「琉球新報」文化欄掲載

名護湾から見えること

小田静夫

①ウチナーンチュの故郷

 那覇空港から高速バスで約1時間半、亜熱帯植物の生茂る丘陵地帯を通過し、許田の料金所を抜け急坂を下ると、突然まばゆいばかりのエメラルドグリーンのサンゴ礁の海が開ける。白波を立てる発達したリーフと白色のサンゴ砂の美しい浜辺、遠くには本部半島の山々と名護市街地が、さらに沖合には黒潮本流が流れる東シナ海に浮かぶ島々が遠望できる。この素晴らしい自然環境に恵まれた「名護湾」を取り囲む広大な湾岸地域と島嶼部には、沖縄考古学にとって重要な遺跡が多数発見され、そこには歴史的・自然的遺産が数多く残っている。今回のシリーズでは、沖縄史における新しい研究フィールドとして、潜在的資料を限りなく保有した名護湾をテーマに、その魅力の一端を紹介してみたい。

沖縄最古の土器文化の謎

 私と沖縄との関わりは、昭和54年1月の沖縄県立博物館で開催された「日本第四紀学会沖縄大会」への参加であった。この会議では昭和50年に発見された読谷村渡具知東原遺跡の「爪形文土器」の年代と、その出自系統が大きなテーマの一つとなり、そこで沖縄先史文化と九州縄文文化との関連を示す「爪形文土器」「曾畑式土器」が議論された。しかし、この沖縄最古の爪形文土器文化については、その後の研究成果により本土とは関わりがなく、奄美諸島から沖縄本島にのみ分布する謎の「南島先史文化」とされている。平成13年に発見された名護市大堂原遺跡では、この文化人の埋葬人骨と共に地層が上下2時期の文化層に分離できる新事実が判明し注目を集めた。この7,000年前の南島爪形文土器文化人は、はたして何処からこの沖縄・奄美諸島にやって来たのであろうか。現在、その謎を解く鍵は、名護湾地域最古の貝塚時代遺跡の研究に託されていると言っても過言ではあるまい。

旧石器人が名護湾へ

 沖縄最古の住人は、那覇市の山下町第1洞人、および八重瀬町の港川人などの32,000〜14,000年前の旧石器時代人とされているが、不思議なことにこれら化石人骨の発見場所からは、未だ確かな生活址や石器・骨角器の発見がない。したがって、現況では彼らの生活した「遺跡」や生活道具である「遺物」の発見と確認が急務とされている。私は平成17年1月に名護市大堂原遺跡出土の石器の分類を依頼され、その作業中にチャート製の古色や型式が「旧石器」的な資料を確認する幸運に恵まれた。残念なことに原位置文化層からの出土品ではなかったが、尖頭器、台形石器、スクレイパーなどがあり、近年北側の奄美大島や徳之島で発見された、九州島や本州島と様相を異にした「不定形剥片石器文化」と呼ばれる東南アジア地域に特徴的な旧石器群に酷似していた。名護湾を取り囲む本部半島と伊江島、さらに北東の伊是名島、伊平屋島には、石器の原材である良質のチャートが豊富に存在することから、旧石器人たちがこの石材を求めてこの地域にやってきた可能性は大きい。

ワジャク人に類似

 最新の遺伝人類学によると、私たち現代人の直接の祖先は、15万年前にアフリカで誕生した「ホモ・サピエンス」(新人)だとされる。彼らは7万年前に故郷のアフリカを旅立ち、6万年前には東南アジアの「スンダランド」に定着した。その後、5万年前には人類最初の海洋世界(オセアニア)への進出が開始され、さらに南中国沿岸、台湾島、琉球弧・日本本土へと黒潮を北上した旧石器人集団の拡散・移住の事実が判明している。さらに、形質人類学の研究成果によると、「港川人」はインドネシア・ジャワ島の1万年前のワジャック人に類似し、その歯は東南アジア型であることから、沖縄旧石器人の故郷にスンダランド地域が浮上してきた。その関連から、考古学的見地からのウチナーンチュの源郷解明が待たれる現状を鑑み、早急に名護湾周辺で確かな「旧石器遺跡」を発見・確認する必要があろう。

2007年4月9日(月)、「琉球新報」文化欄掲載

②アグーのルーツ

 西アジアの4〜3万年前の旧石器時代遺跡から「イヌ」の埋葬例が発見された。これはヒトによって野生の動物が家畜化された始まりとされる。日本でも9,000年前の縄文時代早期に、イヌの埋葬例が確認されている。イヌはオオカミを家畜化したもので、弥生時代には猟犬としてイノシシ狩に活躍する姿が銅鐸に描かれている。また東京の伊豆諸島には本来イノシシの自然分布はないが、6,000年前の縄文時代遺跡から多数のイノシシ骨が発見された。これは縄文人が本土からイノシシの幼獣(ウリボウ)を、イヌとともに丸木舟に乗せて黒潮激流を渡航し、島内で成獣にしてから食糧に供したと考えられている。つまり、島を自然の「イノシシ牧場」として利用したのである。イノシシを家畜化したものが「ブタ」である。ブタのルーツについては諸説があり明らかではないが、メソポタミアや中国では8,000年前の新石器時代初期にはすでにブタは存在していたという。ちなみに、ニワトリとウシは2,300年前の弥生時代、ウマは1,700年前の古墳時代、ネコは1,300年前の奈良時代に大陸から日本に、ヤギは15世紀の第一尚氏時代に東南アジアから琉球に移入された家畜と言われている。

「先史島ブタ」誕生

 弥生時代の九州にブタが存在したことが、平成5年国立歴史民俗博物館の研究で確かになった。これを受けて平成9年奈良国立文化財研究所でも、伊江島の具志原・ナガラ原東貝塚出土のイノシシ骨の形質分析した結果、九州から琉球弧を南下して、「弥生ブタ」の幼獣が島に搬入されていたと発表した。さらに同島のナガラ原西・具志原・阿良貝塚出土のイノシシ骨の「ミトコンドリアDNA」分析を行ったところ、現生の「リュウキュウイノシシ」と「東アジアブタ」とは近縁遺伝子であることが判明した。ブタが容易に野生イノシシと交配し、また逃亡・再野生化することは良く知られている。したがって、島のイノシシ牧場でブタとの交配種が誕生しても何ら不思議はない。おそらく、沖縄では2,000年以上前に九州から弥生ブタが、また中国大陸から東アジアブタが渡来し、さらに島のイノシシとも混血するという複雑な「交雑種」関係を経て「先史島ブタ」が誕生したであろうと考えられる。

祖先は先史島ブタか

 1,400〜800年前の貝塚時代後期後半には、先史島ブタの飼育が普及したことが発掘調査で判明した。やがて、12〜15世紀のグスク時代になると、ウシ、ウマ、ヤギ、ニワトリなども確認される。「名護博物館」には、館内最初のコーナーに「アグー」と呼ばれる在来島ブタの特別展示がある。戦前沖縄の農家には、ブタの飼育小屋と便所を兼ねた「フール」があった。家人が葬式や夜遅く帰った時などは、このフールに立ち寄ってブタを鳴かせて、憑いてきた魔物を退散させて家に上がる風習があったと言う。アグーの呼称は粟国島(アグニジマ)のブタからついたという説があり、名護では「アーグー」とも呼んでいる。一説によると、沖縄の「島ブタ」の渡来は1392年察度王時代に明の太祖の命令で閩人(福建省)36姓が琉球に帰化するのに際し持ち込んだと言われている。この新来の大陸ブタと、すでに飼育されていた先史島ブタ、そして「アグー」との関連は今後島ブタの起源を解明する上で興味ある課題である。これは、琉球王国時代に多量に消費されるブタの必要性から、この二種類のブタが島内で増殖された過程で交配し、アグーと血統を同じくする島ブタが誕生したとも考えられる。明治37年農商務省は、西洋種(白ブタ)と在来種を交配させ品種改良を図った。その結果、食肉用雑種ブタが流行し、伝統的な在来島ブタの存続が危うくなった。戦後、名護博物館や北部農林高校、地元畜産農場の努力で琉球在来ブタ「アグー」が復活し、今では中国の「金華豚」、スペインの「イベリコ豚」に匹敵する、世界の三大ブタと賞賛されるまでになった。読者の皆様も名護湾を望む素敵なレストランで、本場のアグー料理をご賞味あれ!

2007年4月10日(火)、「琉球新報」文化欄掲載

③卑弥呼が着けた腕輪

 九州の縄文人が琉球列島へ南下したのは、6,500年前「鬼界カルデラ」の巨大噴火後であった。この噴火は南九州の縄文人を絶滅させたと同時に、西北九州の縄文人たちの南下行動を促進させた。彼らは東シナ海からトカラ海峡を横断する黒潮本流(七島灘)を越えて、南の奄美・沖縄諸島に到達した。そこは豊かな海産資源に恵まれたサンゴ礁の海で、後年その南海の海の幸を基盤にした「南島文化」を開花させた。特に彼らを驚嘆させたのは南海産の大型貝類で、その装飾性と神秘性は縄文本土(九州)では体験できなかった素晴らしい自然造形物であった。この情報は直ちに列島内の縄文人たちに伝わり、首輪・腕輪・耳飾りなどの装身具の素材として珍重され、南島と九州との「交易活動」が開始された。そして、遠く日本海側や太平洋沿岸、さらに北の北海道にまでこの交易圏は拡大していったのである。

「南海産貝製腕輪の道」

 2,300年前の弥生時代になると、北部九州では首長や司祭者のシンボルとして南海産のゴホウラ・イモガイ製腕輪が重要視され、男性はゴホウラを右手に、女性はイモガイを左または左右の手に装着する使用の規範が成立した。貝の素材は奄美・沖縄諸島から入手し、加工や成型は西北九州の弥生人が行った。この南海産貝製腕輪の交易活動は「貝の道」と呼ばれ、主に西北九州や南九州の「海人」たちが南下して貝を入手した。そうした証左としては、名護湾を囲む伊江島の具志原貝塚・阿良貝塚、さらに本部半島の具志堅貝塚・備瀬貝塚など、2,300〜800年前の貝塚時代後期の遺跡から「貝溜まり・貝集積」と呼ばれる交易用ゴホウラ・イモガイの備蓄遺構が多数発見されている。また、この大型巻貝の見返りの交換品には、弥生土器、鉄斧、ガラス小玉、鏡片、漢式鏃、磨製石鏃などもあったが、その主要な目的物は、当時水田稲作農耕を受け容れなかった琉球弧地域に必要な弥生土器に入った「米や酒」であったと考えられている。

首長の威信財

 2,100年前の弥生時代中期になると、北部九州に小国家が形成され、首長たちは南海産貝製腕輪を支配者の威信財として権威づけた。3世紀前後の日本の様子が記された中国の『三国志』の一つ『魏志』の中の東夷伝倭人の条項(略して『魏志倭人伝』という)によると、倭国は2世紀の終り頃大きな争乱があり、諸国が共同して邪馬台国の女王「卑弥呼」を立てたところ、ようやく争乱が収まったとある。そして、三十国余りの連合体「邪馬台国」が誕生した。卑弥呼は239年に、魏の皇帝に使いを送り「親魏倭王」の称号と銅鏡などを贈られた。また、卑弥呼は「鬼道」(呪術)に長じていた巫女(神に仕える女性)とされ、この貴重な南海産貝製腕輪を南島から多数入手し、それを装着し神の意志を聞く宗教政治を行っていた。この邪馬台国と卑弥呼の墓の所在論争は永遠のロマンであるが、卑弥呼の没した247年に築造された「径百余歩」(約150m)の大型古墳が発見されれば、その棺の中にはイモガイ製腕輪を両腕に多数装着した女王の遺骸と、副葬品として納められた多数の鏡と南海産大型貝で製作された各種装身具(威信材)が確認できるに違いない。そして、その後1,700年前の古墳時代に入ると、畿内の大王墓(前方後円墳)からは南海産貝製腕輪の模倣である腕輪形石製品(鍬形石、車輪石、石釧)や青銅製品(有鉤銅釧)が多数出土する。この事実は、腕輪の素材が南海産の貝殻から、大陸から移入された青銅や日本産(北陸地方)の緑色凝灰岩などの貴石に変わり、大和朝廷の「威信材」(宝器)に対する価値観の変革を意味する。その結果、数千年以上続いた「貝の道」は衰退するが、その交易ルートはその後も、九州と南島への主要な海上交通路(ヤコウガイ・カムィヤキ交易、遣隋使・遣唐使など)として利用され続けた。

2007年4月11日(水)、「琉球新報」文化欄掲載

④泡盛はウチナーの宝物

 8,000年前のメソポタミヤで、ナツメヤシやブドウの果実を自然発酵させたものが酒の始まりとされているが、日本でも5,000年前の縄文時代に、山ブドウ、ニワトコなどの実から酒が造られていた。その後、農耕・牧畜が開始されると、世界各地で酒は神への捧げ物として、また王侯・貴族らの嗜好品としても愛飲された。が、その一方で酒はアルコール依存症という悲惨な「病」をも生み出した。初期の酒は「醸造酒」であったが、11世紀にアラビア地方で花から香水を作るための蒸留技術が発達すると、12世紀にはギリシャでワインからブランデーが、14世紀にはイギリスでビールからウイスキーが造られた。こうしてアルコール度数の高い「蒸留酒」が各地で誕生した。沖縄の「泡盛」は「蒸留酒」の強い酒で、14世紀に中国の「白酒」やタイの「南蛮酒・香花酒」と呼ばれる蒸留酒の伝来からそのルーツが求められる。ちなみに、九州の「薩摩焼酎」は、15〜16世紀の琉球からの「琉球製焼酎」と、14〜15世紀の朝鮮半島からの「焼酎」の南北二つのルートにそのルーツを辿ることができる。

南蛮焼から壷屋焼まで

 14〜16世紀の沖縄は「大交易時代」と呼ばれ、中国・朝鮮・大和・東南アジアの各地との中継貿易の利益で繁栄していた。本部半島に立地した今帰仁城跡(グスク)から、この時代の豊富な考古資料が発掘され、その中に「南蛮焼」と総称される中国(南支那系)やタイ(シャム系)、ヴェトナム(安南系)産の「南蛮ガメ」(酒カーミ)が多数出土している。また読谷村字喜名の喜名窯では、この南蛮焼の影響の下で琉球製の「琉球南蛮」が初めて焼かれた。さらに、こうした焼き物に適した良質の陶土が、名護市部瀬名崎一帯に存在し、その陶土採掘址が多数確認されている。こうした事実から、琉球王府成立以前の対外交易の窓口が、この名護湾周辺に存在した可能性が極めて高い。その後、政治の中心が北部から中・南部の那覇江(港)周辺地域に移行する過程で、1682年に王府は沖縄市知花の知花窯、那覇市首里宝口の宝口窯、那覇市泉崎の湧田窯の三つの地方窯を那覇市壷屋(牧志邑)に統合し「壷屋焼」が成立した。それは大交易時代の終焉によって当時酒の輸入が途絶え、接待用の酒にも事欠く事態に陥り、その不足を補う為の政策として、琉球製焼酎の製造が開始され「泡盛」が誕生する。その後王府はこの琉球泡盛を入れる大量の酒カーミの必要性から、近傍の牧志邑に「御用酒壷窯」を設置した。こうした経緯が壷屋焼成立当時の政治的背景にあった。

泡盛施設も世界遺産に!

 平成17年10月名護市で「泡盛サミットin名護・山原2005」が開催され、私も以前から泡盛を考古学的立場から考察していたので喜んで参加した。さらに当地には、今回、国の登録有形文化財に指定された「津嘉山酒造所」があり、その保存施設で本年1月に名護市恒例の「桜まつり」に合わせて、津嘉山酒屋保存の会主催の「石器を作ろう」という、大昔の名護人の生活体験教室が開催され私も指導員として参加した。思い起こせば、沖縄は今次の大戦で貴重な年代物泡盛(クース)や多くの酒造所を灰に帰してしまった。が、平成10年に東京大学分子細胞生物学研究所に保存されていた百年前の「黒麹菌」が、地元首里の酒造会社で再現されて「東大泡盛」と愛称され、赤門脇の構内物産所で販売され、それが好評を博したという明るいニュースも記憶に新しい。泡盛は「琉球王国」が500年以上に亘って、この亜熱帯の風土で大切に育んできた世界に誇る「銘酒」である。その伝統的な酒造技術や酒造施設は、平成12年12月ユネスコ世界遺産(文化)に登録された「琉球王国のグスク及び関連遺産群」と同等の価値を保持するものと言っても過言ではない。この名護市にある津嘉山酒造所は、沖縄で唯一戦火を免れ、戦前の酒造施設がほぼ完全な状況で残存し、現在も操業している貴重な文化遺産だと言える。

2007年4月16日(月)、「琉球新報」文化欄掲載

⑤将軍もめでたウニヌーティー

 平成3年10月から発掘が行われた東京都港区東新橋の「汐留遺跡」から、沖縄県那覇市壺屋で造られた「壷屋焼荒焼徳利」が出土した。この場所は明治5年日本最初の鉄道の基点駅「新橋停車場」が設置されたが、江戸時代の「仙台藩伊達家上屋敷」跡地でもあった。伊達家は徳川幕府確立の中心的役割を果たした重鎮的大名で、上屋敷も江戸城と江戸湊(湾)に接した一等地に在った。荒焼徳利はこの近世江戸期の包含層中から合計6点発見されたが、壷屋焼陶器が沖縄県以外の遺跡で発掘されたのは汐留遺跡が最初であった。この徳利類は、沖縄でチュワカサー(一升入れ)、ウニヌーティー(鬼の手・腕)と呼ばれる泡盛トックイ(マス)の仲間であった。ちなみに、私は平成6年10月に、この汐留遺跡出土のウニヌーティーを沖縄に持参し、260年ぶりに壷屋窯に「里帰り」させることができた。さらに平成9年には、東京都八丈島の「壷屋焼大カーミ」を、八丈島島民のご好意で那覇市壷屋焼物博物館に寄贈することもできた。

日本文化の原点

 沖縄の荒焼陶器は、14〜16世紀の大交易時代に東南アジアから輸入された「南蛮ガメ」類にその起源があり、その後、琉球国内でも同じ製陶技法で、読谷村の喜名窯や那覇市の湧田窯などが開業した。一方、日本では室町時代以来の「茶の湯」の流行によって、この南蛮系の素朴な焼締陶器は「南蛮・島物」と呼ばれ貴重品として愛好された。つまり、この荒焼陶器は日本文化の「わび・さび」の精神に合致した陶器であったとも言える。当時、高値の花であったこの南蛮・島物を、博多や堺の貿易商人は琉球経由で入手し、江戸や京坂の大名や風流人に調達していた。また、この荒焼徳利は茶室や床の間の一輪差し花瓶として、華道界でも人気の花器であった。

将軍に泡盛献上

 琉球王国は1609年の薩摩の侵攻で徳川幕府への忠誠を要求され、将軍の代替わりの度に「慶賀使」、中山王が代わる時は「謝恩使」を派遣する義務が与えられた。これが「江戸上り」と呼ばれる公式行事で、計18回行われたと記録されている。この江戸上りの献上品目録に、琉球産物の項があり「泡盛酒10壷」などと記載されており、ウニヌーティーはこの壷のパッキング用として、シュロ縄で巻かれて隙間に詰め込まれたという。また倭寇の襲撃に遭遇した時には、これに火薬を入れて火炎ビンとして投げつけ、てい弾・帆焼壷とも呼ばれていた。献上品は城内で将軍家、御三家、老中などの順に進上され、泡盛壷の入った箱に詰められた多数のウニヌーティーは特別な人々に分配されたという。おそらく、将軍夫人や大奥女官たちにとっても琉球の憧れの品物であったろう。

広範に分布する泡盛カーミ

 名護湾周辺の村々や離島を訪れると、まだ多くの家々の庭先に「壷屋焼大カーミ」が残されている。これは戦前、泡盛・種籾・味噌・醤油、そして飲料水の貯蔵カーミとして多用されたものである。が、不思議なことに同様な壷屋焼大カーミが、東京の伊豆諸島や小笠原諸島、さらに南のマリアナ諸島にまで分布している。さらに、東京近郊では「茶壷」としてこの大カーミが多用された歴史がある。大カーミは、本来「泡盛酒」が入れられて沖縄県から大量に移出された「琉球南蛮」と呼ばれた酒カーミであった。現在、この大カーミの広汎な分布状況を調べ、近代期に活躍したウチナーンチュの軌跡を辿る作業を進めている。

 私の20数年に亘る沖縄考古学の旅は、やっと「名護湾の考古学」という壮大な研究テーマに行き着いた。そして、この魅力ある沖縄研究の新しいフィールドを、より大切にしたいと常々考えている(おわり)。

2007年4月17日(火)、「琉球新報」文化欄掲載

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