■ 小田静夫2015『日本情報考古学会 講演論文集(第35回大会)』Vol.15、pp116-120、日本情報考古学会10月3日発行。
今年5月の日本考古学協会総会で、「日本列島における現生人類(Homo sapiens)出現研究の最前線」と題するセッションがあり、最新の人類学、考古学分野の成果と現生人類のアジアへの拡散、年代、行動などが紹介された。それによると日本列島への人類の渡来時期は、周辺大陸の「現生人類」の拡散年代を検証すると、やや新しい約4万年前以降の可能性が指摘された(海部ほか2015)。
日本の旧石器研究史では、過去に「原人・旧人」段階遺跡の探索があったが、石器とされた資料は礫層中の「自然破砕礫」、また化石人骨は新しい「新人」(ホモ・サピエンス)段階の資料であった。ところが1970年代後半になり、宮城県に「確かな石器」からなる「前期旧石器遺跡」が登場し、文化庁と国立の研究所、博物館、大学の考古学者らの支持を受け、1990年代には70万年前の「原人」段階の遺跡が出現した。さらに文化庁主催の「新発見考古速報展」で定説化され、教科書にまで掲載されるに至った。しかし2000年11月5日マスコミのスクープで「捏造事件」として発覚、2003年日本考古学協会の検証で、これら前・中期旧石器遺跡(約180箇所)は「すべて捏造遺跡」と判定され消滅した。
一方、20年以上に亘るこの「負の歴史」とは別に、1970年代に自然科学的手法を駆使した学際的な発掘調査が「東京・武蔵野台地」の旧石器遺跡で地道に続けられていた。その成果からは、日本列島には約3万5,000年前より古い人類遺跡は確認されないという事実であったが、日本の考古学界や大学の考古学研究者らは認めることは無かった。
本講演では、東京・武蔵野台地の最新の研究成果を紹介し、日本列島に初めて渡来した「ホモ・サピエンス」たちの源郷を探ってみることにしたい。
日本考古学の初期研究史は、欧米の人類学・考古学を学ぶとともに実践した日本の研究者たちの歴史がある。旧石器文化についても、ヨーロッパと同様な遺跡や遺物を求めて列島各地で探索が行われた。その方法は、段丘礫層中の石器らしい資料の摘出や、洞穴遺跡などからの化石人骨の検出であった。しかし前者は礫層中の自然破砕礫(偽石器)、後者は時期不明の二次的な資料であった。
戦後「無遺物層」と考えられていた火山灰層(関東ローム)中から「旧石器遺跡」が確認されると、全国各地で同様な堆積物中から旧石器遺跡が発見された。また旧石器文化の存在が確定すると、各地で3万年前以前の「最古の遺跡」の探索が行われたが、いずれも礫層中の「自然破砕礫」(偽石器)や時期不明の二次堆積層中の石器類であった。
一方、1960年代後半から開発に伴う緊急調査が頻発すると、南関東地方の相模野、武蔵野台地で大規模調査が開始され、神奈川県月見野遺跡群、東京都野川遺跡の発掘調査は新しい日本旧石器時代研究の出発点となり、現在はその研究路線の延長線上に位置している。
月見野遺跡群と野川遺跡の大規模緊急発掘調査は、日本の旧石器時代遺跡研究史にとって記念すべきもので、今まで型式学的知見によって編年されていた旧石器群を、より細かな層準の識別の中に「生層位学」的知見で変遷を捉えることに成功した。
この70年代に行われた東京・武蔵野台地の大規模緊急調査は、考古学と自然科学分野の研究者が現地で共同して学際的研究を行ったことに特徴がある。その結果、各遺跡内の理化学的分析から出発して、周辺遺跡相互の関連性、さらに同じ水系、同じ台地という一流域史・地域史の復原が可能になっただけではなく、広く日本列島を生活舞台にした先史時代人の生活様式・古環境・その動態などに言及できる多くのデータが蓄積された。
野川遺跡の立川ローム第VI層中に介在した軽石(パミス)は、1971年に都立大学の町田洋らによって「丹沢火山灰」と呼ばれていたが、1976年群馬大学の新井房夫と共に起源地を追跡し、鹿児島湾奥の姶良カルデラから噴出した広域テフラであることが判明し「姶良丹沢火山灰」(AT)と命名された。年代はC-14補正年代で、現在は約2万6,000〜2万8,000年前と推定されている。
1979年東京都の小田静夫は関東地方の旧石器遺跡のAT層準を集成し、この広域火山灰を基準にした「日本旧石器時代編年」の有効性と展望を示唆した。さらに1991年には、このAT噴火が当時の旧石器人と社会に及ぼした影響について論じている。
野川遺跡で確認された10枚の旧石器文化は、大きく3つの流れの石器群としてまとめられた。古い方から第1の流れは第VII層〜第V層までのナイフ形石器を保有していない時期、第2の流れは第IV層中でナイフ形石器を特徴とする時期、第3の流れは第III層中でナイフ形石器の消失している時期である。
このナイフ形石器の有無を基準にした野川遺跡の石器群時期区分は、その後の発掘調査によって時期設定に若干の訂正があったが、日本の旧石器文化の流れを良く反映しており、この後の「全国編年」大綱の基礎を成したものであった。
立川段丘面の野川遺跡での調査以後、野川上流域で武蔵野段丘上の1971・72年国際基督教大学構内遺跡第15地点、1971年平代坂遺跡、1973・74年西之台遺跡B地点、1974年中山谷遺跡などの発掘が連続して行われた。その結果、立川段丘面では確認されなかった下層部(第IX層〜第X層)から、未知の旧石器文化が数枚確認され、野川遺跡の3つの石器群様相の解釈に訂正があった。
つまり、ナイフ形石器を保有しない「第1の流れ」に、ナイフ形石器が確認されると共に、第X層文化に錐状石器や礫器を特徴とする「先ナイフ形石器文化」とも呼べる旧石器群の存在が判明した。この石器群は現在、日本最古の旧石器文化として注目されている。
武蔵野台地の旧石器遺跡は、大きく4つの時期(フェーズ)に区分される。
第I期は第X層〜第V層に包含され、a・b・cの亜文化期に細分される。第Ia亜文化期には錐状石器、スクレブロ、礫器、第Ib亜文化期には石刃と斧形石器(刃部磨製石斧)、第Ic亜文化期には優美なナイフ形石器が特徴的に伴っている。
第II期は第V上層〜第III層の一部に包含され、a・bの亜文化期に細分される。第IIa亜文化期には、横長のナイフ形石器、台形石器、エンドスクレイパー、第IIb亜文化期には石刃技法に基づく多様な形態のナイフ形石器、後半にポイントが出現している。
第III期は第III層に包含され、細石刃、細石刃核を中心にした時期である。
第IV期は第III層上部に包含され、大型尖頭器、礫器に特徴があり、次の縄文時代草創期に連続する石器組成を示している。
この武蔵野台地で確認された4つのフェーズは「武蔵野編年」と呼ばれ、日本各地の旧石器群様相を良く反映し、その後の「全国編年」の基礎になったことは良く知られている。
現在まで武蔵野台地の考古学遺跡約20箇所から、約100点以上のC-14年代値が得られている。それによると第III層は約13,000〜18,000年前、第IV層は約18,000〜23,000年前、第V層は約23,000〜24,000年前、第VI層は約24,000〜29,000年前、第VII層は約29,000〜30,000年前、第VIII層は約30,000〜31,000年前、第IX層は約31,000〜32,000年前、第X層は約32,000〜40,000年前と出されている。
立川ローム第X層は、立川ローム第II黒色帯下に約1m近くの層厚を示し、岩相から三枚(第Xa・Xb・Xc層)に区分できる。
立川ローム第X層の年代は、2008年高井戸東遺跡第X層文化(第Xa層)出土の大型炭化材のC-14年代測定(β線)が行われ、32,000±170BP(PAL8859-1)、31,700±160BP(PAL8859-2)と出されている。
日本列島に発見される「上部旧石器時代前半期」(EUP)の遺跡は、2015年の集計で442箇所発見され、年代的には約3万8,000〜3万5,000年前のグループと、約3万5,000〜3万3,000年前のグループに細分され、武蔵野台地の第X層中に確認される二つの旧石器群に対比すると、前者が第Ia亜文化期に、後者が第Ib亜文化期に対応する。
立川ローム第X層文化の時代は、第四紀の編年で「海洋酸素同位体ステージ3」(約6万〜3万年前)と呼ばれている。この時期は気候変化曲線では、温暖と寒冷がギザギザに繰り返され急激な気候変動が認められ、日本列島に人類が初めて登場する時期でもあった。
武蔵野台地の「古植生」は1980年日本肥糧(株)研究所の徳永重元、橋本真紀夫によって復元された。それによると、武蔵野台地が形成された約12万〜4万年前の武蔵野ローム期は、最終氷期の中でもまだ暖かい時期で、低湿地を好む落葉広葉樹が谷や台地上に生育し、針葉樹の疎林や草地が広がっていた。また温暖多雨で洪水が起こり、河川敷の小礫(イモ石)が台地上に堆積する状況でもあった。やがて約3万5,000年前の立川ローム期になると、洪水も少なくなり台地上にはタケ亜科が繁茂し、針葉樹の疎林や草木類の森林植生が定着する。武蔵野台地に「人類遺跡」が初めて確認されるのは、この立川ローム第Xb層からで、武蔵野編年では「第Ia亜文化期」に相当する。
立川ローム第X層中に確認される旧石器文化には、現在二つの石器群様相が看取される。一つは「第Ia亜文化期」(約3万5,000年前以前)、もう一つは「第Ib亜文化期」(約3万5,000〜3万年前)である。また、この二つの石器文化には発展的関係が明確に認められないことから、それぞれ別の原郷から列島内に渡島したものと推定される。おそらく前者は遠く黒潮源流地域(スンダランド)から、後者は周辺大陸側(朝鮮半島)から共に海を渡って植民したホモ・サピエンス(新人)たちであった。
第X層中部に発見され、一遺跡一か所程度の石器・剥片集中部が形成されている。チャートと砂岩を主石材として、器種には不定形剥片を使用した錐状石器と扁平な自然礫を加工した片刃礫器などが確認される。
遺構として配石と石器・剥片集中(ユニット)、炭化物集中があるが、まだ「礫群」の確認はない。この段階の遺跡は列島内でも少なく、武蔵野台地でも数箇所(西之台B地点、中山谷、鈴木遺跡など)が確認される程度である。
第X層上部から第IX層中に発見され、一遺跡に数箇所の石器・剥片集中個所が形成され、「環状ブロック群」と呼ばれる特徴的な集落形態が看取される。凝灰岩、チャート、砂岩、黒曜石など多種石材を使用し、器種には基部整形の背付き石器、台形様石器、スクレイパー、そして「磨製石斧」(世界最古)が特徴的に伴っている。技術的には石刃技法を基盤に縦長剥片とそれを使用したナイフ形石器に特徴があるが、また横長剥片を用いた台形様石器も存在している。
遺構として、配石と石器・剥片集中(ユニット)、炭化物集中が存在し、イモ石使用の「礫群」が初めて高井戸東遺跡で確認されている。
日本列島に発見されるEUP遺跡は、現在北海道を除く本州北半から沖縄本島まで確認されている。その文化内容は、遺構として環状ブロック、陥し穴、礫群、焼土、炭化物集中が認められ、石器組成として台形様石器、基部加工尖頭形石器、彫器、掻器,削器、楔形石器、錐形石器、そして「局部磨製を含む石斧」、敲石、台石である。
環状ブロックは北海道、琉球列島を除く日本列島のほぼ全域に認められ、武蔵野台地では第X層段階では確認されず、第IX層段階の特徴である。また日本のEUP期の陥し穴は、年代的に世界最古の例で罠による猟は「現生人類型行動」の証左とも言われ、武蔵野台地の第VII層段階に相当する。
また野川最上流部の武蔵台遺跡から、約3万2,000年前の第Xa文化から神津島産の黒曜石が確認されている。伊豆諸島の神津島は太平洋上の島嶼で、黒曜石の原石を採取するには本州中央部の伊豆半島から約30km以上の「黒潮激流」の海上航行の必要があった。こうした遠隔地良質石材の計画的調達、移動居住など、現世人類の日本列島への植民がEUP期段階であったことを示す証左(現代型行動)と考えられている。