『南島考古』No.29(沖縄考古学会 2010.6)pp.1--20 所収

ピンザアブ洞穴と南琉球の旧石器文化
Pinza-Abu Cave and the Palaeolithic Culture in South Ryukyu

小田静夫 Oda Shizuo

はじめに

 沖縄県ピンザアブ洞穴は、琉球列島南部地域の「宮古・八重山諸島」中の「宮古島」に位置する。地元では古くからこの洞穴の存在は周知されており、今次の沖縄戦(1945)の時には地元民の退避壕としても利用された。この洞穴が学術的に注目されたのは、愛媛大学による洞穴探査(1974)でその規模が判明したのを契機に、沖縄県教育委員会の「沖縄県洞穴実態調査」(1977〜79)が行われ、多数の化石動物骨とともに「ヒトの後頭骨片」が発見された。さらにこの報に接した横浜国立大学の長谷川善和はピンザアブ洞穴の再調査(1980)を行い、人骨片を追加発見するとともに人骨の鑑定を国立科学博物館の佐倉朔に依頼した。佐倉はこの人骨片を分析した結果、沖縄本島で発見されている著名な「港川人」と共通する特徴を指摘している。

 その後、新たにこの南琉球圏で確認された「ピンザアブ洞穴」の重要性を認識した沖縄県教育委員会は、文化庁の補助を受け「地質・古生物・人類・考古学」の専門家による三次に亘る総合的な「学術調査」(1982〜84)を実施した。この調査で、更に数個体の人骨群が確認され、東京大学によるC-14年代測定も行なわれた。その結果「ピンザアブ洞人」の生活していた年代は、驚くことに約26,000〜25,000 年前と測定され、この年代値は「港川人」(約18,000年前)より古く、「山下町洞人」(約32,000年前)に次ぐ古さであった。

 沖縄における「更新世化石人骨」の発見と調査は、北琉球圏の沖縄諸島を中心に進められてきた研究史はあるが、ここで新たに宮古島という南琉球圏で発見された「ピンザアブ洞人」の出現によって、琉球列島とさらに南側の諸地域との関連性を探る必要性が浮上してきた。

 特に近年多くの考古学論考や概説書等が刊行されている「台湾島」は、南琉球圏とは黒潮本流を挟んだ対岸という地理的関係にあり、未だ確かな「旧石器」が伴う遺跡確認のない「沖縄の旧石器文化」に比べ、「更新世化石人骨」や「多数の旧石器遺跡」と「石器類」が確認されている。こうした観点から、本稿では「台湾島の旧石器研究の現状」についても言及し、南琉球の旧石器文化を辿る一助としたい。

1 ピンザアブ洞穴

 ピンザアブ洞穴は、沖縄県宮古島市(宮古島)上野豊原ピンザアブ洞穴内に存在する。この洞穴は宮古のことばで「ピンザ(山羊)・アブ(洞)」と呼ばれ、その命名の由来はこの洞穴から発見される化石骨が山羊の骨と言う説や山羊泥棒が盗んできた山羊を隠しておいた場所などという諸説がある(図1)。

 洞穴の標高は海抜53mで、横穴重層型洞穴で洞口は1ヵ所であった。1.25cm〜75cmと狭いが、洞口内側は幅3m、天井高1.2m〜1.6mの小ホールになっていた。洞穴は全長約118mで、約45mの中央部で主洞(上層部)と支洞(下層部)に分かれている。洞内には約1.5mの厚さで粘土層と琉球石灰岩礫層が認められるが、層位的な堆積状況を示していない。多くの化石骨は、この洞底に堆積した粘土層下部に発見された(図2、長谷川・佐倉・岸本ほか1985)。

(1) 調査史

 ピンザアブ洞穴は1974(昭和49) 年8月、愛媛大学学術探検部による宮古島における洞穴探査で、その存在と規模・洞内の様子が発表された(愛媛大学学術探検部編1977)。その後沖縄県内では島内の農業基盤整備事業が活発化し、各島内に多数分布する「石灰岩洞穴」の消滅と保存の問題が生じ、1977(昭和52) 年から三ヵ年に亘る「沖縄県洞穴実態調査」が沖縄県教育委員会によって実施された。この調査で、宮古・八重山地域の15〜16ヵ所の島嶼から189ヵ所の洞穴が確認された。宮古島のピンザアブ洞穴(沖縄県登録No.302洞穴)は最終年度の1979(昭和54) 年 8月下旬に調査され、大城逸朗(沖縄県立博物館)と新垣義夫(普天間宮)らによってミヤコノロジカをはじめ多数の化石動物骨とともに「ヒトの後頭骨片」が発見された(大城・山内・新垣・日越1980)。

 この報に接した長谷川善和(横浜国立大学)らは、1980(昭和55) 年12月下旬にこのピンザアブ洞穴の再調査を行い、新たにヒトの後頭骨片、尖頂骨、右側頭頂骨、脊椎骨(第5腰椎) 、乳歯(下右乳犬歯)を発見した。そして直にピンザアブ洞穴の人骨鑑定が佐倉朔(国立科学博物館)によって行われ、沖縄本島・具志頭村(現・八重瀬町)の港川フィッシャーで発見された更新世後期人骨群の「港川人」と共通する特徴があると判定された(Sakura1981a,佐倉1981b)。

 この報告を受けて沖縄県教育委員会は、文化庁の補助と指導そして地元の上野村教育委員会の協力を得て、「地質・古生物・人類・考古学」の専門家を組織した三年間に亘る「ピンザアブ洞穴発掘調査」を実施した(長谷川・佐倉・岸本ほか1985)。

(2) 発掘成果

 洞内はいたるところ、褐色〜黄褐色の軟質で粘着力のある礫混じりの粘土層が約1.5m近く堆積していた。この粘土層は石灰岩洞穴の二次生成物である「フローストーン」に覆われており、長谷川善和によって友利層に相当する層と判定され、時代は「更新世後期」の堆積物とされた。動物骨や人骨は、洞穴の入口から約40m〜60m奥に入った支洞の第I区と第II区の洞底に堆積した厚い粘土層中に多量に包含されていたが、一部は泥岩層の表面に露出していた。また洞穴最奥部では、洞外から流れ込む流水によって運ばれた遺骸が集中的に存在していた(図2、長谷川・佐倉・岸本ほか1985、大城2001)。

 ピンザアブ洞穴からは、数個体の人骨と多量の動物化石が出土した。現在、人骨と動物化石は、東京・新宿区にある「国立科学博物館分館」に保管されている(楢崎・馬場・松浦・近藤2000)。

人骨:

 人骨は佐倉朔が分析し、骨は比較的比重が小さく軽い印象を与えるが、骨表面は緻密で一般にかなり硬くやや光沢があり、ある程度化石化が進んでいることを推定させ、色調は淡色であるがやや黄褐色を帯び、部分的に濃色な個所が認められる。破面で見ると内部の海綿質の骨梁も良く保存されていたと述べている(佐倉1985)。

 残存部位については、後頭骨、頭頂骨、尖頂骨、第5腰椎、右第1中手骨、手指末節骨、下右乳犬歯、下左第2切歯、上左第2小臼歯とされ、子供の歯を含む数個体のものと鑑定された。後頭骨は男性で死亡年齢は壮年に近く、歯(上顎左の第 2小臼歯、下顎左側切歯) は強く擦り減っており、幅に比べて厚みが深い。横後頭隆起が認められ、港川人に似ているが、やや原始的な特徴が強く、頭頂骨は男性で、死亡年齢は比較的若い壮年であった。第5腰椎は女性で、死亡年齢は壮年であった(図3、Sakura1981a, 佐倉1981b,1984,1985、楢崎・馬場・松浦・近藤2000)。

動物化石:

 動物化石は長谷川善和によって、哺乳類10種、両生類2種、爬虫類6種、鳥類23種が確認され「ピンザアブ動物遺骸群集」と呼称された。

 その種類については、シカ類(ミヤコノロジカ,北方系)、イノシシ(リュウキュウイノシシとは異なり本州産に近い)、ヤマネコ、ハタネズミ亜科、ケナガネズミ、鳥類(ツル属、ワシタカ、ノスリ、オジロワシ、シギ科、カモメ科、ヤマシギ、フクロウ属、コノハズク、キジバト、カラスバト、ハシブトカラス)、爬虫類(キノボリトカゲ、アオカナヘビ、マダラヘビ属、ハブ属、ミナミイシガメ、リュウキュウヤマガメ、セマルハコガメ、スッポン)、蛙類(アジアヒキガエル、ヒメアマガエル)などが識別された(長谷川1985)。

 このピンザアブ動物遺骸群集は、宮古諸島にのみ発見される特徴的な種が主体で、ミヤコノロジカの大量出土から北方系動物群の渡来と考えられている(長谷川1985、甄・長谷川1985)。そして琉球列島への大陸からの流入の時期・陸橋の問題などの議論が行われている(長谷川1980、大城2001)。

年代:

 ピンザアブ洞穴の年代測定は、松浦秀治(国立科学博物館)によって化石骨(人骨1,ミヤコノロジカ8点)のフッ素含有量とラセミ化分析が行われた。フッ素含有量は、頭頂骨は0.655%、ノロジカは 0.736%〜1.06%の値で、後期更新世の後期である静岡県浜北人、沖縄県ゴヘズ洞人に匹敵する。またアミノ酸ラセミ化分析では、約2万年前と測定された(松浦1985、松浦・近藤2000)。また東京大学によって含化石粘土層中の木炭片のC-14年代測定が行なわれ、第2次の木炭は25,800±900yr.B.P.(TK-535)、第3次の木炭は26,800 ±1,300yr.B.P.(TK-605) と測定された(浜田1985)。

(3)ピンザアブ洞穴の意義

 ピンザアブ洞穴は大きく主洞(上層部)と、その洞床が崩壊して形成された支洞(下層部)に分かれている。動物化石は上層部にも発見されたが、下層部の厚く再堆積した粘土層中から多量に発見された。人骨は、主洞から支洞への分岐点付近から、奥の粘土層中にかけて発見され、この動物化石と人骨は、層位的に分離できず同時期の一括遺物と考えられている(図2、長谷川・佐倉・岸本ほか1985)。

 まず動物遺骸群集については、時期はヴュルム氷期最盛期のもので42種類以上の多種に上っている。特に哺乳類は現在の宮古島に生息していない種で、ミヤコノロジカなどの系統が北方系であったことが判明している。この事実から、更新世後期に宮古島が大陸と「陸橋」で繋がっていた可能性が指摘された。さらにイノシシは、現生のリュウキュウイノシシや港川フィッシャー出土のイノシシと比べて大型であった(川島・石嶺・大山1985)。

 次にピンザアブ洞人について、約25,800〜26,800年前という年代から沖縄県発見の山下町洞人(約32,000年前)と港川人(約18,000年前)の中間で、形態分析からも港川人に連続するがやや先行する位相を示していた。

 沖縄の旧石器文化研究史で、かつて人工の骨角製品と考えられたシカ化石骨の一部が叉状を呈した「叉状骨器」と呼称された類品(安里1999)の発見は無かった。またピンザアブ洞穴からは、南方系のリュウキュウムカシジカやリュウキュウムカシキョンの出土はなく、北方系のミヤコノロジカしか出土していない(甄・長谷川1985)。

 昭和56(1981)年3月27日、ピンザアブ洞穴は沖縄県上野村(現在は宮古島市)の市指定文化財「ピンザアブ遺跡」として指定された。

2 台湾の旧石器文化

 ここで南琉球圏に最も地理的に近接し、黒潮本流を挟んだ対岸の「台湾島」の旧石器遺跡について展望してみよう。

 台湾は中国・福建省の東南、台湾海峡を挟んだ海上にある「島嶼群」で、台湾本島と澎湖群島及び蘭嶼、緑島、小琉球、亀山島などの付属島からなり、本島の東側には太平洋が広がり「黒潮本流」が東流し、北側には琉球列島の八重山諸島(与那国島・西表島・石垣島など)が分布し、南側はバシー海峡を隔ててフィリピンのルソン島が存在している。 本島は日本の九州島よりやや小さい島で、気候は熱帯から亜熱帯に属し台風も多く多雨の島である。島の面積の64%は山地で地形は高く複雑で変化に富み、沿海平野、盆地、丘陵、中・高地山脈が連なっている。

(1) 台湾の考古学編年

 1980(中華民国69)年、宋文薫はこれまでの台湾考古学を総括した「概説書」的論文を発表した(宋1980)。それによると、台湾の時代設定は、

と4つの段階に区分される。

 また台湾島では、西海岸北部、中部、南部地区と東海岸地区の4つの地域において、それぞれ異なった文化発展状況が看取され、現在、先史時代の遺跡は1,000ヵ所以上発見されている。そして、

がそれぞれ地域を異にして形成されていることが判明している(宋1980、黄1986、国分1999)。

(2) 旧石器文化の発見

 1968(中華民国57)年3月4日、台湾大学の地質学者林朝?によって初めて「八仙洞洞穴遺跡群」が調査され、旧石器文化発見に有望な洞穴群であることが確認された。同年12月〜1969(中華民国58)年2月まで、台湾大学の宋文薫による5次の発掘調査が実施された。調査団はこれら洞穴群のうち、条件の良い乾元洞(海抜100m)、海雷洞(海抜70m)、潮音洞(海抜30m)の3洞穴を選んで発掘した。この調査で、初めて台湾島から「先陶(旧石器)文化」が層位的に確認された(宋1969)。宋は、各洞穴遺跡の最下層から出土した礫器と不定形剥片石器群は、アジア的旧石器文化の伝来の一つと位置づけた。また、台湾大学の李済は、この調査で判明した先陶文化を「長濱文化」と命名した(宋1969,1981,1991)。

 これら3ヵ所の洞穴遺跡には、一番下に海洋性の砂層、その上に赤色化した堆積土層が形成され、海雷洞、潮音洞では上層の赤色土層から、乾元洞では砂層直上の浅灰色土層から「長濱文化」が確認された。年代測定も行われ、大きく1万5,000年前頃の更新世段階の「古期」と、5,600〜4,500年前頃の完新世段階の「新期」に二分された。さらに1981(中華民国70)年の潮音洞の再発掘では、最下層の海洋性砂層から、もう一つの先陶文化が発見され、新期と古期長濱文化が層位的に確認される。この事実は、台湾島の初期人類文化が、古期と新期に1度ずつ、旧石器人の渡来があったことを物語る証左である。

(4)「左鎮人」の発見

 1971(中華民国60)年11月、台湾大学の宋文薫・林朝?、金良農、台湾省立博物館の劉衍らは、台南県左鎮郷菜寮渓畔で出土した犀化石の調査を行った。その際、郭徳鈴の収集標本中に、化石化したヒトの右頂骨の破片が含まれていた(宋1980)。

 さらにこの場所からは、1963(中華民国52)年1月、日本の古生物学者鹿間時夫によって、左頂頭骨の破片が採集されている。合わせて2点の人骨は、鹿間が日本に持ち帰り研究した結果、両方とも頭骨の表面は褐色で黒い斑点があり比重は大きく、化石化や磨耗の程度から台湾層(中期沖積層)と崎頂層(ヴィラフランカ層)に挟まれた礫層に由来していたものと推定された。右頭頂骨片は矢状縫合が閉鎖せず、中硬膜動脈溝が浅く、上側頭線も弱く、厚径も比較的小さいことから若い個体とされ、左頭頂骨片は中硬膜動脈溝が比較的深く、上側頭線が顕著であり、厚径も右頭頂骨片より大きいことから成熟した個体のものとされた。またこの骨片の表面には多数の鋭い条痕が認められ、この痕跡は人工的につけられた可能性が大きい。両骨片は、解剖学的にはホモ・サピエンスに属し、右頂骨のフッ素とマンガンの含有量0.76%、0.25%の値から、その年代は約3万〜2万年前で「左鎮人」と命名された(Shikama, T., Ling C.C., Nobuo S. and Baba H.1976、Baba,H., Ozaki H. and Sung Wen-Hsun1984)。

 1974(中華民国63)年潘常武は、左鎮郷菜寮渓採集のヒトの頭骨を台湾省立博物館で鑑定した。1978(中華民国67)年潘常武は、左鎮郷菜寮渓でヒトの右上顎骨の第1大臼歯を発見し、台湾大学の宋・連照美に届けた。同じ年、陳春木も左鎮郷菜寮渓採集の左下顎の第1大臼歯の歯冠を同じ研究室に届けている。この2点の臼歯は、連の鑑定で「左鎮人」と同定され、時代も同じとされた。その後、陳春木は左鎮村岡子林の崖の斜面からヒトの頭骨を4点採集した。鑑定の結果、この4片は同一個体の成塾男性で「左鎮人」と同じ時代と考えられた。また付近からの「旧石器」の発見も伝えられている(尾崎・宋・馬場1978)。

 こうして、これまでに発見された左鎮人の人骨片は、頭骨片7、右上歯1、右下歯1点の合計9点になった(図4、連1981)。

(5) 旧石器遺跡

 台湾島には現在、9ヵ所以上の先陶(旧石器)時代の遺跡が確認されている(図5-右下、宋1980ほか)。

 先陶文化の石器は片刃礫器1、剥片石器3、石屑(廃石片)多数、凹石2点。石質は砂岩。骨製品はイノシシの犬歯製の錐1点、シカの長骨製の尖頭器1点。貝製品には、ヤコウガイの蓋製の貝製削器(貝削器)109点。貝殻はサザエが90%近く存在。獣骨には、イノシシ、シカが主。魚骨には、イルカ。亀甲が大量に出土。年代はヤコウガイの殻でC-14測定を行い、4,820±100 B.P.(Beta-6159)、4,790±120 B.P. (Beta-6727)(李1983)。

 鵝鑾鼻第2遺跡は約5,000年前頃に最初の先史人(先土器時代人)の渡来があり、その後2,500年前頃まで連綿と先史人(新石器時代人)の活動が行われていた。遺跡から海岸までは200m足らずであり、その初期から黒潮の幸を中心にした豊かな漁撈活動が展開していたことが解明している(李2003)。

(6) 台湾旧石器文化の様相

 更新世の台湾: 台湾島は、第三紀以降の数次にわたる造山運動で形成され、地殻運動がまだ続き、地震と隆起活動の激しい地域であった。人類紀といわれる第四紀更新世(約175〜1万1,000年前)に、中国大陸・華南と「陸橋」で幾度か繋がったことがあり、この間、華南を源泉にした哺乳動物群が絶えず台湾に移動して来た。この時期に狩猟・採集を生業とした「旧石器時代人」が、この陸橋を通って移動する動物群を追って台湾島に移住してきた可能性は大きい。台湾大学の林朝啓は、台湾島西部地域から第四紀のステゴドン、ゾウ、ヤギュウ、サイ、シカなどの大陸系の動物群を発見している。また大陸側研究者の尤玉柱、金家広らは、台湾島に近い東山島海域から多くの第四紀哺乳動物群に属するゾウ、シカ、スイギュウ、サイ、クマなどと共に「晩期智人(Homo sapiens sapiens)」の右肱骨1点を発見している。台湾島は、大陸との間にある「台湾海峡」が深さ約60mであり、約2万年前のヴュルム氷期最寒冷期の海面低下が−140〜100mであったことから、当然大陸と「陸橋」で繋がったことは確かである。したがって、この「東山陸橋」と呼ばれる陸地を、中国大陸の更新世動物群が絶えず行き来していたのである(図5-左上、宋1980,1981,1991ほか)。

網形文化:

 台湾島西北部の丘陵地区で確認されている先陶文化である。遺跡には苗栗県の伯公龍遺跡、歴西坪遺跡と月湖遺跡がある。この文化の遺跡は、すべて地表下100mの赤褐色砂混じりの礫層とその下の青灰色粘土混じり礫層中から発見される。また後者の礫層には、大量の流木と木炭が包含されており、まだ、現位置でこの文化層が発見されたことはない。この木炭でC-14測定を行い、数百年前から数万年前に亘る年代値が得られている。石器として、片刃礫器、スクレイパー、ポイント、剥片石器が十数点あり、剥片類は100点以上発見されている。石質は石英、砂岩である。劉益昌によると、こうした石器群は中国大陸の広西新州地方の旧石器文化と類似しており、更新世末期頃の華南地域から伝来したものと言われる。現在、台湾の考古学界では議論中の資料である(図5-左下、劉1996ほか)。

 長濱文化:

 長濱文化の特徴は、農耕・牧畜がなく、土器や磨製石器を伴わない文化と言われている。この長濱文化は、「古期」と「新期」の二つの時期に分けられる(図5-右上、宋1980、加藤1990,1995)。

 この時期の旧石器人が「漁撈活動」をしていた証左は、台湾大学の李光周によって1987年に発掘調査された鵝鑾鼻第2遺跡と、龍坑遺跡で確認されている。この地域の先陶文化は「鵝鑾鼻第一文化」と呼ばれ、礫器や不定形剥片石器群と共に、骨製尖頭器やヤコウガイの蓋を利用した貝製スクレイパー等も発見された。このヤコウガイ貝器は、北琉球貝塚時代(約7,000〜2,000年前)の遺跡からも多数発見されており、琉球列島の先史文化との関係を示唆するものとして重要な資料である。またこの鵝鑾鼻第一文化は、海岸低地に集落を構え、ある程度の定住生活を営んでおり、外からの移住者の文化とされている(李1983,2003)。

4 まとめ

 ここで「南琉球の旧石器文化」について、現在までの研究状況を展望してみよう。

① ピンザアブ洞穴の旧石器文化

 約27,000〜26,000年前の年代を示す壮年の男女と子供を含む数個体の「ピンザアブ洞人」の発見は、南琉球圏にも旧石器人が生活していた確かな証左である。しかし他の沖縄県内の更新世化石人骨が発見されている洞穴やフィッシャー遺跡と同様に、ピンザアブ洞穴からも旧石器人の生活痕跡(遺構・道具など)は確認されていない。つまりこの洞穴は後期更新世の時期に、周辺から時間をかけて洞内に流入し堆積した遺骸群であろう。更にこの動物化石と人骨の出土状況は、層位的な先後関係が認められないことから同時期の所産と考えられる。とすると、この「ピンザアブ動物遺骸群集」と呼ばれる多量の動物化石類は、当時ピンザアブ洞人が地上で生活していた時の食糧残渣の可能性もある。とくに大量のミヤコノロジカの出土は、沖縄本島での同種遺跡でのリュウキュウジカやイノシシの出土状況と共通性がうかがえるものであった(長谷川・佐倉・岸本ほか1985)。

 ピンザアブ洞人は約32,000年前の山下町洞人より新しく、約18,000年前の港川人より古い中間の時期(約27,000年前)の旧石器人である。その故地は「旧石器」などの文化遺物が発見されていないので不明であるが、宮古島という地理的位置からみると台湾島や東南アジア地域との関係を辿る必要がある。人類はこの頃(ホモ・サピエンス段階)には渡航技術を有していたので、島嶼化していた琉球列島に黒潮激流を筏舟などの渡航具で北上してきた旧石器人集団の存在が想定されても不思議ではない(小田2003b,2007,2009)。

② 陸橋の問題

 長谷川善和は琉球列島の後期更新世から完新世の脊椎動物の論文で、ヴュルム氷期最盛期にイノシシが渡来して分布したと、大陸との「陸橋」の存在の可能性を指摘している(長谷川1980)。しかし日本第四紀学会の見解では、ヴュルム氷期には琉球列島はすでに島嶼化しており、大陸とは分離していたことが現在では定説になっている(町田2005)。 こうした研究の動向を探る上で、ピンザアブ洞穴から発見された「ピンザアブ動物遺骸群集」は重要な視点を与えた。つまり長谷川は発見された約3万年前頃の北方系のミヤコノロジカについては、後期更新世に北方の動物群として大陸から宮古島に「陸橋」を渡って南下してきたものであり、琉球列島はヴュルム氷期以後の地殻変動量が著しいので、宮古島周辺の海底地質から考え、後期更新世のある時期に大陸と繋がった可能性もありうると述べている(甄・長谷川1985)。

 琉球列島から発見されるミヤコノロジカやイノシシについて、その渡来の解釈として「陸橋」の存在の可能性が議論されているが、後期更新世の旧石器人は、すでに渡航具を使用して海洋を自由に航行し島嶼部にも拡散している事実が周知されている。つまり食糧になる動物種については、自然分布という視点だけではなく、人間による「移入」の問題も検討する必要がある。

③ 南琉球と台湾の考古学研究史

 1904(明治37)年東京帝国大学の鳥居龍蔵は、台湾調査の帰途、石垣島の川平貝塚の発掘を行った。鳥居は出土した土器の中に「外耳土器」を発見・命名し、台湾文化との比較の必要性を述べた(鳥居1905)。この鳥居の指摘以後、大正、昭和前期の間、沖縄と台湾との関連を積極的に論じる研究者はいなかった。

 戦後の1954(昭和27)年、九州大学の金関丈夫を団長とした「八重山調査団」は、波照間島の「下田原貝塚」を発掘調査した。調査団はこの貝塚出土の外耳土器(下田原式土器)を、台湾南部東海岸地方の先史文化の土器と類似していることを指摘した(金関1955、金関ほか1964)。一方、日本統治下の台湾大学で考古学研究していた国分直一は、八重山先史文化の「下田原式土器」を、台湾の巨石文化に伴う「赤褐色無文土器」を源流と考えた(国分1972)。その後、八重山地方に特徴的な「磨製石斧」や「シャコガイ製貝斧」などの源郷についても論考されるようになり、台湾より南の東南アジアやフィリピンとの類似が議論されている(国分1972、安里1989)。

 こうした台湾と沖縄先史時代の比較研究史をみると、その初期は本土の人類学・考古学者による調査・研究が主体であったが、その後最近では沖縄の考古学者、たとえば高宮廣衞、安里嗣淳、盛本勲らが台湾に出かけ、直接に考古学資料の比較研究・調査を行い、また現地との共同研究などを行ってその成果を発表している(安里1989、盛本1992、高宮1994、沖縄県文化振興会文書管理部史料編集室編2003、石垣市総務部市史編集課編2007)。

④ 南琉球の旧石器文化とは

 台湾と沖縄の旧石器時代の比較研究はどうであろうか。現在、沖縄地域からは更新世の「化石人骨」が8ヵ所の石灰岩洞穴やフィッシャーから確認されているだけで、確かな旧石器時代の「文化遺物」は発見されていない(安里・小田ほか編1998、小田2003b,2007,2009)。唯一「山下町第1洞穴」から3点の石器(礫器1、敲石2)と考えられる資料が発見されているが、その評価については今後の沖縄での類例の発見に託されている(小田2003b)。

 人類学者の研究によると、これら沖縄の旧石器人(港川人)は、南中国やインドネシアのホモ・サピエンス(新人)に形質が類似しているとされる。また台湾には「左鎮人」がおり、年代的には同じ更新世の約3万〜2万年前であるが、断片的資料で形質的な比較ができないが琉球列島との関係は否定できないという(Shikama, T. Ring C.C.,Nobuo S. and Baba H.1976、馬場1998、連1981)。

 台湾の旧石器文化は、大きく更新世(古期)と完新世(新期)の二時期に亘っている。遺跡の立地は古期の多くは沖縄と同様な石灰岩「洞穴」から発見され、新期は野外遺跡で貝塚を伴っている(宋1969,1980)。一方、北琉球圏に所属する「奄美諸島」では、海岸に注ぐ河川の河口近くの高台部(野外遺跡)に立地している(小田1997,2003a)。奄美諸島は沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島と共に「琉球列島」の一部であり、いずれ確認されるであろう沖縄の旧石器遺跡も、こうした河口近くの段丘高台部に立地している可能性も考えられる。

 台湾と奄美諸島の旧石器群は、東南アジア島嶼部・香港島などの大陸沿岸部に分布する「不定形剥片石器文化」と共通した様相が指摘されている(加藤1990,1995)。したがって、沖縄の旧石器文化は、スンダランド海岸部遺跡群に共通した少数の「礫器」と多数の「不定形剥片石器」を保持した「南方型旧石器文化」の一員であり、彼らは「海洋航海民」で筏舟や丸木舟を操り、島嶼や大陸沿岸部を北上し台湾島経由で、また直接「黒潮」に乗って南琉球地域に到達した集団と考えられる。その北上の波は、台湾では二度(古期と新期)、琉球弧でも同じく数度の渡島があったと推察されよう(図6、小田1997)。

おわりに

 南琉球圏のピンザアブ洞穴から発見された「ピンザアブ洞人」は、北琉球圏(沖縄諸島)から発見されている更新世化石人骨群(山下町洞人、港川人、下地原洞人、ゴヘズ洞人など)と深い関係にあることは確かである。それは周辺地域から琉球列島に渡来してきた「旧石器人」の移住・拡散行動としての一連の資料である。その故郷については人類学的方面から、港川人は南方地域との関連が取り沙汰され、考古学的方面からは、山下町洞人の石器は東南アジア地域にその類似が指摘されている。こうした研究の現状から「南琉球の旧石器文化」は、近接した台湾島や東南アジアとの関連を考慮しつつ研究を進めて行く必要があろう。

 最後に、本稿を草するにあたり多くの諸先生・諸氏・諸機関のお世話になったことを御礼申し上げると共に、ここにお名前を明示し心からの感謝に代えさせて頂きたい。(順不同)

 安里嗣淳、岸本義彦、新田重清、嵩元政秀、高宮広衞、上原 静、知念 勇、盛本 勲、島袋綾野、長谷川善和、大塚裕之、春成秀爾、小野 昭、佐倉 朔、馬場悠男、松浦秀治、徳永重元、橋本真紀夫、関 俊彦、宋 文薫、劉 益昌、郭 素秋、沖縄県教育委員会、沖縄県立博物館・美術館、沖縄県立埋蔵文化財センター、パリノ・サーヴェイ研究所、東京大学総合研究博物館、国立科学博物館、国立台湾大学考古人類学研究室、中央研究院歴史語言研究所

引用参考文献


追記: 石垣島から旧石器人骨発見

 2010年2月5日付の全国新聞紙上で、沖縄県石垣島から「2万年前の日本最古の人骨」を発見という記事が報道された。それによると、新石垣空港建設予定地内の「白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴」(通称C1洞穴)から、NPO法人の沖縄鍾乳洞協会が2007年に人骨を発見し、2009年までに沖縄県教育庁、琉球大学、愛知教育大学などが共同調査し、下田原式土器(約3,600年前)、八重山式土器(約500年前)などと共に、多数の動物骨(約1万4,000年前のイノシシも)と9点の人骨片(頭骨・脚・腕骨など)を検出した。そして県教育庁は、この人骨の年代測定を東京大学に依頼した。

 今まで沖縄の人骨資料からは、年代測定に必要なコラーゲンの残存は認められなかった。しかし今回は9点中の6点に、コラーゲンが残存していたのである。年代測定は微量試料でも分析可能な、加速器質量分析計(AMS)による放射線炭素(C-14)年代測定法で行われた。その結果3点が、20416±113年前(20〜30歳の男性頭頂骨片)、18752±100年前(性別不明の成人右第2中足骨)、15751±421年前(成人男性右腓骨)という旧石器時代の年代が出された。また残りの3点は、八重山新石器時代の新しい約2,000年前頃の年代であった。この事実から、石垣島に初めて「旧石器人」の存在が確かめられ注目されることとなった。

 沖縄県ではすでに山下町第1洞人(約3万2,000年前)、港川人(1万8,000年前)など、8ヵ所(沖縄本島、伊江島、久米島、宮古島)から旧石器時代に属する人骨の発見がある。しかし良好な骨格を持つ港川人(1号)でも、コラーゲン不足であったために、年代値は同層中出土の炭化物片試料からであった。今回の人骨試料には、幸運にも年代測定に必要な量のコラーゲンが残存していて、人骨から直接年代が測定された意義は大きい。さらに、唯一人骨から直接理化学的年代測定が行われた「静岡県浜北人」の約1万4,000年前より古い年代値が出たのである。

 今まで南琉球圏での旧石器人の確認は、本稿で報告した宮古島の約2万7,000年前の「ピンザアブ洞人」しか知られていなかったが、今回、さらに南の「石垣島」にも約2万年前の旧石器人の存在が確認された意義は極めて大きい。またこの洞穴内には、まだ多数の人骨が残されている可能性があるという。今後、県教育庁による正式発掘調査が行われるとのことであり、人骨以外の「人工遺物・遺構」などの確認も期待される。

 この2010年2月20日、東京の国立科学博物館分館で公開シンポジウム「日本人起源論を検証する:形態・DNA・食性モデルの一致・不一致」が開催された。この席上で分析関係者から、人骨の年代値は確かなもので、抽出されたタンパク質コラーゲンの炭素・窒素同位対比から、今までの沖縄の貝塚時代人と異なる「食生態」(食生活)が看取できたという見解が示されている(2010.3.31記)。


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