ほか1985)。
大量の動物化石が、トラバーチン(石灰華)の下に、約3m近く堆積した粘土層中に発見された。化石人骨も、同じ粘土層中に遺存していた。そしてこの場所には、旧石器人が生活活動を展開した痕跡は確認されていない(佐倉・大城1996)。
現在のところ、化石人骨の年代が示した「更新世」の地層まで発掘が及んでいないので、当時の遺構などについては不明である(石垣市立八重山博物館編2010、Nakagawa et al 2010、片桐ほか2010ab、山崎ほか2010)。
つぎに、沖縄の更新世化石人骨発見地における、石器などの「生活用具」の確認状況はどうであろうか。次に発見年代順にその内容を調べてみることにしたい。
大量のシカ化石の中に、「叉状骨器」と呼称された旧石器時代の骨角製品の存在が提唱(Tokunaga 1936、直良1954)された。こうした資料については、その後ゴヘズ洞穴例で詳細に検証され(加藤1979)、すべて「自然遺物」と結論づけられている(安里1999)。
化石人骨は工事中の単独表面採集品であり、伴出遺物はなかった(鈴木1975)。
化石人骨は単独の断面採集品であり、伴出遺物はなかった(鈴木1975)。
第一次調査で第V層から3点の「石器」と考えられる遺物が発見されている(高宮・玉城・金武1975)。しかし現在、地元の研究者間で真正の「旧石器」であるとの共通認識には至っていないが、筆者は旧石器としての、礫器(1点、「ニービの骨」とよばれる細粒砂岩製)と敲石(2点、ニービの骨と硬質砂岩製)の可能性を指摘している(小田2003b)。
大量の動物化石には、「叉状骨器」と呼ばれるようなものは存在していなかった(長谷川・佐倉・岸本ほか1985)。唯一、リュウキュウイノシシの右肩甲骨1点に、人為的な打撃痕の可能性がある損傷が観察されている(鵜澤2002)。
大量のシカ化石の中に、かつて「叉状骨器」と呼称され旧石器時代の骨角製品と考えられた資料(Tokunaga 1936、直良1954)が多数存在したが、本洞穴資料の検証によって、すべて「自然遺物」と結論づけられた(加藤1979)。
大量の動物化石には、「叉状骨器」と呼ばれるようなものは存在していなかった(長谷川・佐倉・岸本ほか1985)。
大量の動物化石には、「叉状骨器」と呼ばれるようなものは存在していなかった(佐倉・大城1996)。
現在のところ、化石人骨の年代(約2万年前)が示した「更新世」の地層まで発掘が及んでいないので、当時の遺構などについては不明である(石垣市立八重山博物館編2010、Nakagawa et al 2010、片桐ほか2010ab、山崎ほか2010)。
ここで「下地原洞穴と沖縄の旧石器遺跡」について、現在までの研究状況を展望し、まとめにしたい。
現在、日本の旧石器時代人骨で乳幼児(新生児)骨が発見されているのは、この下地原洞穴のみであり極めて重要な資料ということができる。
日本の旧石器時代人骨の発見は、静岡県に1ヵ所(浜北人)と沖縄県の9ヵ所だけである。したがって日本の旧石器人骨の研究は、沖縄県内の資料を抜きにしては語れない現状である。筆者はこれまで山下町第1洞人、カダ原洞人、港川人、ピンザアブ洞人について論及してきたが、本稿で紹介した下地原洞人と最近発見された白保竿根田原洞人も重要な資料であった。
沖縄の更新世化石人骨発見地は、はたして旧石器人の生活の場であったのか。こうした問題を解決できるような証左は残念ながら確認されていない。ただ山下町第1洞穴での焼土や焼石の発見は、この洞穴を旧石器人が利用した可能性が考えられよう。また港川フィッシャー遺跡における人骨の集中出土状況と人骨の人為的損傷例、さらに損傷痕のあるイノシシ骨などから、この場所が何か神聖な場所(墓地、祭祀場など)としての利用があったことは否定できない事象と考えられる。
更新世化石人骨発見地から、石器、骨角器など生活道具の確認はどうであろうか。かつてシカ化石を叉状に加工したり、角の枝先が摺れている骨角器が提唱されたが、これはシカが噛んだり、自然に摺れた物とされた。唯一、山下町第1洞穴で、3点の石器(小田2003)と考えられる遺物が発見されているだけである。
一方、県内の完新世の遺跡(沖縄貝塚時代)から出土する石器類の中に、旧石器的な古色(パティナ)を示す「チャート製剥片石器」資料の存在を実見しており、今後こうした方面からの旧石器遺跡の探索も必要であろう。
沖縄の旧石器文化を考える上では、北側の奄美諸島、西側の台湾島と南側のフィリピン諸島の様相は重要である。奄美諸島には海岸と河岸段丘上に、数ヵ所の旧石器遺跡が確認されている。また台湾島には東海岸の洞穴遺跡と西海岸の段丘礫層中に、二つの異なった旧石器文化が知られている。そしてフィリピン諸島には、台湾島と同じく洞穴遺跡と段丘礫層中から旧石器文化が確認されている。
この三つの地域に共通した旧石器群の特徴は、少数の大型礫器と小型不定形剥片石器が伴う「南方型旧石器文化」と呼ばれるものである。そして地理的には沖縄諸島は奄美諸島に、八重山諸島は台湾島とフィリピン諸島に隣接していることから、この地域と関連した旧石器群様相が推定される。ということで、近い将来発見されるであろう「沖縄の旧石器文化」は、こうした隣接した周辺島嶼地域の「南方型旧石器文化」の可能性が高いと考えられる(加藤1990,1995、小田1997)。
沖縄県内で確認されている更新世に遡る年代を示す9ヵ所の「化石人骨発見地」について、これまで詳細に検討してきたが確かな旧石器人の生活活動を示す痕跡(遺跡)を確認することはできなかった。こうした結果からして、この場所から発見される化石人骨は、他の動物化石骨と同様に、何らかの要因で「洞穴、フィッシャー」内に二次的に流れ込んだ自然堆積物と考えることが可能である。とすると、流入した旧石器人骨たちの生活拠点は近くに存在するのであろうか。もしもそうした洞穴周辺部で生活していたならば、使用した石器や剥片類、焼石などの流入も充分考えられる。しかし、そうした伴出例がない事実は、旧石器人たちの生活拠点(遺跡)は別の地点に存在する可能性は高いのである。
今後の課題として、砂丘や段丘上に立地する完新世の「沖縄貝塚時代」遺跡についても、より下層部への文化層の追跡作業を行うことが求められている。さらに、すでに発見されているチャート製剥片類の中に、旧石器的様相を示す資料がないか検証する作業なども必要である。こうした地道な努力を行うことによって、沖縄県初の「旧石器遺跡」の確認の日も近づくであろう。
最後になりましたが、本稿を草するにあたり多くの諸先生・諸氏・諸機関のお世話になったことを御礼申し上げると共に、ここにお名前を明示し心からの感謝に代えさせて頂きたい。(順不同)
安里嗣淳、岸本義彦、新田重清、嵩元政秀、高宮廣衞、上原 靜、知念 勇、島袋綾野、長谷川善和、佐倉 朔、馬場悠男、松浦秀治、春成秀爾、小野 昭、徳永重元、橋本真紀夫、沖縄県教育委員会、沖縄県立埋蔵文化財センター、パリノ・サーヴェイ研究所、東京大学総合研究博物館、国立科学博物館、石垣市立八重山博物館、沖縄県立博物館・美術館