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第1回多摩川流域歴史セミナー・レジウメ
2014年11月16日、大田区立郷土博物館
国土交通省>多摩川流域歴史セミナー
多摩川は奥東京の山間渓谷から、武蔵野台地の西南縁と多摩丘陵の東北縁を流れ、多くの支流を統合し広大な流域低地を形成し、東京都と神奈川県境の河口から東京湾に注ぐ一級河川である。
この多摩川流域には、多くの「埋蔵文化財」(遺跡)が残されている。これらの遺跡を調べることによって、先人たちが多摩川という大河川をどのように利用してきたのか、その歴史的な意義と変遷を考古学的資料から読み取ることができる。
本報告では、先史時代から近世期に至る各時代の「発掘された遺跡」を取り上げ、その地域的な特質を考察することで、多摩川が歴史的に果たした役割を復元することを目的にしている。
多摩川は山梨県と埼玉県境の奥秩父の山中から流れ出て、奥多摩湖と山間部を経て青梅市から東側に隆起扇状地と呼ばれる広大な「武蔵野台地」に流出する。西側には草花丘陵、秋留台地、加住丘陵、日野台地が連なり、平井川、秋川、谷地川、浅川を統合して、昭島市、立川市附近で流路を大幅に拡大する。その後、武蔵野台地西南縁に沿って南流し、府中市附近で南側に多摩丘陵を望み、広大な多摩川低地帯を形成している。その後、多摩丘陵からは大栗川、三沢川、平瀬川、武蔵野台地からは野川を合流し、東京都と神奈川県境の大田区と川崎市の河口低地から東京湾に注ぐ、全長138km、流域面積1,240uの大河川である。
多摩川の中流地域には、古多摩川が形成した扇状地の「武蔵野台地」が広がり、南縁に沿って古い方から多摩、下末吉、武蔵野、立川の4つの河成段丘面が知られている。それぞれ火山灰(ローム)層の堆積年代から、多摩面は40万〜13万年前、下末吉面は13万〜6万年前、武蔵野面は6万〜4万年前、立川面は4万〜1万3,000年前に形成されたとされている。そして段丘面の高低で、多摩面には下から多摩・下末吉・武蔵野・立川ローム、下末吉面には下末吉・武蔵野・立川ローム、武蔵野面には武蔵野・立川ローム、立川面には立川ローム層がそれぞれ堆積している。
各段丘面における地層の堆積状況は、上から表土層(耕作土)、黒色土層、黒褐色土層、各ローム層、基盤の粘土層・礫層・岩盤などが順次認められる。この中で人類の遺跡・遺物が確認される地層は、上層から黒色土層(歴史〜弥生時代)と黒褐色土層(縄文時代)、そして一番新しい立川ローム層(旧石器時代)中である。現在まで日本列島には、それより古い武蔵野ローム層以下には人類の生活した痕跡は確認されていない(竹内・古泉・池上・加藤・藤野1997、新多摩川誌編集委員会編2001、小田2003)。
ヒトはアフリカで約700万年前頃に誕生し、「猿人→原人→旧人→新人」という進化を経て、2回の「出アフリカ」で地球上のすべての陸地に拡散した。第1回目は180万年前(原人段階)、第2回目は10万年前(新人段階)で、日本列島に人類が登場したのは、周辺大陸から遅れて「新人」段階になってからである。考古学的編年に照らすと、ヨーロッパ旧石器時代「前期→中期→後期」の「後期段階」(5万〜1万年前)に相当する。
ところが日本列島には、2000年11月5日の「旧石器遺跡捏造事件」の発覚までは、180ヵ所近くの「前・中期」段階(70万〜4万年前)の遺跡が存在していた。しかし、これら古期の遺跡は、その後の検証作業ですべて「捏造」されたものと判明し消滅してしまった(2003『前・中期旧石器問題の検証』日本考古学協会特別委員会)。
ということで、現在、日本の旧石器時代の編年は、立川ローム(4万〜1万3,000年前)層中に確認される「先ナイフ形石器文化→ナイフ形石器文化I→ナイフ形石器文化II→細石器文化」の4つの時期に区分されている(小野・春成・小田編1992、小田2014)。
日本列島に人類が登場した立川ローム堆積期は、海面が現在より約100m〜120m低下していて、東京湾は深い渓谷で「古東京川」が流れていた。したがって海岸線は、現在の浦賀水道から海面下の大陸棚(−200m)縁辺であった。
気温も低く、亜寒帯針葉樹林と冷温帯針葉樹林(チョウセンゴヨウ、ヒメバラモミ、ウラジロモミ、トウヒ、ヒラベ)が形成され、現在の十勝平野や日光戦場ヶ原附近の森林様相で、降雪は少なく乾燥した草原状況を呈していた。動物相もナウマンゾウ、オオツノジカ、マンモス(北海道)といった、大陸から渡ってきた大型動物(絶滅種)が生息していた。東京都区内の地下深くから、上流地域から流れてきた20体以上のナウマンゾウ化石が発見(日本橋浜町、渋谷区原宿など)されている。
武蔵野台地の遺跡立地は、見晴らしの良い台地縁辺部で、崖線下には「湧水地」(沼沢地)が存在する「ノッチ地形」に形成されている。これは飲料水と湧水地に集まる小動物と、湿地帯と崖線(ハケ)の植物資源を主要な食糧としたものと考えられる。
立川ローム降灰初期(4万〜3万年前)の多摩川は、急流で洪水が多発し、小さな河川礫(チャート、砂岩)を、扇状地の武蔵野台地上に広く堆積させた。旧石器時代人は、武蔵野台地を開析して流れる小河川流域を中心に、対岸の多摩丘陵や上流の丘陵地域にも活動範囲を広げていた(古泉1997、坂詰2001、小田2009,2014)。
先ナイフ形石器文化(3万5,000年前以前): 多摩川流域に登場した最初の旧石器時代人(小金井市西之台遺跡B地点、中山谷遺跡、約3万5,000年前)は、洪水で台地上に運ばれた「いも石」と呼ばれる自然小礫を使用して石器を製作していた。現在、この段階の遺跡は、九州〜関東地方にかけて確認され、東北〜北海道地方には確認されていない。
この旧石器文化は、石器群様相を調べると、錐状石器と礫石器を特徴的に保有し、東南アジア系統の「不定形剥片石器文化」と共通している。
ナイフ形石器文化T(3万5,000〜2万8,000年前): 石刃技法で縦長剥片を剥離し、初期的な「ナイフ形石器」を製作していた。列島内に広く分布し、均一な石器群様相を呈していた。
また世界最古の「磨製石斧」(約3万2,000年前)を製作していた。さらに驚くことに、彼らは伊豆諸島の神津島産「黒曜石」を使用していた事実(府中市武蔵台遺跡、約3万2,000年前)から、これも世界最古の「海洋航行」(約30km)の証拠として注目されている。
武蔵野台地や多摩丘陵にこの時期の遺跡が残され、特に調布市野水遺跡は磨製石斧の製作工程を示す資料、また国分寺市多磨蘭坂遺跡は大小多数の磨製石斧が発見されている。
この時期の石器群は、前段階からの発展的様相が伺えないことから、朝鮮半島など周辺大陸から新しく渡来した石器文化の可能性が指摘されている。
ナイフ形石器文化II(2万8,000〜1万6,000年前): 鹿児島湾奥の「姶良カルデラ」から大規模噴火が生じて、日本列島の自然環境が大きく変化する。その結果、今まで列島内で均一であった旧石器文化に、東北日本と西南日本という「東西旧石器文化圏」が形成される。またナイフ形石器に地方色が生まれ、東山型(東北)、杉久保型(東北、中部)、茂呂型(関東)、国府型(瀬戸内、近畿)、九州型(北九州)などの地域的な型式が誕生している。
細石器文化(1万6,000〜1万4,000年前): 周辺大陸から新しい石器文化「細石刃石器群」の流入(北海道と北九州地方に)によって、今まで列島内で盛行していた「ナイフ形石器文化」が消失した。また細石器文化も、同様に東北日本の「湧別技法」と西南日本の「休場・矢出川技法」という東西旧石器文化圏を形成していた。またその後半には、北九州地方に「土器」を持った「西海技法」が成立し、縄文時代(草創期)にまで継続していた。
関東地方は、ナイフ形石器文化I・IIと細石器文化に、東西両旧石器文化圏が形成され、その両文化圏が「利根川」を境にして南北交差する地域相が看取される。そして、南関東地方と多摩川流域は「西南日本文化圏」(休場・矢出川技法)に所属している。
日本列島に土器が出現した約1万4,000年前から、水田稲作が始まる約2,450年前までの、採集経済のもとで定住生活を送った時代を「縄文時代」、その時代の文化を「縄文文化」と呼んでいる。縄文時代の編年は、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の5つの時期に区分されている。
更新世(氷河時代)が終焉を迎え、現在と同じ温暖な気候の「完新世」が到来する。地球上を広く覆っていた巨大氷河が融解し、海面が徐々に上昇し「スンダランド」や日本列島も「島嶼化」した。植生は西日本から東海・関東にかけては暖温帯の照葉樹林、中部地方の山間部から東北・南北海道地方にかえては温帯の落葉広葉樹林、そして北海道東部は亜寒帯常緑樹林帯がそれぞれ広がっていた。武蔵野台地では、ムクノキ、エノキ、ナラ類などが繁茂する落葉広葉樹林で、四季による季節変化が明瞭に認められる地域であった(古泉1997、坂詰2001)。
草創期(1万4,000〜1万年前): 世界最古の土器(無紋平底土器)が誕生し、石槍を使用して遊動生活をしていた。多摩川と秋川に挟まれたあきる野市前田耕地遺跡で、シャケ漁撈(60〜70個の頭部骨出土)の集落跡(2軒の住居跡)が確認されている。これは秋になると、多摩川を多量のシャケが遡上し、縄文人が上流で捕獲していた証左である。「弓矢の出現」。
早期(1万〜6,,000年前): 気候の温暖化により海面が上昇して「東京湾」が形成され、漁撈活動が活発になり沿岸部に「貝塚」(神奈川県夏島貝塚、世界最古の土器年代、9,500年前)が多数残された。府中市武蔵台遺跡では、野川に面した国分寺崖線上に、撚糸文土器期の「大規模集落跡」(24軒)が構築された。多摩ニュータウン遺跡群では、早期末の「落とし穴」(イノシシ猟)が1万基以上確認されている。「貝塚の出現」に特色がある。
前期(6,000〜5,000年前): 「縄文海進」(現海面より3〜5メートル上昇)によって、群馬県藤岡付近まで海水域が拡大(奥東京湾)した。多摩川河口地域の大田区あたりまでは汽水地域を呈していて、大田区丸子多摩川園北、下沼部貝塚、世田谷区瀬田、六所東貝塚(貝塚遺跡)が発見され、対岸の神奈川県側には縄文集落の典型的な定住型大規模遺跡(横浜市南堀貝塚)が確認されている。「丸木舟の出現」。
中期(5,000〜4,000年前): 大規模集落(100軒以上)が武蔵野台地と多摩丘陵に多数出現し、遺跡数や縄文人口の頂点(全国30万人)を迎えている。多摩川の河原石を使用して、土堀具としての多量の「打製石斧」が野川流域の遺跡(調布市深大寺裏山など)で確認されている。縄文農耕(ヒョウタン、リョクトウ、エゴマ。シソ、ソバ、コメ、オオムギ、ヤマイモ)、酒(長野県井戸尻遺跡<有孔鍔付土器、ヤマブドウ>、青森県三内丸山遺跡<サルナシ、クワ、キイチゴ>)の証拠も認められ、縄文土器も立体的な文様(勝坂式土器<国分寺市多喜窪遺跡>)を呈している。「大型土器の出現」。
後期(4,000〜3,000年前): 気候もやや寒冷化し「祭祀遺跡」が増大し、信仰遺物(土偶、土版、石剣)が多く作られるようになる。生活環境の変化があり、多摩川流域には「柄鏡型敷石住居」(小金井市はけうえ遺跡)と呼ばれる特徴的な住居跡も発見されている。大田区と品川区にまたがる「大森貝塚」(1877年<明治10>モース発掘)は、この時期の遺跡として著名である。「大型貝塚、製塩土器の出現」。
晩期(3,000〜2,450年前): さらに気候が寒冷化し、「低湿地遺跡」が多くなる。調布市下布田遺跡は、多摩川に面した立川段丘上の重要遺跡で、五角形の土坑からは数本の石棒、600個の大型河原石を配置した特殊な墓域、そして大型耳飾り、多数の石鏃、打製石斧などが発見された。「葬具、縄文水田の出現」。
日本列島で水田稲作が始まった紀元前450年前ごろから、前方後円墳が出現する紀元後300年前までの間の600〜700年間を「弥生時代」、その時代の文化を「弥生文化」と呼んでいる。弥生時代の編年は、早期、前期、中期、後期の4つの時期に区分されている。
時代の名称は、東京府本郷区向ヶ岡弥生町発見(1884年<明17>、現・東大工学部附近)の土器を「弥生式土器」と呼び、時代名称になった話は有名である。後に「弥生土器」と呼称される。
弥生文化は朝鮮半島経由で、弥生人(人類学的には多数渡来とされる)が北九州地方に最初に流入し、わずか300年という短期間に伊勢湾沿岸地方に到達した。それより東北の地域は弥生中期になるまで、縄文人による縄文晩期社会が継続していた。また北海道では、弥生〜古墳時代に相当する時代を「続縄文時代」(紀元前300〜紀元後700年)と呼称している。
弥生時代になると、「稲作・ブタ飼育」、「弥生土器・金属器・布の使用」、「戦争の始まり」、「中国との交流」などが開始する。
関東地方に弥生文化が本格的に波及するのは、紀元前200年頃の弥生中期からで、それ以前の弥生前期に神奈川県海岸部と東京の伊豆諸島に、東海地方から直接海路(黒潮本流)を伝って早く伝播していた程度である(古泉1997、坂詰2001)。
早期(紀元前450〜300年): 北九州地方に弥生文化が流入するが、まだ東日本は水田稲作農耕、金属器も知らず、石器時代のままの縄文晩期(狩猟・採集)の社会が展開されていた。
前期(紀元前300〜200年): 弥生文化は水田稲作の気候環境が整っていた西日本に早く定着し、東日本には神奈川県の小田原地域や東京都の伊豆諸島(新島・田原遺跡)に、この時期の遺跡が確認されている程度である。
中期(紀元前200〜紀元後100年): 関東地方にやっと弥生文化が、本格的に波及してきた。その伝播は天竜川地域から中部高地を経由して山側から南下するコースと、太平洋沿岸部の海側地域を経由して東京湾を北上するコースが推定されている。
多摩川流域地域への波及は、東京湾沿岸部に多数の中期弥生集落が形成されていることから、太平洋沿岸から東京湾内へ北上するという黒潮伝播コースが推定される。
後期(紀元後200〜300年): 北九州や近畿地方に「小国家」が誕生し、「邪馬台国」(女王・卑弥呼)の存在が中国の文献(通称「魏志倭人伝」280〜297年陳寿作成)に登場する。
多摩川流域には、弥生後期の遺跡を中心に多数分布している。河口部の大田区久が原遺跡(久が原式土器)、世田谷区下山、堂ヶ谷戸遺跡は大規模な集落で、「環濠集落」と呼ばれる村を防御するため深い濠を周囲に構築した。また首長の墓と考えられる「方形周溝墓」(大田区田園調布南遺跡)も発見されている(小田1994)。
一方、内陸側の日野、八王子、青梅市周辺にも後期の大規模集落遺跡が分布しており、八王子市山王林、鞍骨山、神谷原遺跡が有名である。その中でも浅川支流の八王子市宇津木向原遺跡は1964(昭和39)年に発掘調査(國學院大・大場磐雄)され、方形周溝墓の「最初の発見地(4基)」で、その遺構名が最初に付けられた命名遺跡として著名である。
3世紀の中頃から畿内を中心に、それまでの墓制とはまったく異なった形態の墓(前方後円墳)が出現し、この型式の墳墓の築造を特色とする文化が、日本列島内の広い地域にわたって認められる時期を「古墳時代」と呼んでいる。古墳時代の編年は、前期、中期、後期の3つの時期に区分されている。
古墳時代の約400年間を「前方後円墳の時代」とも呼び、東北地方南部(山形県)、南九州地方西南部(宮崎県)にまで同じ形式の大型古墳が築造された。またこの前方後円墳は、4世紀の日本における「大和朝廷」の国土統一の支配範囲を示す首長墓遺構でもあり、組み入れた地域には「国造」を配置し地方支配制度を整えた。
古墳時代になると、「土師器・須恵器の使用」、「鉄器と武器・武具の発達」、「銅鏡の分布、年代」、「埴輪と葬送儀礼」、「対外交流」などが開始する。
東京地域にいち早く古墳が造られるのは多摩川下流地域で、多摩川を見下ろす左岸台地(大田区田園調布、世田谷区野毛地域)と、右岸の神奈川県鶴見川、矢上川地域である。発見される遺物(銅鏡、碧玉製玉製品)などから、大和政権を盟主とする勢力関係に組み込まれていたと推定される(古泉1997、坂詰2001)。
前期(3世紀後半〜4世紀初め頃): 大和政権の覇者の大型古墳である「前方後円墳」が、多摩川河口部の大田区田園調布古墳群(宝来山古墳、97m、4C前半)と対岸の鶴見川流域の川崎市日吉加瀬台古墳群(白山古墳、87m、4C前半)、矢上川流域の横浜市日吉台古墳群(観音松古墳、90m、4C前半)などがある。
中期(4世紀後半〜5世紀末頃): 南武蔵の盟主たちの前方後円墳が、田園調布古墳群(亀甲山古墳、107m、5C前半)、世田谷区砧中7号墳、5C前半)、円墳に小さな前方部が付いた帆立貝式と呼ばれる野毛・大塚古墳群(野毛大塚古墳、82m、5C後半)、狛江古墳群(狛江市亀塚古墳(5C後半)などに残されている。
またこの頃、大陸から多くの「帰化人」たちが、多摩川流域に流入し、君臨した首長の特殊な古墳型式(帆立貝式古墳、上円下方墳)が出現している。
一方、多摩川流域の前方後円墳が5世紀後半以降消滅した現象は、日本書記に記載(534年の条)の「武蔵国造の乱」が起因するとの説がある。この事件は武蔵国内の内乱を、大和政権(上毛野の小熊)に助けを求めた北武蔵(埼玉県比企、児玉地方)の国造(笠原直使主)が、南武蔵(多摩川下流域)の国造(同族の小杵)を破ったことで、当時の権力が「埼玉古墳群」に移行したのではないかと解釈されている。
後期(6世紀初め頃〜7世紀半ば頃): それまで築造されていた前方後円墳が消滅し、円墳、横穴墓などの「群集墳」が中心になる。なかでも府中市熊野神社古墳(上円下方墳、7C中葉〜後半)、三鷹市天文台構内古墳(上円下方墳、7C中葉〜後半)、八王子市北大谷古墳(墳形不明、7C前半)、多摩市稲荷塚古墳(八角墳、7C中葉)は、特殊な古墳型式が用いられ注目されている。
6世紀末の寺院(588年飛鳥寺)の造営で「飛鳥時代」、7世紀末の都城(651年藤原京)と710年の平城京の造営で「奈良時代」が開始される。平安時代は794年の平安京の造営から始まり、鎌倉幕府成立までである。日本に初めて「律令国家」が誕生し、中央政府から全国に国司、郡司が派遣され「租・庸・調」の租税を課した。
奈良・平安時代になると、「寺院・都城の出現」、「瓦の使用」、「製鉄・製塩技術の確立」、「木簡と諸国特産品」、「仏教の伝来」、「火葬墓・経塚の祭祀」、「貨幣の鋳造」(富本銭→和同開珎)などが開始される。
大化の改新(645・646年)で国郡制を中心とする地方支配体制がしかれ、諸国には政庁としての国衙が置かれ「国府」と呼ばれた。また8世紀になると東大寺を総国分寺として全国に国分寺と国分尼寺が建立された。
武蔵国は、現在の東京都の全域と埼玉県および神奈川県の北東部を範囲とし、「武蔵」の字は和銅6(713)年から用いられ、知知夫(埼玉県秩父)を合わせて「武蔵国」が誕生する。政治の中心地は多麻郡内に置かれ、多摩川流域の府中市に「国府」(716)が設置された。国庁の位置については、発掘調査によって西限を大国魂神社の境内(奈良時代の大規模な掘立柱建物跡)、北限を旧甲州街道の南とする二条の大溝が検出されていることから、宮町二・三丁目一帯が確実視されている。
さらに国分寺市の立川段丘面の武蔵国府を見下ろす位置に、天平宝字年間(757〜765年)初頭に「武蔵国分寺・国分尼寺」が造営される。この僧寺と尼寺の中間部には、都から武蔵国への官務の道筋として、中部高地をぬって信濃国から上野国を経路とした交通路の「東山道武蔵路」(8〜10世紀まで使用)が走っていたことが発掘調査で確認(幅12m、両側に側溝)された。また府中市武蔵台遺跡(国分二寺の調度品工房跡)からは、「漆紙文書」が発掘され天平宝字9(757)年の年号入りの暦であることが判明している。
また武蔵国分寺跡の発掘で造営に使用された「屋根瓦」(国分寺瓦)が多数出土し、生産地(瓦窯址)の郡名(20以上)が記された瓦も存在している。稲城市大丸窯址、多摩市下落合窯址、日野市百草・和田窯址、町田市瓦尾根窯址、八王子市御殿山窯址、谷野窯址などである。さらに日常生活器として「須恵器」(陶質土器、朝鮮半島から5世紀中頃に伝播)が多数生産され、八王子市御殿山窯業址から須恵器の窯址も確認されている。
大和朝廷はこれまでの信濃国、上野国経由から宝亀2(771)年に、東山道から相模国経由の「東海道」に転属させた。この交通路の変更によって。多摩川(当時「石瀬河」と呼ばれた)は、小高駅(川崎市)から大井駅(品川区)への街道筋の重要な大河川になり、1〜3艘の渡船が常備(835年)された。
当時、武蔵国の貢物としては麻布、木綿(楮の樹皮からとる繊維)、?(粗い絹織物)、席といった繊維製品が主であった。おそらく多摩川周辺の娘たちが、清流で布をさらし漂白していた様子が「万葉集巻14 東歌」に、
「多摩川に 曝す手作り さらさらに 何ぞこの児の ここだ愛しき」(3373)とある。
一方、奈良時代末から武蔵国は、東国や坂東の防人の一員として、陸奥・出羽の「蝦夷征伐」の兵士、軍馬(八王子市柚木牧、町田市小野牧)、各種物資の供給地でもあった(古泉1997、坂詰2001)。
中世の開始については、平安時代末期の平氏政権の成立(1160年)とされ、鎌倉幕府の成立(1192年)、そして室町、南北朝、安土桃山時代(戦国時代末期)までを「中世」と呼ぶことが一般的である
。鎌倉幕府が設定した「鎌倉街道」には、上ノ道、中ノ道、下ノ道があり、多摩川を渡る「上ノ道」(武蔵大路)は新田義貞が鎌倉攻め(1333年5月8日〜)に向かった進撃路になり、また府中市「分倍河原の合戦」(5月16日)で幕府側(北条勢)を破って鎌倉幕府の滅亡を決定的にしたことでも有名である。
中世になると多くの「城館」が築かれ、土塁、濠のある居城と小規模の山城、そして本丸、やぐらを構築する本格的な城館へと発展していった。八王子市の北条氏照の「八王子城」(1587年)は多摩地域最大の山城であった。こうした地方武士の「居館跡」からは、祭祀的な儀式を伴って井戸、導水遺構が確認(三鷹市島屋敷遺跡、狛江市下足立北遺跡、世田谷区祖師谷大道北遺跡ほか)されている。
また中世の信仰を知る遺物に供養塔として造られた「板碑」(石塔婆)があり、在地領主による阿弥陀信仰や、月待、庚申待などの民間信仰を知ることが出来る。この多摩川流域の街道筋に多量に残された「武蔵型板碑」(1248年銘が最古)の材料は、秩父産の緑泥片岩を使用し「青石塔婆」とも呼称され、14世紀がピークで16世紀に急減している(古泉1997、杉山2001)。
近世の開始については、織田信長の上洛(1568年)、豊臣秀吉の全国統一(1590年)や徳川家康の江戸幕府成立(1603年)時という説がある。一般的には「近世」は「江戸時代」を指しており、その終了は徳川慶喜の大政奉還(1867年)までとされている。
文化財保護法による埋蔵文化財(遺跡)は、70年代初めの頃までは「中世」までが「緊急発掘調査」(原因者負担)の対象になっていた。その後、都区内で再開発工事が頻発化し、近世墓地、寺院、大名屋敷などから「墓、人骨、多量の陶磁器類」の発見が相次ぎ、その文化財処置などが社会問題に発展した。こうした事態に対して、文化庁、都道府県の埋蔵文化財担当者が協議し「近世遺跡」も緊急発掘調査の対象にする方向性が確立した。その結果、都区内や地方の中心都市での近世遺跡の「緊急発掘調査」が実施され、現在では「近代遺跡」(産業・戦争遺跡)をも緊急発掘調査の対象にする時代が到来している(古泉1997)。
玉川上水の開設(1653年〜約1年半、約42km)で、今まで井戸(まいまいず井戸)による乏しい飲料水が「上水道」(木管)による安定した供給が完成し、武蔵野台地の新田開発が進み「武蔵野新田」と呼ばれた。この武蔵野新田の村落景観は、中央に直線の道路が走り、道路の両側に短冊状に地割りされた土地に、道路側に屋敷と防風林(ケヤキの巨木)が、その裏側に耕地が配置された。
幕府は江戸の台所を安定させるために、1740年川崎平右衛門(多摩郡押立村名主、現在の府中市)に命じて武蔵野新田経営を強固なものにした。そして新田開発に伴って、集落の守り神である神社が創建され「新編武蔵風土記稿」(1804〜1829)に記載されている。国分寺市真姿の池、小金井市貫井神社、小金井神社、調布市深大寺(733年創建)、青渭神社、八剣神社、虎柏神社などである。また多摩丘陵や周辺の丘陵地域には、多くの「炭焼き窯」が残されている(加藤1997、池上1997)。
こうした宗教・産業関連遺跡の発掘調査が行われ、寺社(礎石、宗教遺物、陶磁器類)、水道施設(木樋、石垣)、城(城郭址、陶磁器類)、宿場遺構(道路、町屋、陶磁器類)、武家・名主屋敷(礎石、防火施設、井戸、陶磁器類)、炭焼き窯(窯遺構、窯用品、陶磁器類)などが確認されている。
また近世の多摩川は、上流部の木材を江戸に運ぶ輸送路であった。青梅や五日市で管流しされた木材を筏に組み、さらに炭、薪、竹などの上荷を載せ、筏乗子が拝島、府中、二子などで泊りながら江戸に運んでいた。また多摩川は鮎漁の盛んな河川で、幕府に献上する「上納鮎制度」が定められ、鮎飛脚が甲州街道を江戸城まで直送していた。その結果、多摩川の漁撈技術も向上し、鮎の本能を利用した瀬張り網漁法や、徒歩で昼間にのみ鵜を扱う徒歩鵜飼法(長良川の船鵜飼とは別)も行われていた(伊藤・松村・村上2001)。
日本列島に最初に現れた旧石器人たちは、海岸部から古東京川を遡り、武蔵野台地を流れる小河川流域に定着した。多摩川は急流でたびたび洪水を起こしていたので、武蔵野台地の西南縁を流れる野川流域に集中して居住していた。
現在と同じ気候になり、海面が上昇し海水が群馬県藤岡附近まで到達し、多摩川流域でも世田谷区辺りまでは海水と汽水が混じりあう水域であった。縄文人たちは、東京湾沿岸に巨大な貝塚地帯を形成し、武蔵野台地と多摩丘陵に豊かな縄文集落を構築した。石器の材料の黒曜石は伊豆諸島の神津島と長野県和田峠(石鏃)、チャート(石鏃)と砂岩(打製石斧)は多摩川中・上流地域から調達した。
水田稲作を基盤にした弥生文化は、西日本地域に早く拡散し、東日本地域に到達するのは中期の頃である。後期になると、多摩川流域にも大集落が形成され、八王子市、世田谷区、大田区に大型方形周溝墓(首長墓?)が構築されている。これは多摩川流域の低地部に大稲作地帯が形成された証左である。
近畿地方に成立した大和朝廷は、関東地方にも支配圏をのばし、東京湾沿岸部から内陸に進出してきた。多摩川河口地域には、すでに大きな弥生組織が形成されていたこともあり、この地域をまず武力支配し前方後円墳を構築した。
朝鮮半島からの新しい移民集団が、多摩川中流の狛江、調布、三鷹、府中市あたりに定着した。この帰化人たちの支配者の墓が、上円下方墳として構築されている。
関東地方を支配していた大和国家は、武蔵国の国庁をすでに律令関係にあった多摩川中流部の府中市域が適地とし、国衙を設置し国分2寺を創建した。
鎌倉幕府は鎌倉と武蔵を結ぶ幹線道路である鎌倉街道上ノ道は、多摩川地域に配置された地方武士の主要な交通路として利用された。
多摩川の灌漑用水としての二ヶ領用水と六郷用水、江戸の飲料水としての玉川上水が開設され、水の乏しかった武蔵野台地に多くの新田集落を誕生させた。
多摩川を上流から下流を眺めてみると、水源林、奥多摩湖、御岳渓谷、秋川渓谷、羽村堰と玉川上水、拝島橋、浅川、野川、宿河原、二子玉川、調布堰、六郷橋、大師河原と様々な景観をもっている。白波を立てながら激しく流れる上流、ゆったりと水量豊かに流れる中流、広々とした河原が気持ちよい下流。さらに、季節によって移り変わる自然の姿(森林、渓谷、草原、河原、干潟)や、そこに生息する植物、鳥、小動物、魚、貝、虫など、生き物たちとの出会いがこの多摩川には多く存在している。こうした自然と地理的環境に恵まれた多摩川を利用してきた歴史は、私達が生活する「東京人のふるさと」とも呼べる大切な河川であった。