『多摩考古』45, 2015.5(pp1−13)所収

黒曜石分析から解明された新・海上の道
−列島最古の旧石器文化を探るC−

小田静夫

はじめに

 日本民俗学の父と讃えられる柳田國男氏は、最晩年の昭和36(1961)年に著した『海上の道』の巻頭論文「海上の道」(昭和27年雑誌「心」に3回連載)の中で、「原日本人の起源について、縄文期と弥生式期の境目の頃に、米の種実と稲作技術を持った南方の人々が黒潮を北上して本土に住みついたと考えられる」という仮説を提示した。このユニークな日本文化論は、海のロマンと結びつき日本人の心を魅了したことは良く知られている。そして、この「海上の道」の発想は、学生時代(明治31年夏、東京帝國大學2年生、23歳、松岡姓)に1ヵ月半ほど訪れた三河の伊良湖崎の砂浜で、漂着していた椰子の実を三度ばかり見たことの「思い出」にあると評されている。またこの話は、柳田氏から聞いた友人の島崎藤村が、明治34年8月の詩集に「椰子の実」として発表し、昭和11年7月に国民歌謡として作曲されたエピソードも有名である。柳田氏はこのひと夏の体験を、昭和38年8月8日(87歳)に亡くなる前年まであたためて、柳田民俗学の総決算、遺書とまで言われる「単行本」に結実させたのであった(中村哲2010『新版 柳田国男の思想』、小田2002)。

 この柳田國男氏が想定した「原日本人南方渡来説」は、約2,000年前頃の弥生時代のことで、この頃の琉球列島と本州島には南海産貝製腕輪の交易活動(貝の道)と弥生文化(弥生土器、青銅・ガラス製品、米、ブタ)の搬入関係が知られているが、この「道の島」を北上した南方系先史時代人の確かな痕跡(遺跡)は確認されていない(小田2007b)。一方、近年の分子人類学の進展で、縄文時代人の祖先は東南アジアの「スンダランド」から北上したホモ・サピエンス(新人)たちが、琉球列島や日本本土に移住・拡散した「南方起源」(DNA分析)の人々であることが判明している(溝口優司2011『アフリカで誕生した人類が日本人になるまで』)。

 筆者は70年代に武蔵野台地の発掘調査で出土した黒曜石石器を、東京大学の鈴木正男氏に依頼して理化学的分析を行った(鈴木1971ab,1977)。その結果、太平洋上の伊豆諸島「神津島」から海を渡って本州島に多数の黒曜石が搬入されていた事実が判明し、日本の先史時代人が世界最強級の「黒潮」激流を乗り越えるほどの「海上航行」技術を持っていたことが証明された(小田1981)。その理化学的証左に裏付けられて、筆者はかつて柳田國男氏が「椰子の実」から想定した原日本人南方渡来仮説になぞって、「黒曜石」の分析結果から「新・海上の道」とも呼称できる最古の日本列島人の南方渡来説を追跡してきた経緯がある(小田2000,2002)。

 考古学において黒曜石の原産地を確定し、その交易ルートや交易圏の実態を探り、その時間的推移を知ることは重要である。その意義は、@人の交流を促進した黒曜石の交易、A初源的な広域にわたる交易の形態、B黒曜石交易の時間的推移、C旧石器時代から縄文時代への移行期に、黒曜石交易に見られる変化、D産地による黒曜石の石質、石器の型式、交易ルートの相互関係、E広域にわたる交易とコミュニケーション、石器製作技術との関係などが提示されている(鈴木1977)。

 日本の黒曜石研究史は、1969・70年に大規模調査が行われた東京・野川遺跡と、その後の武蔵野台地における旧石器遺跡の発掘調査によって「理化学的分析」が多数行われ、これまでの研究方向を大きく転換させたことは周知の事実である(小田2007a,2009)。

 本稿では、こうした武蔵野台地における黒曜石研究成果を通して、日本の旧石器時代人が世界に先駆けて3万年以上も前から「海洋航行」を行っていた事実と、さらに日本人の源郷について「黒潮圏」の軌跡を探ってみることにしたい。

1、黒曜石とは

 日本列島は火山国であり、酸性火山の活動に伴ってマグマが高温高圧の状態で地上に噴出し、また地表近くに貫入して急冷すると「黒曜石」が生じる。定義は黒色ないし暗色の火山ガラスで、化学組成は流紋岩質、破断面は貝殻状を呈する。日本名は歌代勤ほか『地学の語源をさぐる』(1978)によれば、1878(明治11)年に東京帝國大學の和田維四郎『本邦金石略誌』によって、英語の「Obsidian」から「黒曜石」と訳されたとされる。またObsidianはラテン語のObsidianus lapisから由来し、古代ローマのプリニウスの『プリニウスの博物誌』(紀元77年完成)で、オブシウスObsius(Obsidianus)という名前の旅行者がエティオピアで発見した石(lapis)に似ているからだという(一色1994)。

 考古学者が現在使用している「黒曜石」という用語は、欧米の学問体系を受け入れた明治時代に岩石学者によって訳されたものであった。しかし1935年頃から地学分野で「黒曜岩」(岩)が岩石名になり、1982年には学術審議会によって学術用語に制定された。一方、考古学分野では明治時代(1886年頃)から「黒曜石」(石)を用いるようになったが、大正時代(1921年頃)から「黒耀石」(耀)を用いる研究者が現れ、戦後の昭和時代(1950年頃)から一般的に使用されるようになり、1965年頃から再び「黒曜石」が主流になり、「黒耀石」は一部の研究者だけが愛用する用語になったとされる。そして考古学は、その研究史の重みを認識し「黒曜石」を「黒曜岩」に改めるべきだとしている(春成2013ab)。

 黒曜石は火山ガラスで割れ口は鋭く、また加工し易い美しい石材で、他の石材(チャート、砂岩、安山岩)に比べて群を抜いて優れた「石器」に適した岩石であった。特に細かい整形を必要とする両面加工の尖頭器や特に「石鏃」、また鋭い刃部が要求されるナイフ形石器、スクレイパーなどに多用された。この事実から、黒曜石は日本の先史時代(旧石器、縄文時代)を通じて、石器製作の材料として重要な役割を果たした石材でもあった(小田1984)。

 しかし黒曜石は、どの火山でも産出するものではない。つまり酸性の火山岩−流紋岩−に伴う火山ガラスで、日本では北海道(白滝、置戸、十勝)、本州中央部(長野・和田峠、霧ヶ峰、静岡・箱根<柏峠>、東京・神津島<恩馳島>)、九州地方(佐賀・腰岳、大分・姫島)に良質の産出地が存在し、京都大学の藁科哲男・東村武信の集計で全国には80ヵ所近くの原産地が登録されている(藁科・東村1988)。したがって先史時代人はこうした利用価値の高い原石を、現地に出かけて直接に、または「交易」活動を通じて入手し利用したことが知られている(小田1982,2007a)。

2、黒曜石製石器の確認

 黒曜石で作られた石器は、他の石材(砂岩、チャート、安山岩、頁岩など)製品に比べて美しく、また遺跡で発見しやすいこともあって、早くから考古学者の間で注目されていた。その意味もあって、学史においてもその初期から黒曜石は話題になっていたのである(小田2001)。

 (1)黒曜石製の石鏃

 遺跡発見の黒曜石石器(特に石鏃)について、すでに明治時代中頃にその原産地、分析方法について言及されている。明治19(1886)年東京帝國大學の神保小虎氏は人類学会の席上で、黒曜石の産地は各地にあると思うが北海道・十勝と信州・和田峠の黒曜石であり、産地を知る方法として顕微鏡で結晶の状況を調べる必要があると述べている(人類学会報告2)。明治34(1901)年東京帝國大學の坪井正五郎氏は伊豆大島のタツノクチ(龍の口遺跡)から出土した黒曜石石器について、伊豆諸島・神津島産の黒曜石と判断し縄文時代の両島嶼間に交通があったと述べた(東洋学芸雑誌18-240)。大正13(1924)年東京帝國大學の鳥居龍蔵氏は、諏訪から半径50里の範囲に黒曜石製石鏃の分布があると述べ、信州の黒曜石が中央日本を中心に広く分布している事実を指摘した(『諏訪史』第1巻)。昭和4(1929)年人類学者の赤堀英三氏は、全国の黒曜石製石鏃の分布を調べて、北海道、中央日本、九州の三大中心地があり、北海道では十勝岳から半径60里、九州では阿蘇山から50里の円内に含まれるとした(人類学雑誌44-3)。

 (2)黒曜石産地の特定

 昭和13(1938)年東京帝國大學の渡邊仁氏は、北海道の黒曜石製石鏃の分布と原石産地を研究し、産地の推定には顕微鏡による岩石学的特徴の比較の必要性を提唱した(人類学雑誌60-1)。昭和19(1944)年自由学園の篠遠喜彦氏は、黒曜石石器に観察される結晶質晶子に着目し、東京・南澤遺跡(縄文時代中期)の石器を顕微鏡で観察し箱根系産と推定した(採集と飼育6-2)。こうした黒曜石研究史を踏まえ東京大学の八幡一郎氏は、先史時代の「黒曜石交易」について昭和31(1956)年に『人類学・先史学講座』、昭和31(1956)年に『図説日本文化史体系』に総括的な概説を発表した。

 昭和37(1962)年になると、自然科学者による黒曜石分析が行われ、岩石学者の増田和彦氏によって新潟・上野遺跡(縄文時代中期)の黒曜石が晶子形態の特徴から箱根、天城、浅間山に属する富士火山系と和田峠系の二つの産地群の可能性を推定した(新潟県津南町文化財報告4『上野遺跡』)。

3、理化学的分析の開始

 考古学者による経験的な肉眼観察や一部岩石学者による顕微鏡下による晶子形態識別法に対して、昭和44(1969)年頃から地球物理学者による本格的な黒曜石の理化学的分析が行われる時代が到来する。

 昭和53(1978)年から3ヵ年かけて実施された、文部省科学研究費特定研究「自然科学の手法による遺跡・古文化財等の研究」(代表・東京大学渡邊直經)によって、黒曜石の年代測定と産地分析が行われた。その目的は、@日本各地域の産地別黒曜石及び石器・フレーク試料の化学分析(湿式・蛍光X線・放射化分析)による主成分及び微量成分の岩石化学的検討、A上記@の分析試料について岩石学的観察(ガラス中の晶子・微晶・色調・透明度)と分類、B石器の埋積環境としての遺跡及び周辺地域の地中温度及び効果温度の推定、C黒曜石水和層厚の精密測定法の改良、D石器試料に随伴する有機質遺物のC-14年代値、焼けた黒曜石のフィッション・トラック年代値の整備と、地域別・産地別黒曜石の水和速度の決定、E上記に調査、分析結果を基に水和速度、黒曜石の化学組成、効果温度を加味した、年代測定のための標準検量線グラフの作成と、黒曜石石器の年代測定資料の整備であった(近藤・勝井・戸村・町田・鈴木・小野1980)。筆者もこの黒曜石研究プロジェクトに、野川遺跡調査以来の国際基督教大学ジョナサン・ジェームス・キダー氏、日本肥糧(株)花粉分析室長徳永重元氏(後のパリノ・サーヴェイ(株)研究所長)との繋がりで、東京大学の渡邊直經、鈴木正男両氏らの分析指導を得て参加させて頂いた。

 渡邊、鈴木氏らは昭和42(1967)年頃から、日本で初めて鉱物に含まれる天然ウランの自発核分裂によって生じるキズの飛跡を利用した理化学的分析手法である「フィッション・トラック法」(1963年に開発された)に取り組んでいた(鈴木1969,1970)。1971年筆者らは東京・野川遺跡出土の黒曜石石器と、関連した周辺遺跡の黒曜石資料について、両博士に依頼して「原産地推定」と「年代測定」を行った(鈴木1971ab)。この作業は東京大学理学部人類学教室で行われ、研究生をしていた鶴丸俊明、小野昭氏らと鈴木氏の厳しい指導の下、原子炉に入れる前の黒曜石試料の研磨工程の手ほどきを受け、「合格免許」を頂いたことが懐かしく思い出される(小田2009)。

(1)フィッション・トラック法による原産地推定

 原子核が二つに割れる原理を判別し、黒曜石内の原子核分裂片のキズ−フィッション・トラック−を観察し計算することによって、その岩石の生成年代、つまり噴出年代を測定する。そのためには、鉱物中のウラン濃度を知る必要があり、このキズ跡とウラン濃度が、どの原産地の値に近いかをあわせて調べることによって、原産地を推定する方法である。

 この分析で、信州系、箱根系、神津島系の3つの原産地が判明し、野川遺跡では第II文化層(縄文時代早期)は箱根と信州系、第III文化層(以下旧石器時代)は箱根系、第IV-1文化層は箱根、信州、神津島系、第IV-2文化層は箱根、信州系、第IV-3a文化層は箱根、信州、神津島系、第IV-3b文化層は箱根、信州、神津島系、第IV-4文化層は箱根、信州系、第V文化層は箱根、信州系、第VI文化層は箱根系であった。ここで驚くことに、約1万8,000〜2万年前の旧石器時代に、太平洋上に浮かぶ伊豆諸島・神津島の黒曜石が武蔵野台地の遺跡で使用されていた事実であった(鈴木1971ab)。

 また伊豆諸島の縄文・弥生時代遺跡から出土する黒曜石石器の分析では、すべての島嶼遺跡の黒曜石は「神津島産」を使用していたことが判明している(鶴丸・小田・一色・鈴木1973)。

(2)水和層による年代測定(図1)

 黒曜石は打ち欠いてすぐは表面に光沢があるが、遺跡から出土するものは少し鈍くくすんでいる。これは黒曜石の表面が、時間の経過と共にその表面から水を吸収し「水和層」を形成していった結果である。この原理を利用し、水和層の厚さを計測することにより、石器の製作された年代を推定する方法である。

 この分析で、野川遺跡の第II層(縄文時代早期)は8,400±1,000(OB-FT B.P.)、第III文化層(以下旧石器時代)は9,500±100(OB-FT B.P.)、第IV-1文化層(旧石器)は14,000±400(OB-FT B.P.)、第IV-2文化層(旧石器)は14,700±400(OB-FT B.P.)、第IV-3a文化層(旧石器)は15,000±400(OB-FT B.P.)、第IV-3b文化層(旧石器)は17,700(OB-FT B.P.)、第IV-4文化層(旧石器)は18,200±1,000(OB-FT B.P.)、第V文化層(旧石器)は18,500±1,450(OB-FT B.P.)、第VI文化層(旧石器)は21,700(OB-FT B.P.)であった(鈴木1971b)。

(3)フィッション・トラック法による年代測定

 フィッション・トラックが二次的な加熱(400度Cで1時間以上、500度Cで1分間以内)で消え、また新しいキズ跡を生成することを利用して、遺跡出土の焼けた黒曜石について、生成年代つまり使用年代を推定することができる。つまり遺跡で火災にあった資料、炉に混入して加熱された資料を測定することによって、黒曜石の噴出年代ではなく直接ヒトと結びついた年代(遺跡の時期)を知ることができる。

 この分析で、北海道・上似平遺跡の旧石器時代の年代が、11,200±1,000年(FT B.P.)、神奈川・五領ヶ台遺跡の縄文時代中期の年代が、4,850±340年(FT B.P.)、4,950±180年(FT B.P.)と測定されている(近藤・勝井・戸村・町田・鈴木・小野1980)。

4、交易活動の証明

 遺跡から発見される遺物の中には、地元で製作されたものとは異なる資料が発見されることがある。他の地域で製作された搬入土器、産地が限られた石材で作られた石器、装身具などの貴重な遺物(玉、腕輪、呪術具)などである。これらの遺物は、先史時代人が遊動生活の中で入手したもので、すでに保持していたものや、生活地で新しく入手したものがある。つまり、素材の原産地や製作地から遠くの消費地(集落)に運搬され使用された背景には、両者に「交易活動」が展開され、また「専業集団」の存在も示唆されている。

(1)伊豆諸島への搬入考古資料

 太平洋上に浮かぶ伊豆諸島と本州島との関係を示す考古資料の理化学的研究は、昭和52(1977)年京都大学の清水芳裕氏(考古学と自然科学10)、昭和53(1978)年早稲田大学の古城泰氏(くろしお3)、昭和53(1980)年武蔵野美術大学の今村啓爾氏(『伊豆七島の縄文文化』)らによって行われた。この研究は伊豆諸島に多数発見される「縄文土器」が、島嶼内で製作または搬入されたものなのかを顕微鏡による岩石学的胎土分析によって解明しようとしたものであった。その結果、ほとんどの縄文土器の胎土は島内産の粘土・鉱物ではないことが判明し、島外(本州島)からの「搬入品」であることが確かめられた。その後、昭和59(1984)年東京都埋蔵文化財センターの上條朝宏氏は、昭和54年から3か年東京都が実施した「島嶼地域遺跡分布調査団」(団長・國學院大學永峯光一)の伊豆諸島全島の34資料について同様の岩石学的胎土分析を行い、その結果と考古学的土器型式論によって各島嶼の縄文土器の時期的比較とその源卿(本州島)を総括している(上條1984)。

 一方、昭和11(1936)年東京帝國大學の鳥居龍蔵氏は、伊豆大島・タツノクチ(龍の口遺跡、縄文中期)から発見(1901・1902年)したイノシシ、シカについて、当時伊豆大島には生息していないことから、伊豆半島で狩猟して島に持ち帰ったとした(科学知識16-5)。昭和59(1984)年早稲田大学の金子浩昌氏は、伊豆諸島の自然遺物を検証し、シカは釣り針製作用の角の搬入、イノシシは幼獣から成獣まで出土しイヌの存在から、島でイノシシを狩猟した可能性を指摘した。また「貝の道」と呼ばれる貝製腕輪の交易活動の一つの証拠としての「オオツタノハガイ」が、三宅島・ココマノコシ遺跡(弥生中期)出土の大型貝殻から推察して、南西諸島(沖縄・奄美諸島)からの伝播品(三島格1977『貝をめぐる考古学』)ではない、伊豆諸島ルートの交易活動が存在した可能性を指摘している(金子1984)。

(2)神津島の黒曜石産地(図2)

 東京港より南へ約176km、伊豆半島の下田港から南南東約60kmの太平洋上に、伊豆諸島の一つである火山島の「神津島」がある。この島では昔から黒く輝き、割ると鋭い刃物のようになるガラス状の岩石が多出し、この不思議な石は地元の子供たちの間では「紙切り石」と呼ばれ遊びで使用されていたという(山下彦七郎1969『神津島古跡の解明』)。現在でも海岸の露頭、砂浜や海底に、この原石(黒曜石)の堆積状況が観察され、なかでも五色浜と呼ばれる海岸(長浜)には、黒、黄、白、青、赤といった色調の流紋岩(「五色石」と呼ばれている)に混じって、緻密で黒色の転石として黒曜石が多数散布している様は大変美しい光景である。島内で特に黒曜石が集中して確認できる地点が、恩馳島、長浜、沢尻湾、砂糠崎の4ヵ所が知られている(小田1981)。

 東京大学の鈴木正男氏によって黒曜石の理化学的分析が初めて実施された頃(鈴木1971ab)は、神津島の砂糠崎と長浜産(白色粒子が多く粗質)の原石を比較試料にしていたこともあり、遺跡出土の黒曜石石器資料(やや透明で良質)との間に肉眼的な質の違いが懸念されていた(小田1981)。その後、昭和54(1979)年から実施された「東京都島嶼地域遺跡分布調査団」(団長・國學院大學永峯光一)で得られた資料と原産地試料を、京都大学原子炉実験所の藁科哲男・東村武信氏らが「蛍光X線分析法」で測定した結果、神津島産が二つの原石群、神津島第1群<恩馳島・長浜・沢尻湾>と第2群<砂糠崎・長浜・沢尻湾>)に細分できることが判明した(藁科・東村1984)。その結果、今まで謎であった遺跡出土の良質の石器類が、神津島第1群(特に恩馳島産)に一致することが確かになった(小田1997,2000)。

(3)神津島産黒曜石の交易(図3)

 日本列島中央部の太平洋上に浮かぶ伊豆諸島の神津島と本州島との間に、石器の材料としての「黒曜石」を目的にした旧石器人の渡島活動が判明した(鈴木1971a)。約1万8,000年前の最終氷期最寒冷期でも、神津島と本州島の間には海深200m、幅30km以上の「海峡」が存在し、この島の黒曜石を入手するには「渡航具」(筏舟、丸木舟)を利用した「海上航行」が必要であった。石器を主道具とする旧石器時代にあっては、黒曜石を多量に産出する神津島は「宝の島」であったに相違ない(小田1996)。

 神津島を最初に発見した旧石器人は、約4万年前頃に「スンダランド海岸部」を船出した「海洋航海民」であった。彼らは「黒潮海流」を利用してフィリピン諸島、台湾島を経て琉球列島に上陸(約2万6,000年前<宮古島・ピンザアブ洞人>、約3万2,000年前<沖縄本島・山下町第1洞人>、約1万8,000年前<沖縄本島・港川人>)し、その後南九州、四国、本州の太平洋沿岸地域を遊動・拡散していった。その移住過程で本州島中央部の太平洋上で黒曜石の一大産地であった伊豆諸島の「神津島」を発見し、いち早くその有効性を認め利用したのであろう(小田2005)。近年、本州中央部山岳地の長野県矢出川遺跡の細石刃文化(約1万4,000年前)の黒曜石製石器に、200km以上も離れた太平洋上の神津島産(恩馳島)が多数確認され注目されている(堤隆2011『旧石器時代』列島の考古学)。

 約1万2,000年前の縄文時代になっても、神津島産黒曜石は伊豆諸島の全島嶼遺跡や本州島に運ばれ、約5,000年前の縄文中期には関東・中部地方の太平洋岸を中心に、伊勢湾や霞ケ浦沿岸、さらに日本海側の能登半島へと本州中央部約200km範囲に分布した。このような遠隔地にまで運ばれた背景には、黒曜石を専業にした集団の存在が考えられる。そうした「専業集団」の基地的遺跡が、神津島が望見できる伊豆半島東岸部の静岡県段間遺跡(縄文中期)に確認され、ここからは約500kg以上の黒曜石石核・剥片と約19kgの大型原石が出土している(金山1989)。

5、海を渡った旧石器人

 野川遺跡の理化学的な黒曜石分析で、武蔵野台地の約2万年前の「旧石器時代」に、太平洋上の伊豆諸島・神津島産黒曜石を利用していたことが判明した(鈴木1971ab)。昭和51(1976)年国際基督教大学のジョナサン・ジェームス・キダー氏が、フランスのニースで行われた第9回国際先史原史学会議でこの成果を発表した。キダー氏とこの会議に出席していた岡山大学の小野昭氏の話では、ヨーロッパから遠く離れたアジア大陸東端の日本列島で、世界に先駆けて「海洋交通」があったことに世界の先史学者たちは驚き信じられない状況であったと筆者に語ったことがある。ちなみに世界最古の海洋航行は、地中海のエーゲ海周辺の約1万2,000〜1万年前の「中石器時代」の交易活動が定説になっていたからであった(ハドソン1988)。

 (1)旧石器時代の渡海の証拠(図4)

 鈴木正男氏が分析した当初、筆者らも武蔵野台地の旧石器時代人が太平洋上の神津島にわざわざ「黒潮激流」を乗り越えて出かけていかなくても、本州島に良質の信州産や箱根産という豊富な黒曜石原石を縄文時代人は多用していたので、いずれ近郊の箱根あたりに神津島産と類似の理化学的分析値を示す黒曜石産地が確認されるのではと推察していた(小田1981)。しかし、その後、別の理化学的分析(蛍光X線分析法)結果でも、神津島産黒曜石が本土の旧石器・縄文時代遺跡から多数確認された(藁科・東村1984)。最早、日本の先史時代人は、数万年前から世界に先駆けて太平洋の大海原を自由に「海洋航行」していた事実が確実になった。

 現在、武蔵野台地の旧石器時代遺跡から確認された神津島産黒曜石使用の最古の例は、東京都府中市武蔵台遺跡の立川ローム第Xa文化層(約3万2,000年前)の資料である。分析試料は蛍光X線分析法によって合計11点測定され、1点が神津島、7点が和田峠、1点が麦草峠、2点が不明であった(藁科・東村1988)。また約2kgという大型石核が東京都小金井市荒牧遺跡の第IV下層文化(約2万年前)から出土し、お茶の水女子大学の松浦秀治氏による蛍光X線分析法によって神津島産(恩馳島)と同定されている(小田1997,2000)。共に、多摩川を経て東京湾に注ぐ「野川流域」の遺跡であった。

 (2)人類最古の航海

 最新の分子人類学の成果によると、約7万年前頃ホモ・サピエンス(新人)たちがアフリカを出てユーラシア大陸に拡散した(第2の出アフリカ)。その後、彼ら新人たちは、約6万年前頃には東南アジアの「スンダランド」と呼ばれる広大な大陸に定着した。やがて海岸や島嶼部に生活した集団は、筏舟(竹材、丸太材、動物の浮き袋)や丸木舟などの渡航具を開発して、河川や沿岸海域さらに外洋にまで出漁(貝塚遺跡、骨角製釣針)し、豊かな海洋資源を主生業にした「海洋漁撈民」に成長していた。

 約5万年前頃、このスンダランドからウォーレス線を越えて、ニューギニアとオーストラリアが陸地で繋がっていた「サフルランド」と呼ばれる大陸に移住した新人集団がいた。京都大学の片山一道氏、国立民族学博物館の小山修三氏、同志社大学の後藤明氏らによると、この移住行為は単なる1グループの偶発的な拡散ではなく、意図的に複数回行われ、その移住人数は1,000人規模の多数に及んだという。彼ら新人たちはその後、この新天地に定住しオーストラリア先住民(アボリジニ)、ニユーギニア高地人(パプア人)の祖先になった。スンダランドからサフルランドへは、海面が現在より120m以上低下した最終氷期最寒冷期(約1万8,000年前)でも「ウォーレシア」と呼ばれる多島海を最大約80〜100km航行する必要があった(大塚柳太郎編1995『モンゴロイドの地球2 南太平洋との出会い』、片山一道2002『海のモンゴロイド』、後藤明2003『海を渡ったモンゴロイド』、海部陽介2005『人類がたどってきた道』、小田2005ほか)。

 (3)南方ルートの検証(図5)

 ここで日本列島に渡来した最初のホモ・サピエンスたちのルートを探ってみることにしたい。1995・96年國學院大学の加藤晋平氏は、台湾島を含めた東南アジア地域の剥片石器群を「不定形剥片石器文化」と呼称し、古期と新期に区分した(國學院雑誌96-7、地学雑誌105-3、月刊地球206)。古期は更新世にスンダランド海岸部から、サフルランドと黒潮海流を北上して琉球列島を北上して奄美諸島まで到達した旧石器人集団である。新期は完新世になって、東南アジア大陸沿岸や島嶼部に分布していた土器を持たず中石器的な生活段階の海洋航海民の文化と考えられている。共に「南方型旧石器文化」とも呼べるもので、黒潮海流を北上した「黒潮圏」からの渡来ルートの軌跡であった(小田2007b)。

 この「新・海上の道」とも呼称できる南方ルートの旧石器人集団は、@ウォーレシアの道、A琉球列島の道、B黒曜石の道の三つの海洋航行行動が知られ、最古の渡来は@の段階の旧石器人たちで、それは日本の旧石器時代編年で、「先ナイフ形石器文化」(約3万5,000年前頃)に相当する(小野昭・春成秀爾・小田静夫編1992『図解・日本の人類遺跡』)。彼らはスンダランド海岸部で世界に先駆けて「海洋適応」を獲得し、サフルランドへ拡散するとともに世界最強の「黒潮海域」を北上し、琉球列島を経由して本州島の太平洋沿岸部を遊動した「海洋航海民」であった。そして伊豆諸島の神津島で石器製作の優れた原材である「黒曜石」の大原産地を発見し、この島を海に浮かぶ神聖な「宝の島」として、旧石器・縄文・弥生時代に亘って大切に利用してきた歴史を知ることができる(小田2002,2014a)。

おわりに

 日本の旧石器研究史において、2000年11月5日(日)の「旧石器遺跡捏造事件」の発覚は、70万年前の原人段階にまで遡った日本列島人の渡来時期が大きく揺らぐことになった。つまり、筆者らが30数年前に武蔵野台地の旧石器遺跡の調査成果で、日本列島最古の遺跡は「約3万年前の立川ローム第X層文化」であると指摘した状況に戻ってしまったのである(小田2014ab)。

 武蔵野台地の立川ローム第X層文化には、現在2つの旧石器群様相が看取され、古い方から「先ナイフ形石器文化」(約3万5,000年前以前)は東南アジアの不定形剥片石器文化に、次の「ナイフ形石器文化I」(約3万5,000〜2万9,000年前)は東北アジアの石刃石器文化に酷似している。彼らが日本列島に渡来するには、当時も大陸とは陸続きではなかったことから、渡航具(筏舟、丸木舟)を使用し「海洋航行」する必要があった。

 こうした旧石器時代人の渡海の証拠が、黒曜石の原産地試料と消費地(遺跡)資料の理化学的分析で解明されたのである。つまり、太平洋上の黒曜石の「宝の島」(神津島)を旧石器時代人が発見し、その交易活動から本州島との活発な航海活動が証明された。それもアジア人の故郷「スンダランド」から約4万年前頃に、黒潮海域を北上した新人集団の「新・海上の道」とも呼称できる「世界最古の海上航行」(約3万5,000年前)の事実であった。

謝辞

 最後に、本稿を草するにあたり多くの先学諸兄、諸先生方のお世話になりました。以下にお名前を明示し、心から御礼を申しあげます。

 鈴木正男、小野 昭、J・E・Kidder、C・T・Keally、松浦秀治、徳永重元、橋本真紀夫、新里 康、戸田哲也、藁科哲男、春成秀爾、椚 國男、和田 哲、河合英夫、東京都教育委員会、神津島村教育委員会、東京大学理学部人類学教室、東京大学総合研究博物館、国立科学博物館人類研究部、パリノ・サーヴェイ(株)研究所(順不同)。

 引用・参考文献


■HOME