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日本考古学協会第9回公開講座、パネルディスカッション・レジウメ:
ルネ小平・小平市文化会館(2015年3月7日)
昭和44(1969)年神奈川県月見野遺跡群の大規模緊急発掘調査(明治大学・戸沢充則)が行われる。
昭和45(1970)年調布・三鷹・小金井市境の野川遺跡の大規模緊急発掘調査(国際基督教大学・ジョナサン・エドワード・キダー)が行われる。
その後、小金井市中山谷遺跡(1974)、西之台B地点遺跡(1974・75)、小平市鈴木遺跡(1974〜80)、杉並区高井戸東遺跡(1976・77)、小金井市はけうえ遺跡(1977・78)で、日本最古級(第X層文化、約3万年前)の遺跡の存在が確認される。
昭和50(1975)年環太平洋先史学会議(ソ連ノヴォシビルスク)、昭和54(1979)年太平洋科学者会議(ソ連ハバロフスク)で「武蔵野編年」を発表する。
昭和36(1961)年練馬区中村南で黒曜石、チャート製の石器を多数発見(小田静夫・國學院高校生)し、國學院大學考古学資料室(樋口清之研究室)の加藤有次先生にお見せし、旧石器時代の遺物(細石刃文化)との御教示を受ける。
昭和42(1967)年大沢鷹邇(オセド研究会)発見の回田遺跡を、吉田 格(武蔵野郷土館)、大沢鷹邇、東京学芸大学考古学研究会が発掘調査し、ローム層中から旧石器時代の遺物を発見した。
昭和49(1974)年小平市立三・九小学校分校(現・鈴木小学校)設置工事に際し、市在住で市文化財専門委員の國學院大學助教授加藤有次先生は、当地が遺跡の可能性を有するとの指導を行い、試掘調査(7月)を実施し、ローム層中から旧石器時代の遺物を確認し「鈴木遺跡」(旧・回田遺跡)と命名した。
昭和49(1974)年8月、当面の緊急調査に対応する「小平市鈴木遺跡調査会」(会長・金子 博、調査団長・加藤有次)が設立された。東京都文化課は、小田静夫(学芸員)を調査指導員(参与)として派遣(〜1984)した。
この組織は、昭和56(1981)年4月からは、市主体の「小平市遺跡調査会」と改称され新しく出発している。
昭和61(1986)年からは、市文化財担当者(小川 望)による国庫補助金を受けた「鈴木遺跡範囲確認調査」、平成3(1992)年以降は「市内遺跡発掘調査」と改められ、現在まで鈴木遺跡の保存と範囲確認調査を実施している。
平成15(2003)年11月11日、市の文化財保護事業を推進し、鈴木遺跡の調査団長を務められた國學院大學名誉教授の加藤有次先生が死去(71歳)した。
日本の新しい旧石器時代研究の出発点であった野川遺跡と、その後の武蔵野台地の大規模旧石器遺跡の発掘調査(特に鈴木、高井戸東、はけうえ遺跡)で、旧石器遺跡の発掘調査法、層位的編年、環境復元、年代測定、石材産地、材質などの「理化学的分析」が多く実施され大きな成果がもたらされた。
当時、日本の旧石器時代研究において、「武蔵野台地」は一つの到達点にあった。したがって「更なる研究の高み」は、3万年前以前の「新遺跡の探索」にしか、その活路は見出せなかったのであろう。やがて東北地方の宮城県座散乱木遺跡(1976)が、「前期旧石器遺跡」として登場した。これらの古期遺跡に対して、小田静夫・チャールズ・トム・キーリはその存在を批判(1986)した。
昭和62(1987)年多摩ニュータウンNo.471B遺跡(5万年前)の発掘調査(都埋文センター)が行われ、前期旧石器遺跡が関東地方にも波及する証左になった。それ以後、全国展開と定説化が促進し教科書にも掲載された。
平成12(2000)年11月5日(日)「捏造事件」が発覚し、日本考古学協会の検証(〜2003)で、武蔵野台地の調査成果「確かな旧石器時代遺跡は3万年前まで」という事実に戻ってしまった。