2024年、私は主治医からステージ4の癌の告知を受けた。この衝撃的な結果を受けて、私は自分自身の残り少ない時間を如何に過ごすかを問う日々の中で、自分の人生を振り返りながら、私の考古学人生に於いて、極めて過酷な影響を受けざるを得なかった「旧石器遺跡捏造事件の本質とは何かJ、「その背景には如何なる人間関係が存在し、その人々がどのように事件に関与し、うごめいていたのか」そして、「事件後の旧石器研究及び考古学界は?」等々について思いを巡らす機会が増えた。そこで私は自身の記憶の糸を辿りながら、現在までに知り得た事実と共に、この事件後旧石器研究及び旧石器考古学が、無残に衰退してしまった現状を鑑み、これからの旧石器考古学についての所感などを、高校生の頃から旧石器研究に邁進して生きてきた一研究者の使命として、再びこのような事件が起こることがあってはならないという憤りと、風化させてはならないという願いを込めて、事件後四半世紀が経った現在、これを書き残して置きたいという想いに至った。
1950年群馬県岩宿遺跡の発見で、 日本列島に縄文時代以前に「旧石器時代遺跡」が存在することが確認された。その後1969〜70年代に、武蔵野台地で詳細な旧石器時代遺跡の発掘調査が行われたが、年代的に3万年より古い遺跡の存在は無かった。つまり日本では当時、ヨーロッパで周知されていた石器時代編年の「後期旧石器文化」相当の資料しか認められていなかった。ところが、こうした日本の旧石器時代遺跡の存在に反して、1981年に突然、東北地方に3万年より古いとされる「前期・中期旧石器時代遺跡(座散乱木遺跡)」が登場した。
当時、関東地方の旧石器研究者だった私は、従来の考古学研究に加えて、より科学的に信憑性を高める為、自然科学的手法の様々な分析をも取り入れて、発掘調査を実践していたので、地質に詳しい都立大学の町田洋、明治大学の杉原重夫、群馬大学の荒井房夫らと共に四人で、早速この遺跡を検証すべく現地に赴いた。そして検証した結果、「座散乱木遺跡」は火山が噴火した際に流れる高温の火砕流堆積物が厚く堆積した「火砕流堆積物層」で、とても人間が生息できる場所では無かったのである。しかも、そこから発見されたとする石器の出土状況は、既に周知されている関東地方の「地層から出土」した状況とは、明らかに異なり、その石器は「地層と地層の間jから出土したと座散乱木遺跡の関係者は説明していた。が、発掘において、こうした常識を外れた遺物の発見状況を展開するのは、故意に発見したとする石器の存在を認めさせようとする東北地方の石器研究者たちの創り出した遺跡との疑いが、極めて濃いものであると検証に立ち会った四人の意見が一致していた。しかし当時権威あるオピニオン・リーダーとして考古学界に君臨していた国家公務員(国立歴史民俗博物館)の佐原真によって、「所かわれば、品変わる」と一笑にふされてしまったのである。これが後年、考古学界を揺るがす大問題に発展した「旧石器遺跡捏造事件」の幕開けだった。
日本の旧石器時代研究は関東地方から始まり、 特に1980年に立 風書房から刊行された「日本の旧石器」(赤沢威・小田静夫・山中一郎著)は、野川流域(武蔵野台地)の発掘の成果を使って、赤沢威が文部省科学研究費を取って、作成されたもので、当時この本を世界中の大学や図書館に送った結果、世界的に優れた成果だと称され注目されていた。その成果から日本の考古学界では、日本列島には現在「後期旧石器しか認められない」というのが定説であった。
こうした背景から東北地方の旧石器研究者たちは、関東よりもっと古い「前・中期旧石器時代」の存在を掲げて、より素晴らしい遺跡が東北に多数存在することを主張し始めた。つまり遺跡の存在や石器の形式を古くして、関東地方に無い時代が、東北地方に存在することを、認めさせようとしていたのである。
この発掘に参加していた主なるグループメンバーは、アマチュアで発掘愛好家の藤村新一を初め、東北地方を主な研究フィールドにしていた旧石器研究者の横山祐平、東北大学から東北歴史資料館に異動していた岡村道雄、そして宮城県公務員の鎌田俊昭、東京都財団職員の原川雄二等で、彼らが結託して東北の発掘調査を行っていたことは明白な事実だった。
1986年、既に30万年前の原人段階の遺跡が出現したとする同グループの前期旧石器研究に疑念を抱いた私は、当時、前期旧石器が席巻していた考古学界誌に無視され、「人類学雑誌」に批判論文を発表したが、岡村グループからの反論はなかった。次々と数多くの「前期・中期旧石器時代遺跡」が誕生して行く中で、驚いたことに、私の批判論文が発表された翌年の1987年に、私の埋蔵文化財業務地域の中であった「東京都多摩ニュータウン遺跡」(武蔵野台地より古い地層が露出していた遺跡)で、私の学説に反対する研究者たちは、東北地方の縄文時代遺跡から採集した古そうな形をした石器を持ち込んで、遺跡に埋め込み、「前期・中期旧石器が出土した」という事実を認めさせようと画策し、東京での私の発掘調査に加わっていたのである。
その後、「東京の多摩ニュータウン遺跡から石器が出土した」という結果を受けた岡村道雄は、座散乱木遺跡の統括報告書の中で、臆面もなく、「日本の前期旧石器存否論は終結した」と宣言した。それからの岡村グループの動向は、福島、山形、岩手、栃木、群馬、埼玉県にまで及び、「前期・中期旧石器時代」の捏造遺跡を、次々と誕生させて行き、遺跡・遺物の発見?発表・報道が、毎年のように行われていった。そして、旧石器遺跡捏造は事件発覚まで、20数年間の長きにわたり継続し、その結果旧石器研究がその信憑性を失い、更に考古学全般の信頼をも傷つけ、今日に至っているのである。
また、東北の捏造した前期旧石器を容認し、その動向を擁護し続け、更に推進した考古学界の権威と言われる人々や、大学の先生・研究者達が多数いた事も忘れてはならない。しかも、その中には「文化庁・奈良文化財研究所(奈文研)」から天下りした関係者が、少なからず存在していた事は明らかだった。
の功績が認められ、東北歴史資料館から国家公務員として、「文化庁」に栄転した岡村道雄が与えた影響は、極めて大きいものであった。
文化庁就任後は、自らマスコミ等の報道機関や出版社を通じて、一般の人々や研究者たちに前期旧石器を喧伝し、更に自分の役職を利用して、日本全国各地を巡り、地方への補助金や科学研究費(科研費)をセットにして、「前期旧石器」の展示会を開催する等を行い、遂には文部科学省の検定教科書にまで、偽史を掲載させるに至ったのである。その結果「前・中期旧石器」の信憑性とその存在が、次第に拡散・定着して行ったことは否めない事実であった。
また、国立歴史民俗博物館の佐原真と奈良文化財研究所の坪井清足は、考古学の権威として、ミスリードし続け、岡村道雄たちを擁護し、学会や講演会などで、「前期旧石器」を喧伝し、その後20数年に渡り、捏造事件を継続させながら、オピニオン・リーダーとして学界に君臨し続けた。そして更なる全国的規模で、捏造された前・中期旧石器の支持と支援を強め、異論を唱える者の排除を行ってきた事の影響は極めて大きい。捏造事件発覚後は、旧石器研究のみならず、考古学全体の信憑性とその非科学的な存在とをあからさまに露呈し、考古学という学問を根底から揺るがしてしまったことは、痛恨の極みであった。
武蔵野台地の遺跡を発掘していた東京都文化課の小田らのチームによって、縄文時代の遺物が確認される黒色土層の下に、厚く堆積する火山灰層である関東ローム中に旧石文化が存在し、数枚の文化層を形成している遺跡が発見されたが、しかし、どの遺跡にも3万年以上の古い年代値を示す文化層を持つ旧石器遺跡の存在は確認されなかった。
突然出現した、東北地方の古い年代値を示す旧石器遺跡の検証が必要になり、武蔵野台地の研究者たちによる詳細な現地調査が行われたことは、前述した通りであるが、その詳細について補足すると、当時古いとされていた「座散乱木遺跡」には遺物包含層は確認されず、又その場所から発見されたとする石器の中には古色の認められない自然石が認められ、それは、故意に持ち込まれた極めて疑いの濃い資料であった。それ故、東北地方の研究者たちが主張する「前・中期旧石器文化」の遺跡や石器類は、「座散乱木遺跡」登場当初から、その存在すら無かったという結論に至ったのである。
武蔵野台地の研究者たちの総合的な遺跡分析結果から、日本列島の旧石器文化は、ヨーロッパの後期旧石器段階に相当することが判明していたが、こうした新しい年代の遺跡しか存在しないとされる日本列島の旧石器文化に反対する研究者たちは、東北地方の資料を用いて、より古い遺跡の存在を認めさせようと画策したことで開幕したのが「旧石器遺跡捏造事件」であった。
旧石器遺跡捏造事件当時、国家公務員(国立歴史民俗博物館)の佐原真と、同じく国家公務員(奈良文化財研究所)で、学界内では「坪井天皇」と呼ばれていた坪井清足、この二人の発言・擁護が捏造事件に絶大なる影響を与えていた。それは先ず彼らが、捏造事件の仲間たちと作った「石器文化談話会(1975年設立)」のリーダーとも言える岡村道雄の前期旧石器遺跡発掘の功績を認め、その後、岡村道雄を文化庁に栄転させて、文化庁の権限をフルに行使させ、新聞・テレビ・雑誌・学界・講演会・全国規模の偽石器の展示会等を実施させた。こうして、毎年のように発見される偽石器を、あらゆる機会を利用して喧伝し、遂には、捏造された偽石器・偽遺跡の偽歴史を文部省検定の教科書にまで掲載させるに至ったのである。その後も、彼らは国家公務員として、その絶大なる権限を行使し続け、捏造事件が、捏造現場写真による毎日新聞のスクープ報道によって発覚するまで、20数年にわたり延々と継続させたのである。また、その間彼らは異を唱える者を次々と排除し、その権勢を欲しいままに考古学界に君臨し続けた。こうした彼らの行為は考古学史上消えることのない最も恥ずべき行政の歪みを生じさせたと言っても過言ではない。
そして、私が退職後、長年の持病である腰痛悪化により手術を受け自宅療養中に、佐原真の側近であった春成秀爾から「佐原真が会いたがっている」との電話連絡を受け佐倉の病院に駆けつけた所、その病床で佐原真は「やっぱり君が旧石器では一番だったなあ。本当に長い間苦労させてすまなかった」と言った。それから間もなく、一週間後に他界されたとの知らせがあった。2005年(捏造事件発覚から5年後)に、長野で開催された「世界の黒曜石展」の講演会で、坪井清足と私は講演者として同席した。その講演終了後、宿舎に戻って行われた食事会の席上で、坪井清足から「長い間苦労をかけてしまったねえ。本当は君のような人を奈文研に来て欲しかったんだよ」と言われた。その翌新年に、坪井清足直筆の年賀状が初めて届いたが、その後程なくして他界されたとの知らせがあった。
こうしてオピニオン・リーダーだった二人の時代は終焉を迎えたが、結局、捏造事件について、公的立場での謝罪.説明等は、一切無かった。
また、文化庁に在籍し、自分の知名度と前期旧石器の認知度を高める為に、文化財保護行政に於いて、その役職を利用し、全国の地方行脚を繰り返し、地方への補助金や、地方の研究者たちに科研費を配る等をしながら、前期旧石器の展示会を国家事業として国民の税金で何度も開催し、偽歴史を20数年に亘り拡散し続けた岡村道雄。その行政業務手法は、行政の歪みと闇を、身をもって体現したもので、断じて許されるべきものではない。しかし、現在に至っても尚、岡村道雄からの公的謝罪・説明等は、一切無い。
加えて、前期旧石器遺跡捏造事件の間、報道機関の動向は如何なるものであっただろうか。捏造石器の発見?発表がある度に、事の真偽も確かめず、「最古」「最古」の過剰報道を繰り返してきた事実は否めない。また、捏造事件発覚後に、私のことを「ゾンビのように再び出てきた姿はおぞましい」と書いた新聞記者が、今では編集委員となっているのには、正直驚かされた。このように、権力を手に握った者や報道機関の人たちは、インパクトのある言葉や情報の矢を放つが、その後はあいまいな決着のまま、決して責任をとらない。こうした権力者たち(マスコミを含め)の責任の取り方が、現在の日本でも、大きく問われている問題点である。
1986年に「宮城県の前期旧石器遺跡研究」の批判論文を書いた後、私は「考古学」に失望して、「人類学」の分野に研究の軸足を移し、沖縄の豊富な「化石人骨」が出士する洞穴や、フィッシャー遺跡の研究を開始した。そして沖縄を調査中だった頃、突然、藤村新一からの葉書が届いた。そこには、「自分は蛇がこわいので、沖縄には行きません」と書かれていた。後年沖縄の人々から「小田さんのお蔭で、沖縄の考古学は捏造から守られた」と感謝されたが、私は唯、苦笑するしか無かった。
そして2000年11月5日(日)、毎日新聞の捏造現場写真スクープ報道で、捏造が発覚し、以後3年の間日本考古学協会による様々な検証が行われた。その結果、2003年5月に、日本考古学協会により、「座散乱木遺跡を含め総ての前・中期旧石器は捏造」という判定が下り、「前・中期旧石器」は消滅した。同年3月には、私は既に「東京都教育庁」を定年退職していたが、日本考古学協会の発表を受け、20数年間、胸につかえていたしこりがやっと下りた気がして、目に涙が滲んだ。
しかし、現在では、第三者委員会等が立ち上がった場合、利害関係を有しない者で構成されるのが原則であるが、当時の「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会」は、捏造を援護・擁護をしてきた本来責任を問われる立場である者たちが、検証する側の立場として調査に加わっており、また、その生々しさに絶句したと言われる藤村新一の告白文の全文を公表していないことも、実に曖昧な対応で、これにより真相を闇に葬り去られた事は、誠に残念であった。
私の旧石器研究の歩みは、考古少年だった時代から紆余曲折を経て60数年に及ぶ。その間、私は大学院(修士課程)終了後、「東京都教育庁文化課埋蔵文化財係」に籍を置き、東京都の再開発事業に伴い、失われてゆく数多くの遺跡の記録保存の為に、緊急発掘調査をする仕事に邁進していた。当時大学の先生達が行う発掘調査は学術的価値が高く、調査員が行う緊急調査は学術的価値が低いと評価されていた時代であったが、私はそれを打破する為に、より科学的に発掘・研究が行えるように、従来の考古学的手法に、自然科学的手法を取り入れ、様々な分析や解析を重ね、当時はまだあまり普及していなかったコンピューターをいち早く導入する事や遺跡住居の復元・石器の使用痕・地層剥離等々、様々な調査方法を模索し、それを試みながら遺跡解明作業を続けてきた。又、失われてゆく遺跡の場所が、私の生まれ育った武蔵野台地内に多数存在していた事から、私はこの仕事に使命感を持って挑んできた。この長い道程の中で私の研究成果や、「前期旧石器」との戦いを見て、大学に転出する話も、いくつかの大学の先生から頂いたが、私は自分が発掘した数多くの遺跡の旧石器研究の正当性を信じて「前期旧石器問題」が決着するまでは、東京都文化課の職員を辞するつもりは全くなかった。
本当に長い道程の旅であったが、幸せなことに、私の発掘には数多くの著名な先生方のご協力も得られ、いくつもの素晴らしい成果を挙げることが出来た。特に国際基督教大学(ICU)のJ.E・キダー博士には、高校生の頃に出会い、大学生の頃から様々なご指導を受けられるようになったが、その真摯な研究姿勢に感銘を受けた。その後、私が東京都の発掘を手掛けるようになると、その成果を英文で海外に発信し、先生が主催するICU考古学研究センターから出版されている「オケージョナルペーパー」という研究誌にも掲載し、世界に発信するなど様々な形で援助して下さった。そして、先生は捏造問題で窮地に立たされた私を常に暖かく見守って下さった。先生が後年、勲三等瑞宝章を受章された時には本当に我が事の様に嬉しかった。更に1992年に「図解・日本の人類遺跡」という本が、東京大学出版会から出版され、現在でも、日本の石器時代の解説本のバイブルと言われ、多くの人々に読まれているが、その「図解・日本の人類遺跡」の第二版で巻頭言を寄稿して下さったことも忘れられない思い出の一つになっている。その後大学を退職されアメリカに帰国後、「君と一緒に仕事が出来たことは、私の誇りであった。本当にありがとう」という手紙を頂いた。私の生涯の中で唯一無二の恩師であった。
さて、旧石器研究の本題に戻ると、日本列島の旧石器研究の難しさは、遺跡から発見される資料が「石器・剥片類・礫群・配石・炭化物片等」と少なく、これは、日本列島が酸性土壌という遺跡堆積物(酸性の火山灰)の影響を受け、化石骨保存に不利な土壌環境を持つ為、化石骨等は消滅してしまうからである(但し唯一沖縄では「石灰岩洞穴」から「港川人」等の化石骨が発見されている)その為、諸外国のように豊富な自然遺物・人類化石・遺構類の発見は望めない。従って、旧石器人の生活・環境復元には、「自然科学的手法」を駆使し、遺跡情報を最大限に引き出さなければならない。
これからの「旧石器研究」には、より科学的な考古学を目指して、人類学・地質学・年代学・遺伝学・等々の幅広い知識が要求されるようになって来た。これからの若い次世代の研究者達のために、早くこうした「新しい学際的な学問体系」が構築される事を願ってやまない。が、現在に至るまで、考古学界の旧体系が変わったという話が未だに聞こえて来ないことは残念である。
結局の所、捏造事件の本質は、一地方公務員の学芸員であった私が、旧来の方法ではなく、新しい方法をも加味しながら研究の成果を挙げてきたことが、国家機関である「文化庁・奈文研」の権威ある人たちや研究者たちには、目障りな存在だった所に、前期旧石器が出て来て、それぞれの既得権益を守るため、皆で揃って「前期旧石器jという捏造列車に乗って、20数年後に、「捏造発覚jという終着駅に到着したという話だった。
最後に、旧石器研究の信憑性と考古学への信頼を回復する為に、尽力されるよう若い次世代の研究者たちに頑張ってほしいと、心からのエールを送りたい。