沖縄本島で発見された「港川人」(ホモ・サピエンス)は、日本列島の旧石器人とその文化を考える上で重要な化石人骨である。そして9体近くの発見個体数とほぼ全身骨格が復元可能な人骨資料群は、アジア地域においても群を抜いた良好な更新世人骨と評価されている。この港川人については、東京大学人類学教室関係の人類学者達によって詳細に研究され、多数の論文や解説文、そして『本報告書』(英文)が出版されているが、現在科学研究費「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」(国立科学博物館人類研究部)の一環として、沖縄県立博物館・美術館と沖縄更新世遺跡調査団によって港川人の再検討と南城市の「ハナンダー洞穴」(2006)、「武芸洞」(2007・2008)の発掘調査が行われ、沖縄における「旧石器時代」の追跡研究が進行中である。
こうした人類学方面からの研究の進展に対し、考古学方面からの「港川人」の評価はいかなるものであろうか。現在、沖縄県内から発見された「旧石器時代の石器」と考えられる資料は、山下町第1洞穴出土の「敲石(磨石)2、礫器1」の3点だけである。残念ながら「港川フィッシャ−」からは、港川人の使用した道具類(石器・骨角器)の発見は無かった。こうした現状から、沖縄における旧石器時代の考古学的研究は、まず更新世化石人骨が出土した場所(洞穴・フィッシャ−)の「遺跡」としての総合分析が必要であろう。言い換えれば、その場所が自然の人骨・動物骨の堆積地(遺跡ではない)なのか、それとも人間が関与した場所(遺跡)なのかという重要な解釈法である。
本稿は、筆者も調査指導員の一員として関係させて頂いた具志頭村(現在:八重瀬町)教育委員会の1998(平成10)年から4ヵ年間に亘る「港川フィッシャ−」の発掘調査成果を核にし、この場所が旧石器時代から沖縄貝塚時代前期(縄文時代相当)に利用された「遺跡」としての意義を考察するものである。
1967(昭和42)年11月、那覇市の実業家大山盛保氏は自宅庭園に池を作る為、地元の石切場オーナーから「粟石」と呼ばれる石灰岩30t分を購入した。粟石とは、琉球石灰岩で有孔虫やサンゴ、貝類から構成され、粟おこしに色、質、手触りなどが似ている所から地元でそう呼称されている。また粟石は加工が容易で建設・装飾用材として沖縄では広く利用されている。この港川は、粟石の産地として最も有名な場所でもあった。
大山氏は運ばれてきた粟石の中の粗雑な1個に目を止め、その石の割れ目に泥が詰まりその中に化石が包含されているのを発見した。大山氏は11月2日、この粟石の採石場として有名な港川を訪れ、この化石骨入り粟石が掘り出された地点(フィッシャ−)を確認し、さらに、このフィッシャ−内堆積物中に化石包含層を確認した。そして、これらの化石骨は人骨かも知れないと考え、直ちに琉球政府文化財保護委員会の多和田真淳氏に連絡した。その鑑定の結果は、イノシシの骨であった。
大山氏は、戦前カナダのバンクーバー市で運送業を営んでおり、そこで化石人類の遺物を博物館で観察し、北アメリカのインディアンの狩猟などに興味を持ったという。そうした経験から、港川フィッシャ−から発見された動物化石の背後には、当然それらを狩猟した人間が存在しており、必ず「人骨」が出土するという確信を持っていた。
大山氏はその後も度々現地に足を運び、化石骨採集に没頭した。そして、1968(昭和43)年1月21日にこの「港川フィッシャ−」から、おびただしい量のイノシシ化石と共に「人骨」らしい化石骨をようやく発見したのである(藤野1983、沖縄県立博物館編2002ほか)。
1967(昭和42) 年11月2日、大山盛保氏は、島尻郡具志頭村港川にある採石場で化石包含層を確認し、港川フィッシャ−の存在を発見する。
1968(昭和43) 年1月21日、大山氏は、港川フィッシャ−から化石人骨を発見する。
同年 3月19日、山下町第1洞穴などの調査に訪れた東京大学の鈴木尚、高井冬二、渡邊直經氏らが、大山氏の案内で港川フィッシャ−の予備調査を行う。次いで採集されていた化石骨中に、ヒトの脛骨2、上腕骨1、足の親指、頭骨片が含まれていることを確認する(渡邊1973,1979)。
1968年 3月27日、大山氏は、地表面下15mで化石人骨を発見する。
1968(昭和43)年12月25日〜1969(昭和44)年1月7日、文部省の科学研究費による東京と沖縄の人類学・考古学者の合同発掘調査を実施する。本土側から鈴木尚、高井冬二、渡邊直經、田辺義一、土隆一氏らが、沖縄側から多和田真淳、高宮廣衞、野原朝秀、玉城森勝、知念勇氏らが参加した。
この調査では、人骨は1片も発見されず、イノシシの化石骨が多量に出土したが、シカは発見されなかった(渡邊1973,1979)。
1970(昭和45)年8月10日、大山氏は、地表面下約20mで完全な化石頭骨と人骨を発見する。
同年8月20日、渡邊氏は、緊急に港川フィッシャ−を発掘調査する。頭骨をはじめ40点ほどの人骨片が出土し、人骨堆積層中の木炭片を年代測定用に採取する。
1970年11月 2日、大山氏は、ほぼ完全な全身骨格を発見する。
1970(昭和45)年12月20日〜1971(昭和46)年1月10日、沖縄考古学会協力の下、発掘調査が行われ、数点の人骨が出土した。この調査は地質学的研究に重点が置かれたが、イノシシしか発見されない人骨層から、数は少ないがシカが出土することも確かめられた(渡邊1973,1979)。
1971(昭和46)年1月9日、東京大学のC-14年代測定結果が出される(Kobayashi・Hirose・Sugino・Watanabe1974)。
1974(昭和49) 年12月23日〜12月29日、発掘調査が行われ、この調査で海水面下約20cmから人骨が発見される(渡邊1973,1979)。
1982(昭和57)年3月、港川人に関する本報告書が出版される(Suzuki and Hanihara eds.1982『The Minatogawa Man』)。
1998(平成10)年から4ヵ年間、地元の沖縄県教育庁文化課指導の下、国庫補助を受けて「史跡指定」に向けた新たな考古資料と化石人骨の発見を目的に、本格的な港川フィッシャ−の発掘調査が実施される(岸本・新里・大城・橋本・馬場ほか2002)。
この調査では、目的とした旧石器時代の「人骨」「石器」などの発見はなかった。しかし崖上調査区の上層部分から、ほぼ一個体分の沖縄貝塚時代前期(縄文時代)の土器が出土している(新里・岸本2002)。
港川フィッシャ−の動物化石は、長谷川善和氏(当時:国立科学博物館)によって概要が報告されていた(長谷川1980)が、1982年の本報告書(英文)には発表されていない。今回の発掘資料による港川人の動物遺骸の全体像は、人類学・考古学上の重要な資料となった(野原・伊礼2002)。
また、出土動物化石骨について、東亜大学の鵜澤和宏氏により人為的な骨損傷の検討が行われた(鵜澤2002)。
港川フィッシャ−は、沖縄県島尻郡八重瀬町(旧:具志頭村)港川字長毛小字ト−ガマ−原に存在する。1998(平成10)年から4ヵ年間行われた具志頭村教育委員会の発掘調査報告書で、初めてこの場所が正式に「港川フィッシャ−遺跡」と呼称された(岸本・新里・大城・橋本・馬場ほか2002)。
遺跡は那覇市の南方約10km、八重瀬町の東海岸部に流出する雄樋川に面した、約13万年前頃に形成された牧港石灰岩と呼ばれる標高20mの平坦な海岸段丘に位置する。この八重瀬町周辺には東北−南西の走向をもつ、数キロの長い断層が台地面に確認される。その南端が石切場(粟石採掘)の崖面に高さ約20m、幅約1mの「フィッシャ−(裂罅)」として露出している。このフィッシャ−は一種の張力破裂で生じた亀裂と考えられ、最下部では約40cmの幅しかないが、ほぼ海面レベルまで達している。フィッシャ−内の堆積物は赤褐色粘土で、石灰角礫岩を包含している(沖縄県立博物館編2002)。
港川フィッシャ−の堆積物の表面に、平行する方向の横軸を x縦軸をyとして、2m単位の x軸 (東から西に A〜Eまで) と 1m単位 y軸 (上から下へ 1〜6まで) の 2m2のブロックが設定された。
人骨はA2区からD6区にかけて、斜めに下がるような集中域で出土した。港川 I号人の全骨格は頭を下方にして発見され、IV号人はA2区〜3区及びC3区〜4区の 2個所に分かれて出土した。その他の人骨は散乱する状況で発見された。国立科学博物館の馬場悠男氏によると、人骨は上部(上部港川人)と下部(港川人)に分かれて発見されたという(沖縄県立博物館編2002)。
イノシシ、シカの化石骨は群馬県立自然史博物館の長谷川善和氏の見解では、シカの化石はより下層に純粋に出土し、イノシシはシカの層に若干発見されるが、上層に向かって急激に個体数が増加していく様子が窺えるという(沖縄県立博物館編2002)。
沖縄洪積世人類発掘調査団の調査地を中心に、フィッシャ−の広がりを確認する作業が行われた。発掘はフィッシャ−に沿った部分を、大きく崖上区、崖中区、崖下区に3区分され2m単位のグリッドを設定して行われた(岸本・新里・大城・橋本・馬場ほか2002)。
現在の地表レベルに確認できる南北のフィッシャ−走向に沿って、幅3mで長さ8mのトレンチが設定された。表土は客土で、その下に幅2.5mのフィッシャ−の溝が確認された。約2mの深さから1個体分の「土器」が、原位置で潰れた状態で出土した。また土器の傍らには1点のイモガイが発見され、何らかの「遺構」とも考えられている。
層序は、地表面から1.3mまでは客土、その下は攪乱の琉球石灰岩の風化土(島尻マージ)が堆積し、下底部は砕石掘削面である。この下部に、石灰岩礫混じりの赤土層が一部存在しシカ化石も発見された。土器とイモガイは最下底の鍾乳石床面に確認され、この赤土層の堆積以前に残されたものであった。
また、現在垂直の崖面に確認されるフィッシャ−を、幅70cm、長さ4mの深さまで横穴状に発掘した。上層部は現代のゴミを含む攪乱土(第I層)で、その下(第II層)には空洞が認められている。
層序は、第I層は赤褐色土で攪乱部。第II層は石灰塊を含む暗褐色土で、イノシシ化石出土。第III層は石灰岩角礫を含む粘土層で、無遺物であった。
客土を5mほど除去すると、海抜0mでフィッシャ−の溝が露出した。このレベルは崖上から約20m下位にあたり、フィッシャ−の溝は約70cmの幅であった。発掘は湧水をポンプアップしながら、海抜-1mまで10cm単位で掘り下げ、そこでシカやイノシシなどの化石骨が発見された。
層序は、水中の発掘調査なので確認できなかった。
1970(昭和45)年8月20日の渡邊直經氏らの発掘調査で、地表面下約20mで頭骨をはじめ40点ほどの人骨片が出土し、人骨堆積層中の木炭片を年代測定用に採取した。この試料がC-14年代測定法で、18,250±230yr.B.P. (TK-99)、16,600±650yr.B.P. (TK-142)と出された(Kobayashi・Hirose・Sugino・Watanabe1974)。
横山祐之氏による人骨の非破壊ガンマ線法によるウラン系列年代測定法で、ウラン−プロトアクチニウム法で19,200±1,800年前、ウラン−トリウム法で19,200年前と出された。しかし、骨についてウランは、付加・溶脱のある開放系という特異な原理的問題が付随するため信頼性に欠けると言われている(横山1992、松浦・近藤2000)。
また動物相の様相では、約20,000〜10,000年前(更新世末期)と推定されている(長谷川1980)。
松浦秀治氏(当時:国立科学博物館)は、フッ素分析値で第I号頭骨(1.29%)、第II号頭骨(0.87%)、第IV号頭骨(1.00%)、下顎骨A(1.20%)、脊椎骨(1.51%)、肋骨(1.27%)、指骨(1.43%)、中足骨(1.65%)で、平均0.87〜1.65%の値から後期更新世の後期の人骨と推定した。ちなみに、沖縄貝塚時代の知花貝塚人骨(約2.000年前)は0.15%〜0.23%の値であった(Matsuura1982,1999,松浦1984,)。
近年、お茶の水女子大学の松浦秀治・近藤恵氏らは、年代学的・堆積学的情報を基礎にして、化石骨出土レベルによって上位(レベル1〜4)と下位(レベル5〜8)に分けてフッ素分析を行った。その結果、イノシシは0.57%〜1.52%、シカは0.98%〜1.68%、そして人骨は0.87%〜1.65%で、シカに対比されることが判明した。さらに、フッ素分析データからフェーズa(イノシシ・シカ並存期)とフェーズb(シカ絶滅後、イノシシは存続)に区分し、港川人骨はそのうちのフェーズaと同時期と判定された(松浦・近藤2000)。
1998(平成10)年から4ヵ年間行われた具志頭村教育委員会の発掘調査でもC-14年代測定も行われ、崖上の土器包含層のイモガイの貝殻が8,640±90(TKa-12090)、同じ崖上の土器包含層の腐植土壌が8,550±290(TKa-12364)、崖下の腐植土壌が13,460±110(TKa-12163)と出された(橋本・吉田ほか2002)。
1968年に発見された人骨群である。右上腕片、右尺骨片、左寛骨片、右大腿骨片2、左右脛骨片、右距骨、左第一中足骨(人工的な小孔がある)からなる。内容は男性1、女性1ほかある複数個体があった(馬場1984、楢崎・馬場・松浦・近藤2000) 。
この上部港川人はフッ素分析で0.78%〜1.32%(平均0.997%)の値が出され、港川人より新しい段階(約14,000年前頃) の人骨とされている(松浦1984,1999、松浦・近藤2000)。
1970年に発見された人骨群である。多くて 9体分(うち2体は男性、他は女性)、少なくとも 5体分以上のアジアで最も重要な更新世人骨である。個体としてまとまるのは次の4体である(Suzuki and Hanihara1982、Suzuki1982、鈴木1983,1996,1998,Baba and Endo1982、Hanihara and Ueda1982、国立科学博物館編1988,Baba and Narasaki1991,馬場2002,2005、Baba ・ Narasaki・Oyama1998,楢崎・馬場・松浦・近藤2000、沖縄県立博物館・美術館編2007ほか多数)。
第I(1)号人骨―熟年 (現代人の20歳後半〜40歳台) 男性。ほぼ全身の完全骨格が残っており、顔面部や顎の特徴が分かるのはこのI号人骨のみである。歯の磨耗が著しい。身長およそ 153cm、頭蓋容積は1,390cc (現代人男性平均1,500cc, 女性平均1,330cc) 。頭示数は81.3の短頭型。原始性の特徴である横後頭隆起が認められる。レントゲン写真でハリス線と呼ばれる横線が多く認められ、これは成長期に栄養不足や病気などで成長が止まった証拠とされている。
第II(2)号人骨― 熟年女性。頭骨は脳頭骨、顔面部は鼻骨上部と頬骨上部が残存している。腰椎という腰のあたりの脊椎のいくつかが癒合して一つの骨になっている。これは現代人では年をとると良く見られる現象である。したがって、4体のなかで最も高齢だと推定できる。肩幅はせまく、腕の骨はほっそりとしているが、骨盤と大腿骨は比較的しっかりとしている。つまり上半身が華奢なわりに、下半身がしっかりしている港川人の共通した特徴が良く現れた人骨である。身長およそ 150cm 。頭蓋容積1,170cc。頭示数は80.7の短頭型。外耳道後壁に小さい骨腫がある。原始性の特徴である横後頭隆起が認められる。
第III(3)号人骨― 壮年女性。頭骨はないが、四肢骨は4体のなかで最も保存のよい人骨である。小柄な港川人のなかで、最も身長が高い人骨でおよそ156cmある。脛骨にはI号人骨と同様なハリス線が認められ、自然環境に左右される狩猟・採集生活を生き抜くことは簡単なことではなかったことを物語っている。
第IV(4)号人骨― 熟年女性。脳頭骨は左側頭骨を欠く。顔面部は鼻骨上端、右頬骨、右上顎骨が、四肢骨、骨盤などが残存している。身長144cm 。頭蓋容積1,090cc。頭示数は78.4の短頭型。外耳道後壁に小さい骨腫が認められる。原始性の特徴である横後頭隆起が認められる。また上腕骨下端部 (肘) に左右ともに人為的損傷 (切断、打ち割り) が認められ、尺骨の肘頭が後方から同じように打ち欠かれている。これは死後に腕を伸ばした状態で、まず腕が逆に曲げられて上腕骨下端が破断し、更に肘関節の後側やや下方の肘頭の部分が石器か何かで傷つけられたものと推察される。つまりこれは何らかの「葬送儀礼」が行われた結果の傷と考えられる。
下顎骨1―若い女性。下顎骨の中切歯 2本が失われ、歯槽が吸収されている。「抜歯」の可能性がある。これは日本最古の抜歯の証例と考えられている。
港川人を代表する第I号人骨(男性,20歳〜30歳代)を中心にその特徴をみると、頭は現代人に比べ上下に低く幅が広い。頭の骨が厚いので、脳容量は少なく1,390cc程度。顔は眼のまわりと頬が広く、頑丈な造りで顎も張り全体的に四角い。眉間はでっぱり鼻根が窪んでいるので鼻背は高く、立体的である。いわゆる彫りの深い顔立ちである。歯はスンダ型で内外径が大きく、磨り減りかたが激しい。つまり堅く粗雑な食物をあまり調理することなく食べ、歯を道具の代わりに酷使していた様子がうかがえる。
身長は大腿骨の長さから判断して、男子で150cm〜153cm、女子で143cmであり、現代人(男子、平均170cm) に比べ、かなり小柄で低い。骨盤や下腿の骨は発達している。下半身は身体に相応してしっかりしており、走るのには好都合だったと思われる。しかし鎖骨は短く、上腕骨は細く、上半身はずいぶん華奢であったにも拘わらず、手は比較的大きく道具を掴む力は強力であったろう。港川人の形態特徴からみると、少ない食物を食べ、栄養状況はあまり良くない。また放浪性の高い採集狩猟生活を送り、大きく頑丈な顔と、少ない栄養で賄える最小限の身体が備わっていたと考えられる(馬場2002,2005)。
長谷川善和氏(当時:国立科学博物館)により分類され、絶滅種のリュウキュウジカ、リュウキュウムカシキョン、オオヤマリクガメがいて、現存種ではイノシシ、ケナガネズミ、トゲネズミがいる。特にカエル類が多数発見され、それはホルストガエル、オキナワアオガエル、イシカワガエル、ハナサキガエル、リュウキュウアカガエル、ヌマガエル、ナシガエル、ヒメアカガエルなどであった。ハブも発見され、ヤンバルクイナも出土している(長谷川1980、沖縄県立博物館編2002)。
琉球大学の野原朝秀と伊礼信也氏らによって、詳細な発掘成果が公表されている。出土した脊椎動物化石は4網23種であった。内容は哺乳類ではコウモリ、ケナガネズミ、リュウキュウイノシシ、リュウキュウジカ、リュウキュウムカシキョン。鳥類ではハシブトガラス、アオバト、リュウキュウカラスバト、ヤンバルクイナ。爬虫類ではハブ、ヒメハブ、ガラスヒバア、アカマタ、リュウキュウヤマカメ。両生類ではホルストガエル、ハナサキガエル、ナミエガエル、イモリの仲間などであった。
こうした動物の生活環境は、森林に覆われ水源の豊富な、現在の山原(ヤンバル)の動物相に近いとされる(野原・伊礼2002)。
港川フィッシャ−遺跡からは、上層部から沖縄貝塚時代前期(縄文時代相当)のほぼ完形の「土器」と、その傍からイモガイ(クロフモドキ)1点が発見され「遺構」と考えられている。
この土器は、口径22.1cm、器高は39.7cmの大型深鉢形土器である。口縁外面に沈線による波状文を13条巡らし、底部は砲弾形の尖底土器である。色調は黒褐色で、器面は表裏面ともに丁寧なナデ調整が施されており、器壁は口縁で6mm、胴部で89mm、底部近くで11mmである。この土器型式は沖縄貝塚時代にはまだ類例が確認されていない新しい土器で、器形などから貝塚時代前期に相当するのではないかとされている(新里・岸本2002)。
またC-14年代測定が行われ、この土器の傍から出土したイモガイの貝殻が8,640±90(TKa-12090)、同じ崖上の土器包含層の腐植土壌が8,550±290(TKa-12364)と測定される(橋本・吉田ほか2002)。
この年代は、これまで沖縄で確認された最古の土器文化(爪形文)が約6,500〜7,000年前と測定されている現状から、この土器の年代値である約8,500年前というのは驚きである。それにより現在沖縄最古の「南島爪形文土器文化」(岸本1997、伊藤2006)より、1,000年以上も古い土器文化の可能性が出てきた。今後の類例の発見と検討が待たれる。
港川フィッシャ−の下層部から出土した港川人は、それぞれ1体分がまとまって発見されていることが特徴である。これは別の地点から二次的に再堆積したようなものではなく、この割れ目(フィッシャ−)に誤って転落したか、死後まもなく運び込まれ投棄された原位置的な出土と考えられる。しかし 9体近くの個体が集合して発見されていることから、なにか重大な要因が有りそうで、最近この場所は生活場や割れ目に落ちた事故現場ではなく、港川人の「墓場」ではないかとの推測も成り立つ(馬場2002,2005)。
発掘調査で港川人と狩猟動物を考察する上で重要な事実が判明した。それはリュウキュウジカが下層部に集中的に発見され、港川人骨群(上部港川人も含む)が発見された上層部にイノシシが出現し、急激に増加していく傾向が認められたことである。まだ石器、骨角器などの人工品や遺構などが確認されていないので、どういう方法(弓矢、落とし穴など)でこのイノシシを捕獲したかは不明であるが、港川人の主要な狩猟動物であったことは明確である。
琉球列島ではシカは更新世の動物で、イノシシは完新世の動物とされていたが、この常識が港川フィッシャ−の調査で訂正されることとなった。つまり、港川人が生活していた後期更新世の後期頃(約18,000年前)には、沖縄本島に多数のイノシシが生息していたのである。一方同じ沖縄本島の山下町第1洞穴(約32,000年前)からは、シカしか発見されていないことから、イノシシの渡来の時期は最終氷期極相期(約20,000〜18,000年前)の海面低下(現在より約140m〜80m低下)による「陸橋成立」と関連した事象と考察されている(長谷川1980) 。しかし、琉球列島におけるこの時期の陸橋存在の有無については、現在までに多くの新説(木村1996、大城2001、黒田・小澤1996、氏家1998)が提示されてきたが、従来からの日本第四紀学会の「最終氷期極相期においても琉球列島は大陸や台湾と繋がらなかった」という説(町田2001、町田・大田・大村・河名2001)を越えるものではない。つまり琉球列島は更新世後期において、黒潮海流が貫流する「島嶼環境」であったと考えられる。
1998(平成10)年から4ヵ年間行われた具志頭村教育委員会の発掘調査で、出土動物化石骨について東亜大学の鵜澤和宏氏により人為的な骨損傷の検討が行われた。その結果は骨の破砕は自然的なものであったが、崖下A区崩土240cm以下出土のリュウキュウイノシシ右肩甲骨1点に、人為的な打撃痕の可能性がある損傷が観察されている(鵜澤2002)。
港川人を最初に研究した東京大学の鈴木尚氏は、形質学的特徴から次のように考察している。眉間と眉稜が発達し顔が幅広い低型で、眼窩も低くその上縁が水平であることから、中国華南地方の低身・低顔型の「柳江人」に類似し、日本の縄文人にも基本的形態で一致すると指摘した(Suzuki1982,鈴木1992,1996,1998)。
山口敏氏(当時:国立科学博物館)は、港川人と同じ眉間の高まりや眼窩周辺の形態が、東南アジア地域のジャワ島の「ワジャック人」にも似ており、また港川人のル−ツは更に南に辿れる可能性を示唆している。さらに考古学的成果では日本列島の旧石器群は北方的であるのに、化石人類の指し示す方向が南方的なのはどうしたことかとも述べている(Yamaguchi1992,山口1990,1996)。
国立科学博物館の馬場悠男氏は、港川人を総合的に考察し、アジアの現代型ホモ・サピエンス(新人)の中ではワジャック人(インドネシア)に最も近く、山頂洞人(中国北部)、柳江人(中国南部)とはそれほど似ていない。しかし港川人は縄文人の祖先と考えられるが、東南アジアからきたと短絡するのではなく、むしろ東南アジアから北東アジアに至る太平洋沿岸部に元々住んでいた不特定の集団に起源を発していると述べている(馬場2002,2005)。
近年、東南アジアやオーストラリアの人類学的研究が進展してきており、港川人の故郷もこうした南の「スンダランド」や「サフールランド」地域との関連が論議される日もそう遠くはあるまい(海部2005,2009)。
沖縄における旧石器時代の遺跡は、「更新世化石人骨」が出土した8ヵ所の洞穴とフィッシャ−しか知られていない(安里・小田ほか編1998)。またそれらの場所から発見された「考古学的資料」として、山下町第1洞穴(小田2003)やカダ原洞穴(小田2007)の「敲石・磨石・礫器」などがあるが、まだ検討の余地が残されている現状である。
近年、名護市周辺の沖縄貝塚時代前期や後期遺跡出土石器の中に、明らかに他の石器類とパティナ(古色)が異なる「チャート製剥片石器」が混在している事実を確認している。まだ「原位置」での出土はないが、今後の沖縄における旧石器時代の確かな「石器」発見作業の前段として期待される資料と思われる。
一方、沖縄本島北側の鹿児島県側の奄美諸島や種子島で、多くの「旧石器時代遺跡」が確認され、各種の石器類や礫群・炭化物・炉址などが発見されている。その成果を見ると、さらに北側の九州本土とは、やや石器群様相は異なっている(小田1997ab,2003)。とすると沖縄の旧石器文化は、南側の台湾島や中国南部地域、さらに南の東南アジアと関係するのであろうか。加藤晋平氏(当時:國學院大學)は琉球列島の旧石器文化は「不定形剥片石器文化」と呼ばれる東南アジア島嶼型(大陸沿岸部も含む)の旧石器文化の一員だと位置づけている(加藤1995)。
ともかく、沖縄地域で32,000年前の「山下町第1洞人」や、18,000年前の「港川人」たちが使用した確かな「旧石器」の発見が1日でも早く待たれているのが現状である。
港川フィッシャ−は具志頭村(現:八重瀬町)教育委員会の発掘調査で、フィッシャ−崖上区からほぼ完形の「土器」とイモガイが伴う「遺構」(土擴)と考えられる地点が確認された。この考古学的遺物・遺構の発見は、この場所で沖縄貝塚時代前期(縄文時代相当)人の利用があった確かな証左であった(新里・岸本2002)。
残念ながらこの調査では、過去に「更新世化石人骨」(港川人、上部港川人)が多数発見された崖下部から、人骨や石器、骨角器などの発見はなかった。しかし、出土したイノシシ化石骨中に、石器による人間の損傷の可能性がある資料が確認されている(鵜澤2002)。また、すでに発見されていた第IV号女性人骨には、人工的な傷と左右の上腕骨の下端が折り取られ、さらに左右の尺骨の上部後方がえぐり取られている。これは葬送儀礼を行った証拠とも考えられ、この港川フィッシャ−が「墓場」ではないかとも推察されている(馬場2002,2005)。
以上のことを総合すると、この港川フィッシャ−は先史時代の「遺跡」と考えられ、具志頭村教育委員会報告書のタイトルが示すように「港川フィッシャ−遺跡」と呼称されて然るべき場所である(岸本・新里・大城・橋本・馬場ほか2002)。これまで、この場所に人間の関与が明確でなかったとして、埋蔵文化財の「遺物包蔵地」(遺跡)の登録が躊躇された経緯があったことを聞き及んでいる。これから港川フィッシャ−遺跡は、考古学的・人類学的にアジア地域の最も重要な先史遺跡の一つとして位置づけることができる。
また、2007(平成19)年港川人の化石人骨の一部(第III・IV号)が、このたび「東京大学総合研究博物館」(第I・II号ほか保管)から新しく開館した「沖縄県立博物館・美術館」に返却され公開展示されたことは、「ウチナーンチュ」のルーツを知る上で喜ばしい限りである。
終わりに、本稿を草するにあたり多くの諸先生・諸氏・諸機関にお世話になったことを御礼申し上げると共に、ここにお名前を明示し心から感謝に代えさせて頂きたい。(順不同)
安里嗣淳、岸本義彦、新田重清、嵩元政秀、高宮廣衛、上原 静、知念 勇、池田榮史、盛本 勲、新里尚美、長谷川善和、大塚裕之、春成秀爾、小野 昭、山口 敏、佐倉 朔、馬場悠男、松浦秀治、海部陽介、吉田邦夫、徳永重元、橋本真紀夫、大山盛弘、八重瀬町教育委員会、八重瀬町立具志頭歴史民俗資料館、沖縄県教育委員会、沖縄県立埋蔵文化財センター、沖縄国際大学考古学研究室、名護市教育委員会、沖縄県立博物館・美術館、パリノ・サーヴェイ研究所、東京大学総合研究博物館、国立科学博物館