『考古学研究60の論点』2014.5(pp.195--196)所収


旧石器遺跡捏造事件をあらためて問う

小田静夫

 私にとって、2000年11月5日(日)は忘れられない記念日となった。あの日の朝「石器を埋め込んでいる姿」が一面トップに掲載された新聞を手にした時の衝撃は、「ああ、やっぱり」という感慨と共に、様々な思いが脳裏を交差したことを今でも鮮明に記憶している。顧みれば、捏造事件が発覚に至るまでに二十数年という長い年月が過ぎ去っていた。そして、事件発覚から早13年経過した現在、いったいこの「捏造事件」とは何であったのか?我々旧石器を研究する者達は、この事件により「何を失い、何を得られたのか?」、自問自答しながら、その顛末を回顧してみたい。

 この日、マスコミのスクープによって「旧石器遺跡捏造事件」の幕が開けられた。翌年6月「前・中期旧石器問題調査研究特別委員会」が設立され、2002年5月の日本考古学協会総会において総括報告が行われ「藤村氏関与の前・中期旧石器時代の遺跡および遺物は、それを当該期の学術資料として扱うことは不可能」という判断が示された。2003年5月には、藤村氏関係の遺跡170ヵ所、石器資料3,500点の『検証報告書』が刊行され「前・中期旧石器遺跡」は消滅した。その中で協会長声明として、研究者の「新しい倫理綱領の制定」と「論争の場の形成」等々、今後の方向性が示されたことは唯一の救いであった。

 しかし、その後の旧石器研究はどのように改革されたのであろうか、私の目にはその変革は見えず、ただ「考古学の衰退」だけが目についた。この間に、前期旧石器研究当事者、並びに関係者、更に前期旧石器推進者らの中で、誰一人として職を辞するなど、その責任を取った研究者がいたであろうか。誰もが言い訳ばかり並べ、何も責任を取らないまま幕を引いてしまった。

 さて、日本の旧石器研究史において、確かな「遺跡」の存在は、1949年群馬県岩宿遺跡の発見が最初であった。これを契機に日本各地で旧石器遺跡の確認が相次ぎ、やがて「緊急発掘」によって1969・70年神奈川県月見野遺跡群と東京都野川遺跡の大規模調査で、日本の旧石器研究は大きな変革期を迎えた。その後、東京・武蔵野台地の「自然科学的手法」を多用した学際的調査資料を中心に、70年代後半には「日本の旧石器編年」と「文化様相」が確立されていった。遺跡の年代は、すべて1〜3万年前のもので、それはヨーロッパの編年で「後期旧石器時代」に入るものであった。

 日本の「前期旧石器」の追及は、1954年明治大学の杉原荘介氏による青森県金木遺跡の調査から始まる。杉原氏は岩宿遺跡以後の日本の旧石器遺跡を「上部(後期)旧石器時代」と位置づける中で、より古い「中部(中期)・下部(前期)旧石器時代」の発見に挑戦した。結果的には礫層中の「偽石器」ということで決着し、1967年に「日本にはこうした古期の文化は存在しない」という仮説を発表している。他方、1962年日本考古学協会で、大分県丹生遺跡について二つのグループが、同じ遺跡を別々に発表するという異常事態が生じていた。これを契機に「石器か否か」「出土層位」「石器製作技術」「比較」「研究方法」などをめぐる「前期旧石器論争」が活発に展開されてきた。東北大学の芹沢長介氏も1964年大分県早水台遺跡を発掘し、前期旧石器問題に参入した。当時、西日本地域に100ヵ所以上の前期旧石器遺跡が現出したが、1967〜69年頃の論争を経て、これらの遺跡は自然消滅してしまった。その後、芹沢氏は1966年から栃木県星野遺跡を中心に本格的な前期旧石器研究に着手し、北関東地方で多数の「珪岩製前期旧石器」遺跡を確認し持論を拡大させていった。

 当時、私は1979年東京地方の旧石器研究成果から、「3万年前以前の旧石器文化は、まだ日本列島には存在しない」という論に立脚し、芹沢氏の珪岩製前期旧石器は、「石器認定が不確かで、さらに、それらが自然石ではないとの明確な証明もない」と、ハバロフスクで開催された国際会議で批判したことがある。このような学界の情勢下で、東北地方で古い遺跡の探索を推進していた東北大学の岡村道雄氏と多賀城研究所の鎌田俊昭氏が、考古学愛好家の藤村新一氏らと「石器文化談話会」を設立(1975)し、1981年宮城県座散乱木遺跡の発掘で、立派な「石器」(斜軸尖頭器)を伴う武蔵野台地の旧石器遺跡(約3万年前)より古い遺跡を捏造し登場させたのである。

 この頃、日本の旧石器時代研究は「武蔵野台地の成果」で一つの到達点にあり、「更なる研究の高み」が3万年前以前の「新遺跡の探索」にしかその余地がなかったのであろう。岡村氏は1978年に東北歴史資料館に勤務し、「珪岩製前期旧石器は人工品ではない」との恩師の芹沢説を否定しながら、新しく登場した「宮城県の前期旧石器こそが本当の『石器』であり『遺跡』」である」とした背景には、武蔵野台地の研究成果の「更なる上」を追及した結果だとも云えよう。そして座散乱木遺跡の統括報告書で、臆面もなく「日本の前期旧石器存否論争は終結した」と宣言した。こうした路線の下で、調査メンバーの藤村氏は次々と石器を埋め込み、前期旧石器遺跡を宮城県内で捏造し発見・発表を重ねて行った。

 私は1986年、すでに30万年前の原人段階の遺跡が出現した宮城県の前期旧石器研究に危惧の念を抱き、批判論文を発表したが、これに対する岡村氏グループからの反論はなかった。ところが翌年、私が勤務していた東京都の「多摩ニュータウン471b遺跡」で、3万年前以前の地層から捏造された前期旧石器が発見された。この私達のフィールドでの確認は、日本列島内に宮城県と同様な前期旧石器遺跡の存在を確定させる証左に仕立て上げられ、その後もこのグループにより、福島、山形、岩手、栃木、群馬、埼玉県でも捏造されたものが、華々しく「最古」「最古」と次々に新しい遺跡、遺物の発見報道、発表が毎年のように行われ続けた。こうして報告書や、検証不足の資料の追認と、捏造された新事実の積み重ねの前に、私の批判は影が薄くなっていった。

 では、「前期旧石器」が、市民権を得た背景には何があったのだろうか。この捏造事件の核心は、一人の考古学愛好家が石器を埋め込み、遺跡を捏造した行為である。それは到底許されることではないが、だが彼の背後には、一緒に発掘した大学研究者、文化庁職員、自然科学者たちがおり、その周りにはそれを喧伝した大勢の考古学者がいたことを忘れてはならない。また、1995年から文化庁主導で行われている『新発見考古速報展』では、次々に最古と称した捏造石器を全国の公共博物館で巡回展示し、捏造遺跡を権威づけ、さらに展示品がグラフ誌、図録本で広く一般に紹介され、普及したことも大きな要因であった。この展示会は、日本の埋蔵文化財保護行政の最高機関が実施するもので、ましてや日本最古の話題は、その年の展示の一ページ目を飾る「考古学の華」であった。こうして捏造による偽学説が一人歩きし、横行した前期旧石器グループの論考は、日本国内はもとより国際的な学会や多くの雑誌にも発表された。

 何故こうした不確かな遺跡、遺物の存在が、論争もせずに学界や一般市民、教科書にまでその存在を定着させてしまったのか。まずマスコミの「最古」「最古」と発見時のみの「過剰報道」が批判されたが、マスコミ界からのスクープがなければ、ヒトの進化過程に反し、世界で最も優れた知能を有するアジア最古の「原人」が、日本列島に生活していたという夢物語が、未だに「教科書」で語られていたのである。

 この事件は、日本の旧石器研究の信頼を失墜させたばかりでなく、広く日本の考古学の信憑性をも危うくするものであった。さらに海外のメディアからも注目され、「日本人の民族性(ナショナリズム)」までが取り沙汰される報道もあった。更に日本の「考古学(会)界」の権威主義的体質、学閥、閉鎖性、学問的信頼度の低さ等々にも、言及され批判された事実を、多くの考古学者たちは深く・重く受け止め、より開かれた学問を目指し、地位や名声や野望の為ではなく、真摯に研究を進めて行かなければならない。これからの「旧石器研究」は、考古学、人類学、地質学、年代学、遺伝学等の広い知識が要求されよう。これからの若い研究者たちのためにも、早くこうした「学際的な学問体系」が整備されることを願っている。


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