多摩考古第46号 2016年5月発行

関東ロームの花粉分析
一列島最古の旧石器文化を探るD一

小田静夫

はじめに

 日本の旧石器時代遺跡が1949(昭和24)年群馬県岩宿遺跡で、今まで無遺物層と考えられていた赤土(関東ローム)層から確認されたことは良く知られている。関東ロームは1879〜81(明治12〜14)年に、東京帝國大學の地質学教授として来日したドイツ人ディヴィット・アウグスト・ブラウン博士が「ローム」と命名した。それは「砂と粘土がほどほどに混じった土壌や堆積物の粒子組成名」であったが、1954(昭和29)年「関東ローム研究グループ」が設立され研究が進展すると、この土壌は「火山灰」を起源としていることが判明する。日本の研究者は、本来の意味をも含めて日本独自の「ローム」という術語を慣用し、このロームで構成される地層を「ローム層」と名づけた。また、ロームが堆積していた時代は火山活動が活発で、人類が生活できる環境ではなかったと考えられていた(1965『関東ローム一その起源と性状一』)。

 ところが、この関東ローム中に旧石器遺跡が包含されていることが判明すると、古い先入観を持たない各地の若い考古学徒たちは、同様なロームや粘土層中から縄文時代(当時、日本最古の文化と考えられていた)より古い「土器を持たない」遺跡の探索を開始し、北は北海道から南は九州地方にまで確認された。その後、日本に「旧石器時代・文化」が定着すると、国や地方行政体の埋蔵文化財保護部署(文化庁、教育委員会)では、1960年代ころから頻発化した開発に伴う「緊急発掘調査」で、今まで縄文時代で終了していた調査範囲を、さらに掘り下げて「旧石器包含層」の確認や発掘調査を義務づける方向で行政指導を行う時代が到来した。

 こうした状況下で1968・69(昭和43・44)年神奈川県月見野遺跡群、1969・70(昭和44・45)年東京都野川遺跡で、日本の旧石器研究史を大きく変える大規模緊急発掘調査が実施された。幸運なことに両遺跡は相模野台地と武蔵野台地に位置し、厚く堆積した「関東ローム」層中には黒色帯、スコリア、パミスなど年代や相互比較を容易にする「鍵層」が多く介在していた。その結果、10枚以上の「生層位学」的重複関係で「旧石器文化層」が確認され、「岩宿以前・以後」に続く「野川・月見野以前・以後」という画期が設定され、日本の「新しい旧石器研究の出発点」となった遺跡であった。この成果は、ただちに1971(昭和46)年1月に群馬大学で行われた日本第四紀学会シンポジウム「南北関東の旧石器の編年に関する諸問題」で発表・議論され、1972年には機関誌の第四紀研究10-4に「日本旧石器特集号」として刊行された(小田2003,2014)。

 本稿では、野川遺跡の大規模調査で、日本で初めて「旧石器文化層」(関東ローム)中からの「花粉・胞子化石」分析の試みを通して、武蔵野台地に生活した列島最古の旧石器人たちの「古環境」復元を実施した研究史を探ってみることにしたい。

1、花粉分析とは

 花粉分析とは堆積物の中から、そこに包含されている花粉や胞子の化石を取り出し、それらの種類や構成などによって植物群の歴史や環境の変化・地質時代などを考える方法である。この手法による研究は、現在では植物群の歴史を証明するばかりではなく、広く「考古学」や海洋学の方面にまで及んでいる。花粉分析は北欧のスウェーデンで始まり、近隣の西欧諸国に伝わり、続いて世界各国へと広がっていた歴史がある(徳永1972)。

(1)研究史

 花粉を初めて観察したのは、1671年イタリアのマルチェロ・マルピギーとイギリスのシュバリエ・デ・グリューで、両者は別々の花粉を観察し植物によって異なることに注目し、それらの大きさ・形などをロンドン王立学会から発表した。しかし内容は言葉による表現だけで花粉の「形」を描くことはなく、花粉のスケッチが登場するのは18世紀になってからであった。

 19世紀になると「顕微鏡」が進歩し、花粉の形が細部まで解るようになり、それらの特徴で「種」が判別出来るようになった。また花粉や胞子が地中に埋もれ「化石」となっていることも判明した。20世紀になると若い第三紀の「石炭」からも花粉・胞子化石が取り出せるようになり、炭鉱などの採掘にも役立つことが解った。その結果、北欧の北海油田の開発で、花粉分析が地層判定に大いに活躍したことは有名である。

 1902年スウェーデンのストックホルム大学のニルス・グスタフ・ラーゲルハイムは分析方法の改良を重ねて堆積物から化石を取り出す方法を研究し、泥炭から花粉を抽出し検出された花粉を定量的に処理し、その出現する量比をパーセントで表現する方法を考案した。これが「花粉分析」と呼ぶに値する最初の研究とされ、ラーゲルハイムは「花粉分析の父」と呼ばれている。

 この研究を受け継ぎ発展させたのがスウェーデンのレナルド・フォン・ポストで、1916年に「泥炭層」を詳しく調査した。ポストはその結果から、過去の「森林構成」や「古環境」を考察する手法を確立した先駆者で、北ヨーロッパの研究はこの森林の歴史・泥炭層の内容などを知るために、この手法が重要視されてきた歴史がある。またドイツではシュルツェ法という強酸などを使用する分析法が考案され、それによって古生代の石炭中からも胞子化石を取り出すことが出来るようになった。その後、ポスト門下生のジャン・エルドマンは、1934年初期の泥炭処理法であったKOH法に、新たなアセトリシス法を考案し付け加え「花粉学中興の祖」と言われている。この方法は、植物遺体中のセルロースを酸で加水分解してもっとも効果的に取り除くことができ、花粉化石の分離だけでなく、現生花粉の処理の基本的な技術として、現在まで広く世界中の研究者に受け入れられている。

 こうして花粉分析の歴史は、その初期は森林の歴史を解明するためであったが、それ以外の多くの分野に応用が可能であることが解り、研究調査が世界的に拡大することになった。その結果、共に成果の相互検討が必要になり1962年4月第1回の「国際花粉学会議」がアメリカのアリゾナ大学で開催され、これ以後、4年毎にこの会議が今日まで開かれている。この第1回会議に出席した大阪市立大学の塚田松雄によると、13ヵ国の参加と137論文、7つの分科会があったという。ちなみに第13回国際花粉学会議が、日本の中央大学後楽園キャンパスで2012(平成24)年8月に開催されている。

(2)日本の研究史

 1928(昭和3)年ヨーロッパ留学から帰国した京都帝國大學の沼田大学が、西欧諸国で広まっていた花粉分析を林学会誌10-9に紹介したのが、「日本の花粉分析の始まり」とされている。翌年の1929(昭和4)年には、ドイツのベルリン大学に1922〜24(大正11〜13)年まで留学し帰国した東京帝國大學の中野治房が、その著書の中で花粉分析法を解説し花粉分布図を紹介した。また東北帝國大學の吉井義次は1926〜28(昭和元〜3)年にスウェーデンに留学し、花粉分析発祥の地である北欧の花粉分析法を我が国に持ち帰った。その研究法は弟子の神保忠男によって受け継がれ、八甲田山の湿原堆積物の成果が1932(昭和7)年に英文で発表され、「日本最初の花粉分析の論文」とされている。

 こうして戦前に外国留学から帰国した在外研究者たちにより、我が国に花粉分析が初めて紹介された歴史がある。戦後になって、その弟子や影響を受けた多くの研究者が、それぞれが所属した大学や研究所で花粉分析法を推進させ発展させていった。堀正一(東北大学)、中村純(広島大学)、嶋倉己三郎(奈良教育大学)、相馬寛吉(東北大学)、竹岡政治(京都府立大学)、塚田松雄(ワシントン大学)、徳永重元(工業技術院地質調査所)らの研究者たちの活躍であった。

 日本の花粉分析研究の方向性は、北欧で行われていた本命の「森林構成の変化から古気候を復元」するという方法論を、研究者たちが我が国の第四紀の植生変化の考察に導入したもので、その後の日本の花粉分析学の主流になっている。そして北欧花粉分析法の本命を受け継いだ日本の研究方向は、第四紀学の発展と共に日本列島の変化の多い地域的・環境的多様性が、この花粉分析で復元できることが証明され多くの研究論文が発表された。

 戦後になると、四国の低位泥炭層の分析が先駆的なもので、ついで八甲田山の研究所が多くの成果を発表し、中部地方高原の第四紀堆積物から環境変化を分析した論文などがあり、広島大学の中村純、ワシントン大学の塚田松雄らの功績が大きかったと評価されている。その後、分析の対象範囲も陸上だけでなく「湖沼」の成因にも目が向けられ、さらに「海」へと関心が広がり海洋試錐試料の利用も検討される時代が到来している。

(3)考古学分野では

 1900年代の初め北西ヨーロッパでは、考古遺跡の年代決定に花粉化石が用いられた。1941年デンマークでは新石器時代の始まりを、人間の居住(農業の開始)による花粉の減少と草本類の出現を目安にした。1963年イギリスでは中石器時代の遺跡で、農耕による森林植生の組成変化を花粉数でデータ化する手法が開発された。また1920年代に花粉分析が導入されたアメリカ大陸では、野外や洞穴遺跡で花粉分析が行われ、花粉の統計的なプログラム研究が進められた。

 中国では1950年代から考古学調査に自然科学の方法論が取り入れられ、花粉分析は1960年代から行われるようになった。1980年新石器時代の半坡遺跡では、花粉分析結果から原始農耕が焼畑耕作であったことが判明した。1988年には河母渡遺跡の新石器時代第4文化層の花粉分析が行われ、草本類の花粉から「古環境」が復元された。近年では日中共同研究など多くの学術交流が行われ、花粉分析で中国の「栽培植物の起源」などについて大きな成果が上げられている。

 日本の考古学分野での花粉分析導入の歴史は新しく、1952(昭和27)年東北大学の堀正一が千葉県加茂遺跡の縄文時代前期の「泥炭層」について、約45cmの層厚を5cm間隔で試料を採取し分析研究したのが「最初」とされている。その後、1966(昭和41)年北九州大学の畑中健一による山口県汐待貝塚(縄文時代)近傍の横野の「安岡泥炭層」(縄文前期〜弥生後半)で、約1mの層厚について花粉分析が行われ4つの区分が設定された。こうした花粉分析の結果は、気候変化と堆積物の結びつきを強く示しており、安岡泥炭層で検出されたガマの花粉からは、この地域が縄文前期から弥生後半期にかけて海成から淡水域へ移行している様相を知ることが出来る分析試料であった(徳永1968)。

 1968(昭和43)年金沢大学の藤則雄は福井県東大寺領の「稲作」の存在について、遺跡の耕土から花粉分析を行った。また広島大学の中村純は、位相差顕微鏡でイネ科花粉の栽培型と野生型の区別を可能にし、電子顕微鏡で花粉表面微細構造を研究し判別の精度を向上させた。つまり、当時の考古学分野での花粉分析は、「稲作の歴史」の解明が主な目的であったことがわかる。

 1976〜82(昭和51〜57)年文部省科学研究費「古文化財」では、多くの花粉分析学者が参加して佐賀県唐津市菜畑遺跡や福岡県板付遺跡の縄文晩期から稲作の開始を示す試料をはじめ多くの分析成果が提出された。この間、徳永重元1972『花粉分析法入門』、塚田松雄1974『花粉は語る』、安田喜憲1980『環境考古学事始』、前田保夫1980『縄文の海と森』などの花粉分析を紹介する普及書が出版された意義は大きかった。

 1991〜93(平成3〜5)年文部省科学研究費・重点研究「文明と環境」が行われ、福井県三方湖では重機による湖底掘削試料を使用した花粉分析が行われた。その成果は、今までのような個人的な分析結果では得られなかった、多くの自然科学分野の共同研究による総合的な分析が要求される時代の到来を証明していた。現在、便利に利用できる花粉分析関係の解説書には、安田喜憲・三好教夫編1998『図説 日本列島植生史』、松下まり子2004『花粉分析と考古学』、三好教夫・藤木利之・木村裕子2011『日本産花粉図鑑』などがある。

2、野川遺跡の発掘調査

(1)学際的な発掘組織

 野川遺跡は三鷹・小金井・調布の3市にまたがる国際基督教大学(ICU)ゴルフコース内に位置し、1969・70年に実施された東京都建設局の野川改修事業の「緊急発掘調査」であった。組織は東京都文化課埋蔵文化財係の小林達雄の指導で、ICU考古学研究室のジョナサン・エドワード・キダー(教授)を中心に「野川遺跡調査会」(事務局:調布市教育委員会)が組織された。調査団はキダー団長以下、調査員に小山修三(ICU助手)、小田静夫(武南学園講師)、調査補助員にチャールズ・トム・キーリ(ハワイ大学大学院生)、白石浩之(國學院大學大学院生)、及川昭文(ICUコンピュータ室員)らが専従した。

 調査団はまず今まで経験したことのない旧石器時代の大規模遺跡を、どう発掘調査を行い完全に記録化するかという課題を検討した。まず多数出土するであろう「石器・剥片、礫」などを迅速に取り上げる方法で、最新式のトランシットとレベルで地点を測定し、玉川学園大学の浅川利一考案の透明なタキロン板を使用し、礫群・配石の迅速な図面化が可能になった。そして日本の旧石器遺跡では実施されたことは無かった、石器・剥片、礫など出土遺物の「全点ドット」化を成功させた。さらに記録された膨大な遺構・遺物のデータは、小山修三と及川昭文によって「ICU計算センター」で考古学分野では初めて「コンピュータ入力」が行われた。その後、国際基督教大学構内遺跡第15地点の調査報告を人類学雑誌80-1(1972)に投稿した際、考古学論文では初の「コンピュータ図化」による遺物分布図を掲載し、将来の考古学分野への応用の可能性を提示した。

 また野川遺跡の発掘は、多くの自然科学者が参画した学際的な遺跡調査であり、特に遺跡包含層の「関東ローム」の分析には、関東第四紀研究会で活躍し武蔵野台地の関東ローム研究を推進していた東京都立神代高校の羽鳥謙三が担当した。また関東花粉研究会で関東ロームの花粉分析手法を研究していた東京都立府中高校の田尻貞治は、包含層の立川ロームから花粉・胞子化石の摘出作業を行った。そして旧石器に多用された黒曜石の年代と産地推定は、東京大学の鈴木正男が原子炉を使用したフィション・トラック法で分析し、大型炭化物の樹種同定は千葉大学の亘理俊次か担当した。

(2)遺跡の古環境復元に向けて

 まず調査団が重要視したのは、遺跡周辺の「古環境」の復元であった。まずローム中に多数確認できる大型炭化物について亘理俊次が樹種同定を行ったが、遺跡周辺の森林環境を推定するには試料数が少なかった。ちなみに第2黒色帯からアカシデ、イヌシデ、第IV-4文化層からオニグルミ、コナラ、カシ、第IV-2文化層からクロウメモドキが検出された(亘理1971)。

 それを補完するデータとして、諸外国ではその有効性が実証されている「花粉分析」を検討することになった。一般的に花粉分析は、花粉・胞子化石含有量の多い低湿地土壌や泥炭層の試料が用いられ、台地上の乾燥した「ローム」試料を対象にした花粉分析例は皆無であった。しかし遺跡と関係ない場所での分析結果は、当時の集落周辺の植生なのか疑問であったことより、日本で初めて遺物包含層であった「関東ローム」から花粉・胞子化石の検出を試みることになったのである(野川遺跡調査会1971・1972、小林・小田・羽鳥・鈴木1971、小田2009)。

3、立川ロームから花粉・胞子を検出

(1)関東ロームの花粉分析の試み

 関東ロームから花粉分析を行うという無謀とも考えられた方針に、団長のJ・E・キダーは野川遺跡縄文早期「炉穴」の古地磁気年代測定をお願いしていた東京大学の渡邊直經に相談したところ、懇意の日本肥糧(株)花粉分析室長の徳永重元を紹介してくださった。徳永は通商産業省工業技術院地質調査所で日本の花粉分析を推進し、筑波への移転に伴って退官し民間会社で初めて花粉分析を本格的に開始した先駆者であった。徳永重元は早速に「関東花粉研究会」の仲間で、関東ロームから花粉・胞子化石を摘出する方法論をテーマに、東京学芸大学の川崎次男の指導下で研究をしていた東京都立府中高校の田尻貞治と共に発掘現場を訪れた。

 現地での指導では、ローム中にも少ないが花粉・胞子化石は含まれており、どうして今までロームを対象にして分析を行わなかったというと「分析技術」が無かったからだと教えて頂いた。田尻貞治は野川遺跡が立地する立川段丘面に約5mの厚さで堆積している「立川ローム」を前にして、1970年度の日本学術振興会科学研究費奨励研究(B)「花粉分析学の基礎研究」の一環として、この武蔵野台地の「関東ローム標準地域」での分析は、これからの研究の基礎的資料になることを期待し意欲を示した。

 田尻貞治の経験では一般的に花粉・胞子化石の摘出量は、泥炭層試料では1gから5,000個体、泥土では1gから100〜500個体、ローム層では1gから4個体以下になるという。したがって、分析に用いる試料を増やすことで、検出個体数を増量する手法を取ることになった。まず野川遺跡で確認された自然層準に沿って、表土から段丘基盤の立川礫層まで層位的に14のブロック試料を採取した。しかし、分析結果は予想した通り試料を増量することで検出量は増えたが、植生を復元するに値するデータとしては満足できる状況ではなかった。田尻貞治は将来の希望として、摘出技術の向上や採取地点を増やすなどで、正確な遺跡周辺の「古環境」復元が可能になることを約束した(田尻1970・1971、野川遺跡調査会1971)。

 ここで田尻貞治のローム分析で、注目されるデータが得られたことを述べておきたい。それは武蔵野台地と相模野台地との「立川・武蔵野ロームの境界線」の問題に役立つ資料であった。当時、相模野台地の遺跡では、「武蔵野ローム」にまで旧石器文化が確認されていた。しかし野川流域の発掘成果では、立川ローム層中にしか旧石器文化は確認されなかった。この結果について田尻貞治は、立川ローム層中にしか確認されない針状の「立川スパイク」という微化石があるので、相模野台地のローム層の分析を行えば「立川ローム層準」の位置が判明するのではとのご助言であった。その後、この立川・武蔵野ローム境界線については、立川スパイクの検出を待たずに、石器群の対比、黒曜石の水和層などから相模野台地の旧石器文化は、すべて「立川ローム期の所産」であることが判明している(小林・小田・羽鳥・鈴木1971、小田2009)。

(2)花粉分析法の進歩で可能に

 日本の花粉分析技術の歴史において、1970年になると国立の研究所や大学研究室で花粉分析の摘出技術が進歩し、花粉・胞子化石量の少ないローム中からでも検出が可能な時代を迎えた。こうした時期に野川遺跡で「旧石器遺跡包含層」(関東ローム)の花粉分析が行われたことは、日本の花粉分析学にとっても幸運であったと言えよう。それと、これまでの自然科学分析は大学の研究室に依頼することが多かったが、行政調査では分析費用の算出や報告期間の制限などから、専門の「分析会社」の出現が要望されていたのである。こうした緊急調査の現状に対応して、1972(昭和47)年日本肥糧(株)分析研究室で花粉分析が本格的に開始された。そして1978(昭和53)年にはパリノ・サーヴェイ(株)研究所として独立し、花粉分析を専門とする「民間会社」が日本に誕生することになる。所長の徳永重元と考古学者の橋本真紀夫らは「緊急発掘調査」にいち早く協力すると共に、武蔵野台地の「古植生」復元を研究テーマとして本格的に取り組むことになった。

 遺跡としては、東京都教育委員会が主導的に「調査会」を組織した小金井市中山谷遺跡(1974年)、同・西之台遺跡B地点(1973・74年)、同・前原遺跡(1975年)、同・新橋遺跡(1976年)、同・はけうえ遺跡(1980年)、そして小平市鈴木遺跡(1974〜80年)、杉並区高井戸東遺跡(1976・77年)などで実施された。その成果として、武蔵野台地に堆積する「武蔵野・立川ローム期」(約12万〜1万4,000年前)の古環境が解明され、立川ローム期(約4万〜1万4,000年前)に活躍した「武蔵野の旧石器人」たちの生活活動がより正確に語れる資料が蓄積されたのであった(徳永・橋本1983、徳永1984、小田1997,2007)。

4、武蔵野台地の古植生が復元される

(1)野川上流域の古植生復元

 1975(昭和50)年国際基督教大学(ICU)に「考古学研究センター」(センター長:ジョナサン・エドワード・キダー、副センター長小山修三)が開設され、野川上流域の中山谷遺跡(徳永1975)、前原遺跡(徳永1976)、新橋遺跡(徳永1977)、はけうえ遺跡(徳永・橋本1983、辻1983)の発掘調査に参画し、徳永重元、橋本真紀夫らと「関東ローム」の花粉分析が行なわれた。その結果、武蔵野台地の「武蔵野・立川ローム期」(約12万〜1万4,000年前)の「古植生」がほぼ復元された。なお、この困難なロームの分析作業には、ICU理化学教室のローリガー・ディビッド・A、庄司太郎、堀内明子、千浦博、ICU考古学研究センターの千浦美智子、大阪市立大学の粉川昭平、辻誠一郎、東京大学の小池裕子ら自然科学者の絶大な協力があったことを明示しておきたい。

 武蔵野台地の花粉帯は、主に「はけうえ遺跡」の分析結果から大きく第I帯〜第VI帯までの6つの「花粉帯」に分けられた。以下に説明する。

 第I帯(武蔵野ローム第XXIV層〜XIII層): 草本、シダ類が少なくコナラ属、ケヤキ属、ニレ属、エノキ属などの広葉樹とスギ属が大半を占めている。

 第II帯(武蔵野ローム第XIII層〜立川ローム第Xc層): 第IIa亜帯(第XIII層〜第XI層)と第IIb亜帯(第XI層〜第Xc層)に細分される。第IIa亜帯は第I帯の樹木と草本の割合は変わらないが、コナラ属、ケヤキ属、スギ属の優先に特徴が窺える。下位にはムクノキ属、カエデ属、カバノキ属、ハンノキ属などが出現している。第IIb亜帯は花粉量は少ないが、スギ属とコナラ亜属が検出された。

 第III帯(立川ローム第Xa・b・c層): スギ属とコナラ亜属の高率多産に特徴があり、草木の出現は低い。景観はスギ属の優先する中にマツ属を含む森林の発達と、コナラ亜属にムクノキ属を加えた落葉広葉樹林が推定され、草地の発達はあまり伺えない。

 第IV帯(立川ローム第IX層〜第IV層下部): ハシバミ属のピークでスギ属の安定した産出、カバノキ属の出現、コナラ亜属の減少などが樹木類の傾向である。草本類ではこれまで低率産出であったヨモギ属、イネ科、シダ類が急増していく。第IVa亜帯(第IXb層〜第VIII層)と第IVb亜帯(第VIII層〜第IV層下部)に細分され、第IVa亜帯ではスギ属の優占、コナラ亜属の減少、ハシバミ属の増加が認められ、イネ科のピークがある。

 ケヤキ属、カバノキ属、ハンノキ属も少ないが混交する。下草にヨモギ属が主体を成す草地がイネ科、キク亜科、タンポポ亜科を混じえ発達していた。第IVb亜帯はヨモギ属の優占がシダ類に代わり、樹木ではハシバミ属やカバノキ属、ハンノキ属、クマシデ属などの広葉樹が増え落葉広葉樹林に発達が推定される。スギ属の生育は安定し、マツ属も含む植生が考えられる。

 第V帯(第IV層〜第III層): シダ類のピークでヨモギ属の減少、樹木類ではハシバミ属の減少、スギ属、マツ属、コナラ亜属の増加などに特徴がある。古環境としてはシダ類の優占する草地の発達、スギ属、コナラ亜属の生育が推定される。古気候的にはマツ属、コナラ亜属の増加から徐々に「温暖化」する傾向が認められる。

 この後は「第VI帯」(第II層)になり「縄文時代〜現代」(完新世)に相当し、現代の武蔵野台地と同じ暖かな気候下で常緑の広葉樹林が形成されている。

(2)東京女子大学構内の古環境調査

 2011(平成23)年杉並区教育委員会文化財係(担当:高野和弘・中島将太)の指導で「遺跡に関する自然科学的基礎調査」が、区内遺跡発掘調査団(団長:小田静夫、主任調査員:宮下数史)とパリノ・サーヴェイ(株)研究所(分析指導:橋本真紀夫・矢作健二・金井慎司)が中心になって東京女子大学構内で行われた。この調査では堆積物(黒色土、ローム土)に包含される微粒炭と植物珪酸体の分析から武蔵野台地の「立川ローム期」以降の古環境が復元された(田中・橋本2011、矢作・橋本2012)。

 立川ローム第X層以下(約4万年前以前)では、最終氷期の中でも比較的暖かい時期に相当し、台地の谷部は落葉広葉樹、台地上は針葉樹が少し混じる森林植生であった。

 第X層(約4万〜3万2,000年前)では台地上に針葉樹のトウヒ属バラモミ節とコナラ属コナラ節、そしてタケ亜科が生育するやや冷涼な疎林であった。

 第IX層(約3万2,000〜2万8,000年前)立川ローム第II黒色帯に相当し、草本類が繁茂し温暖化に伴う植物生産量の増加が、この黒色を呈する土壌成因の一つと考えられている。MIS3の亜間氷期に相当し、イネ科草本類、ネザサ節、メダケ節など暖地に生育する植物が増加し、台地上には針葉樹や落葉広葉樹が生育し草地も拡大していた。

 第VII層〜第III層(約2万8,000〜1万4,000年前)は最終氷期の後半にあたり、最終氷期最寒冷期(MIS2)と晩氷期を含んでいる。谷筋には湿地を好む広葉樹が残存していたが、台地上は針葉樹を主体にした単純な植生であった。晩氷期になると温暖化が進行し、武蔵野台地全体が針葉樹から広葉樹林に変化していった。こうした後氷期への植生の移行は、約1万4,000年前(縄文時代草創期)に起こった事象であった。

5、武蔵野台地の成果は日本旧石器研究の一つの到達点

(1)復元された武蔵野台地の古植生と旧石器文化

 1969・70(昭和44・45)年の野川遺跡の発掘調査で初めて関東ローム層中から花粉・胞子化石の検出が試みられ、その後70年代に集中的に実施された武蔵野台地の旧石器時代遺跡の発掘調査で、更新世後期(約12万〜1万4,000年前)の「古植生と旧石器文化」との関わりが「3つのゾーン」として提示された(小田1979、徳永・橋本1983)。

 ゾーン1は、約4万年前ごろの立川ロームが堆積する初期の時期で、まだ武蔵野ローム期(約12万〜4万年前)の温暖な気候や植生が継続していた。古多摩川は度々氾濫し、洪水によって台地上に河川小礫(「イモ石」と呼称)が散布していた。遺跡数も少なく集落規模も小さく、不定形な剥片石器(錐状石器、ナイフ状石器)と礫器(チョッパー)類を主要な道具としていた。立川ローム「第X層文化」と呼ばれ、この時期に初めて「人類遺跡」が日本列島に確認される。

 ゾーン2は、約3万5,000から2万8,000年前ごろになると台地も乾燥化が進み、人類生活に適した自然環境が形成され遺跡数も増加する。石刃技法によって製作されたナイフ形石器、磨製石斧(世界最古)が使用され、大規模な集落(「環状ブロック」と呼ばれる)が構築されていた。台地の低地部にはシダ類が繁茂し、台地上には数多くの針葉樹、草本類が生育していた。

 ゾーン3は、約2万8,000から1万4,000年前で、最終氷期の最寒冷期(約2万年前)を経て台地上は草地と樹木のまばらな草原景観であったが樹種は多かった。各種石器類(ナイフ形石器、彫器、錐、スクレイパー、磨石)が多用され、後半期にはポイント(投げ槍)や細石刃(組み合わせ石器)石器群が盛行した。

 この後は、現在と同じ温暖湿潤気候の後氷期(完新世)になり、「縄文時代」が開始する。

(2)武蔵野編年の確立と捏造遺跡の登場

 日本の旧石器時代研究史において、この武蔵野台地の発掘成果は一つの到達点にあった。1975(昭和50)年と1979(昭和54)年に「日本旧石器時代編年」と題する論文が、国際基督教大学考古学研究センターから英文で出版され、旧ソ連の国際会議(ノボシヴィルスクとハバロフスク)で発表された(Oda・Keally1975,1979)。内容は武蔵野台地に厚く堆積した「関東ローム層」中に包含され、生層位学的変遷で把握された「武蔵野編年」の確立であった。さらに日本の「前期旧石器時代」(芹沢長介提唱、3万年前以前の遺跡)は、武蔵野台地の発掘結果からは「存在しない」という主旨も指摘したことから、後に東北の考古学者(岡村道雄、鎌田俊昭)らの反証として、宮城県から「前・中期旧石器時代遺跡」(後に捏造遺跡と判明する)が登場することを知らされた。

 その後、1986(昭和61)年には人類学雑誌に宮城県の前期旧石器遺跡(岡村、鎌田関係)の「批判」論文(Oda・Keally1986)を掲載すると、翌年の5月には東京都の「多摩ニュータウンNo.471-B遺跡」(約5万年前)が発見され発掘調査(東京都埋蔵文化財センター)が行われたが、この前期旧石器遺跡も東京都の検証委員会(阿部祥人、小野昭)によって東北の「石器文化談話会」(藤村新一)グループによる捏造遺跡(2000年11月5日マスコミのスクープで発覚)と判明する経緯があり、日本の旧石器研究史の「負の歴史」として決して忘れてはならない出来事であった(小田2014)。

6、最古の日本列島人の環境と生活

 野川遺跡の発掘調査で初めて関東ローム層中から花粉・胞子化石の検出が試みられ、70年代に集中的に実施された武蔵野台地の旧石器時代遺跡の発掘調査で、武蔵野ローム期、立川ローム期の古植生と石器文化との関わりが「3つのゾーン」として提示された(小田1979、徳永・橋本1983)。その後、杉並区内の旧石器時代遺跡(高井戸東、堂の下、東京女子大学構内地点)の発掘調査で、ローム堆積層の詳細な区分と理化学的分析がパリノ・サーヴェイ研究所の橋本真紀夫・矢作健二らによって試みられ、地質学的成果と花粉分析結果が発表(田中・橋本2011、矢作・橋本2014)されたので、以下にその成果を述べて終わりにしたい。

(1)武蔵野ローム期(約13万〜4万年前)

 武蔵野ロームの時代は気候が温暖で多雨だったせいか度々洪水が起こり、古多摩川や小河川起源の小礫(イモ石)が台地上に散布する状況であった。武蔵野台地の植生はまだ定まっておらず、草本、シダ類は少ないがコナラ属、ケヤキ属、ニレ属、エノキ属などの広葉樹とスギ属主体の「疎林」が台地上に広がっていた。

  日本列島には、まだ武蔵野ローム層中からの確かな「遺跡」の存在は知られていない。世界の人類史では、アフリカで20万年前に出現した「新人」(ホモ・サピエンス)が7万年前ごろにアフリカを旅たち(第二次出アフリカ)、東南アジアの「スンダランド」に到達したのは6万年前ごろであった。やがて5万年前ごろになると、スンダランドから周辺地域にホモ・サピエンス集団の拡散・移動活動が開始される。そして、この集団の一部がフィリピン諸島、台湾島、琉球弧を経て「日本列島」にまで北上した、日本人の「南ルート」(新・海上の道)が検証されている。

(2)立川ローム前半期(約4万〜2万8,000年前)

 立川ロームが堆積する時代になると、洪水も少なくなり武蔵野台地は人間の生活環境として安定した状況になった。立川ローム最下底部の第X層の景観は、台地上に針葉樹のトウヒ属とコナラ属、タケ亜科が生育し、谷部と低地部にはシダ植物が繁茂するやや「冷涼な疎林」であった。その後、第IX層〜第VII層(第2黒色帯)になると、台地上には針葉樹や落葉広葉樹が生育し「草地」も拡大していった。またイネ科草本類、ネザサ節、メダケ節など暖地に生育する植物が増加し、この温暖化に伴う植物生産量の増加がローム中の「黒色帯」形成の要因になったと考えられている。

 立川ローム第X層は、上部から下部に向かって第Xa・Xb・Xc層に区分される。最下部の第Xc層(緻密でやや硬質)からは、まだ石器文化の確認はなく、第Xb層(やや黒味が強く、暗色帯的)が最古の文化層である。石器群は不定形剥片を使用した錐状石器と礫石器を保持し、台地の縁辺部に小規模な集落を構築している。次の第Xa層(明るい褐色)の石器群は、石刃技法を基盤に基部整形ナイフ形石器、台形様石器と「刃部磨製石斧」(世界最古)を保持し、台地の中央部に大規模な集落(環状ブロック)が形成されている。この日本列島に初めて確認された第X層中の「二つの旧石器文化」は、前者は東南アジアのスンダランド、後者は朝鮮半島から「海を渡って渡来」した旧石器人たちの可能性が示唆されている。その証拠の一つに、府中市武蔵台遺跡第Xa層文化(約3万2,000年前)から伊豆諸島の「神津島産黒曜石」が出土しており、本州島から約30kmも離れた離島との「外洋航行」が行われていた事実が判明している。

 第X層の上部に堆積する「立川ローム第2黒色帯」下部(第IX層)の旧石器群は、第Xa層文化からの連続した石器群様相(磨製石斧、環状ブロックなど)を示している。第2黒色帯上部(第VII層)の旧石器群になると、礫群が出現し大型石刃やナイフ形石器の発達、また良質の信州産黒曜石を多用する傾向が窺える。

(3)立川ローム後半期(約2万8,000〜1万4,000年前)

 立川ロームの後半(第VI層〜第IV層)の時期で、草地と樹木のまばらな景観が広がり樹種は豊富になった。第VI層下部には約2万6,000〜2万8,000年前に南九州で巨大噴火した「姶良丹沢火山灰」(AT)が堆積している。このATの降灰は広く列島内の自然環境を変革し、植物相、動物相(大型動物の絶滅)に大きな変化が生じている。また約2万年前は「最終氷期最寒冷期」に相当し、海面も約140〜120m低下し列島内には広く針葉樹林帯が覆っていた。武蔵野台地も現在より平均温度が7度以上低下し、標高1,000m近くの長野県野辺山高原や栃木県日光戦場ヶ原のような高原の草原が広がる景観を呈していた。

 日本列島の旧石器文化は、立川ローム前半期は列島内で均一な石器文化圏を形成していたが、この後半期になると「ナイフ形石器に地方色」(九州、瀬戸内、杉久保、茂呂型)が誕生し、初めて「東北日本、西南日本文化圏」が誕生する。これ以後、この東西両文化圏様相は、次の「縄文時代」にまで継続されている。関東地方はこの両文化圏が交差している地域で、南半部に位置する武蔵野台地は「西南日本文化圏」の影響が多く認められる。石刃技法による各種ナイフ形石器、彫器、錐、スクレイパー、尖頭器などが発達し、小河川単位に多くの旧石器人集団の遊動生活が認められ、各種の専業集落(石器製作、狩猟、鉱山遺跡)も形成されている。日本列島で旧石器遺跡が最も多く確認され、石器組成も充実し繁栄した時期でもある。

(4)更新世から完新世へ(約1万4,000年前以降)

 立川ロームの最上部(第III層)は「ソフトローム」とも呼ばれ、それまで硬質(ハードロームと呼称される)であった土質が軟質化している部分である。この更新世が終焉を迎える頃の日本列島は、針葉樹、落葉広葉樹の混交林や単独樹木の林も存在し、シダ植物も多く繁茂していた。その後、更新世(氷河時代)の終末を迎え「完新世」(後氷期)に突入する約1万500年前ごろになると、海面も上昇し森林の形成が顕著に認められ、「縄文時代」を経て現在と同じ「温帯モンスーン気候」になる。

 日本列島の旧石器時代の終末(第III層)は、それまで盛行していた「ナイフ形石器文化」に代わって、北海道と西日本地域に周辺大陸から新しく「細石刃文化」が渡来する。この文化もナイフ形石器と同様に、東北日本(湧別技法)と西南日本(矢出川・休場技法)文化圏を形成していた。やがて西南日本の細石刃文化の後半期(西海技法)に「土器」(無紋平底土器)が伴い、「縄文時代」に突入していく過程が読み取ることができる。

謝辞

 最後に、本稿を草するにあたり多くの先学諸兄、諸先生方にお世話になりました。以下にお名前を明示し、心から御礼を申し上げます。なお、諸先生、諸氏の敬称を省略したことをお詫び致します。

 徳永重元、橋本真紀夫、金井慎司、新里 康、宮下数史、戸田哲也、和田 哲、河合英夫、東京都教育委員会、杉並区教育委員会、調布市教育委員会、三鷹市教育委員会、小金井市教育委員会、国際基督教大学博物館湯浅八郎記念館、パリノ・サーヴェイ(株)研究所(順不同)。

引用・参考文献


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