多摩考古 第47号 2017年5月発行 pp.1-15 (※原文縦書きのため本文中は漢数字のママ)

世界最古の磨製石斧と栗原遺跡
−列島最古の旧石器文化を探るE−

小田静夫

はじめに

 東京の西郊に広がる武蔵野台地は、関東山地南部の山梨県に源を発した多摩川が山間部渓谷を東流し、急に平野部に流れ出る青梅市を頂点に、北西を入間川に北東を荒川に画された長方形の洪積台地である。また、この台地は隆起扇状地とも言われ、西端の青梅で標高一八〇m、立川で八五m、吉祥寺で六〇〜五〇m、新宿で四〇m、一番端の山の手で三〇〜二〇mと順次低くなっている。そして武蔵野台地の扇央部(標高約六〇m)には、地下水が湧き出す遊水池が一列に並んでいる。この湧水地点を源流にして、多くの小河川(黒目川、白子川、石神井川、善福寺川、神田川など)が台地を侵食し小支谷を形成し東流し ている。

 東京都栗原遺跡は小平市鈴木町(鈴木遺跡)を源流にした石神井川が、板橋区と練馬区に入るあたりの田柄川と合流する地点の西側に位置し、現在は「都立城北中央公園」内に存在している。この栗原遺跡と石神井川を挟んだ東側には、旧石器研究史上著名な板橋区「茂呂遺跡」が存在している。栗原遺跡の発見は、石神井川流域をフィールドにしていた考古少年グループが、一九三八・三九(昭和一三・一四)年に日本最古と考えられていた「縄文文化」の最古型式の「撚糸文土器」を採集したことに始まる。

 一九四九(昭和二四)年群馬県岩宿遺跡の発掘調査で、日本に縄文時代以前に「無土器文化」の存在が確認された。一九五一(昭和二六)年には東京でも茂呂遺跡の発掘調査が行われ、対岸の「栗原遺跡」にも無土器時代の存在が確かめられた。栗原遺跡はその後多くの発掘調査が行われるが、大きな成果を上げた調査は東京都文化課が行った一九七三(昭和四八)年の確認調査であった。この調査で驚くことに、「立川ローム第X層」(約三万二〇〇〇年前)から「磨製石斧」の発見があった。当時の研究では、長野県茶臼山遺跡、同県杉久保A遺跡から磨製石斧が出土し、また千葉県三里塚No55遺跡からも磨製石斧の発見もあったが、その所属時期や層位、年代について未確定な状況下にあった。こうした現状の中で、「関東ローム層」の研究が最も進んでいた東京・武蔵野台地の遺跡での「確かな層準」からの出土は、日本の旧石器研究史上の画期的な成果となった。

 本稿では、栗原遺跡で発見された「日本最古の暦製石斧」(世界でも最古)をテーマに、旧石器時代の磨製石斧の問題を探ってみることにしたい。

1 栗原遺跡の調査史

(1)日本最古の土器を求めて

 一九四九(昭和二四)年群馬県岩宿遺跡で「旧石器文化」が発見される以前は、日本最古の文化は「縄文時代」であった。この最古の文化を求めて、東京郊外の武蔵野台地を流れる石神井川流域をフィールドにして、当時中学生であった「考古少年グループ」(白崎高保、江坂輝禰、吉田格、芹沢長介)による遺跡探索が進められていた。一九三七(昭和―二)年板橋在住の白崎高保(順天中学生、一五歳)は、上板橋方面へ早期縄文式土器を採集に出かけた。その途中で稲荷臺付近の工場造成地で、数点の撚糸文が施された土器片を採集した。白崎はこの土器を山内清男(先史考古学会、三五歳)に見せて教示を願ったところ、慎重に調査を進めるよう注意があった。一九三九(昭 和一四)年二月二八日、白崎は再度「稲荷台遺跡」を訪れ、土器尖底部と「押型文土器」(山形文)を発見した。当時、この押型文土器は日本最古の土器とされていた。白崎は発掘を決意して山内清男に相談したところ、東京帝國大學人類學教室の長谷部言人(五七歳)の申請で調査が出来るようになった。発掘調査は四月二六日〜五月一日で、白崎高保(一七歳)、江坂輝禰(一九歳)、吉田格(一九歳)と写真担当の芹沢長介(二〇歳)らが参加した。ところが、この発掘実施を知った山内は、白崎に連絡して次の日曜日(五月七日)に自身で発掘するという事態が生じている(山内一九六九、芹沢二〇〇五)。

(2)最古の土器は関東ロームに食い込んで出士

 稲荷台遺跡の発掘調査で撚糸文土器が、黒色土の下に厚く堆積していた「赤土」の最上部軟質部(ソフトローム)に一〇cm程食い込んで発見される事実が確認された。この赤土は岩宿遺跡で「旧石器文化包含層」と判明する前は、火山活動が活発な時代で人間の生活痕跡(遺跡) が無い地府と考えられていた。したがって当時の発掘調査は、遺構・遺物が包含される黒色土や黒褐色土層が終了すると、その下の赤土陪にまで掘り下げられることはなかった。ところが最古の撚糸文土器が無遺物陪と考えられていた赤土層に深く食い込んで発見される事実が重なったことで、古い先入観を持たない若い考古少年たちは、日本最古の文化を求めて赤土層に探索の目を向け始め、岩宿遺跡や茂呂遺跡の大発見に繋がったことは良く知られている(芹沢二〇〇五)。

 白崎高保は一九三八・三九(昭和一三・一四)年に同じ石神井川流域の栗原遺跡を訪れ、撚糸文様の土器片と尖底土器片、そして刃部磨製石斧を発見した。この稲荷台遺跡と栗原遺跡の両調査結果に基づき、一九四〇(昭和一五)年一二月、若手考古学者の座談会が東京・中野駅前の明治屋二階で開催され、「稲荷台式」と「栗原式」とに命名され発表された。白崎は翌年八月には、「稲荷台式→栗原式→石神井式→赤塚式」という撚糸文土器の最初の編年試案(白崎編年と呼ばれる) を発表している。この栗原遺跡で発見され「栗原式」と命名された撚糸文土器型式は、その後の研究史では消滅してしまったが、現在の縄文土器編年では早期の平坂式あるいは花輪台II式に相当するという(白崎一九四一、板橋区立郷土博物館・守屋編二〇〇五)。

(3)栗原遺跡の発掘調査

 武蔵野台地の中央部を流れる石神井川の両側、東京都板橋区桜川と練馬区氷川台にまたがる都立城北中央公園内に「栗原遺跡」(板橋区遺跡一〇六番、練馬区遺跡一二九番) が所在している。この場所は、一九四二(昭和一七)年防空緑地として整備され、一九五六(昭和三一)年セントポールスグリーンハイツと呼ばれる立教学院の総合グランドが建設され、一九五七(昭和三二)年公園として整備され、一九七〇(昭和四五)年に「都立城北中央公園」として開園された。

@茂呂遺跡と栗原遺跡の発見

 栗原遺跡の発見は、白崎高保が一九三八・三九(昭和一三・一四)年に現地を訪れて、縄文時代最古の撚糸文土器と刃部磨製石斧を発見したことに始まる(白崎一九四一)。

 戦後になって、一九五一(昭和二六)年一二月二九日、中野区立第六中学校の卒業式を終えたばかりの瀧澤浩(一五歳)は、石神井川の板橋区小茂根のオセド山の中央を南北に切り貫く栗原新道の切り通しの赤土(ローム層)の断面で、黒曜石製の剥片と焼けた礫数点が顔を出しているのを発見した(後の「茂呂遺跡」)。四月に入って都立武蔵丘高校生になった瀧澤は、オセド山から石神井川を挟んだ対岸の「板橋区仲町栗原山」を訪れ、やはり地層断面に発見された土器、石器露出地点を発掘する。その結果、上層の黒褐色土陪からは最古の縄文土器であった撚糸文土器(稲荷台式)を、下層のローム層中からは多数の黒曜石製剥片、木炭片、焼礫などを発見する(瀧澤一九五二・一九五三、板橋区立郷土博物館・守屋編二〇〇五)。 瀧澤はオセド山のローム層中発見の黒曜石製石器を、同じく石神井川流域で撚糸文土器を探索していた私立武蔵高校生の佐原真に見せたが良く分らないと言われ、六月下旬になって都立井の頭公園内にあった「武蔵野博物館」の吉田格と甲野勇のところに持参した。吉田は滝澤の案内で早速オセド山を訪れ、ローム層下三〇cmに拳大の焼礫が存在することを確認した。また対岸の「栗原」にも行き、同じようにローム層中に焼礫が存在していることを確かめた(吉田一九九二)。

 吉田は博物館を訪ねてきた友人の芹沢長介(明治大学大学院生、明治大学考古学研究会委員長)にオセド山の石器の話をすると、芹沢は岩宿調査の経験から武蔵野博物館と明治大学考古学研究会との共同発掘を提案した(芹沢二〇〇五)。話はすぐにまとまり、芹沢は文化財保護委員会に発掘届を提出し地主との交渉も行った。かくて七月一〇日〜二〇日に板橋区「茂呂遺跡」の発掘調査(参加者:杉原荘介、大塚初重、岡本勇、吉崎昌一、中山淳子、芹沢長介、吉田格)が実施された。これが群馬県岩宿遺跡に次ぐ、東京地方で最初の旧石器時代遺跡の正式 な発掘調査であった(杉原・吉田・芹沢一九五九)。

A栗原遺跡の発掘調査

 一九五一(昭和二六)年七月の茂呂遺跡調査後、一〇月二二日〜二五日、一一月三日・四日、明治大学考古学研究会(岡本勇)と武蔵野博物館(吉田格)による「栗原遣跡」の発掘調査が行われた。その結果、ローム層上面より約二〇cmの深さにかけて多量の礫からなる「礫群」があり、その付近からは黒曜石、珪岩の剥片が分布し、炭化物の散布も認められた(岡本一九五五)。

 一九五五(昭和三〇)年二月、瀧澤浩(都立武蔵丘高校生)と榎本金之丞(都立市ヶ谷高校教諭)は、再度、栗原遺跡の発掘調査を行った。その成果は、ローム層最上部の軟質部分(ソフトローム)と硬質部分(ハードローム)の境に、黒曜石製の拇指型掻器、礫群などが確認され「細石器文化」の存在を示唆する狡料であった。しかし、それ以上の拡張や深層部への追及が行われなかったのは、当時の学界の研究状況では仕方がないことであったという(直良・杉山一九五七)。

 同年一二月〜一九五六(昭和三一)年一〇月にかけて、立教学院の総合運動場建設に伴う発掘調査が、立教大学の中川久夫を担当者にして第一次\六次まで行われた。この調査中の一九五六年三月〜五月の第四次調査で、叩懸跡最南端の台地南斜面(-九五一年明大、武蔵野博調査個所)に九ヵ所のピットを設定し、無土器文化の調査が行われた。

 この発掘調査で、栗原遺跡は無土器時代、縄文時代、弥生時代、そして奈良・平安時代にかけての大集落遺跡であることが確認された。また調査後の一九五六(昭和三一)年、東京大学の藤島亥冶郎博士の設計で奈良・平安時代の竪穴住居跡一軒が復元された。(立教大学文学部編一九五七)。

 一九五九(昭和三四)年オセド研究会の大澤鷹邇、柴崎孝らは、栗原遺跡の三ヵ所からナイフ形石器、石刃、スクレイパーなどを採集している(大澤・芝崎一九五九)。

2 日本の旧石器時代に磨製石斧

(1)東京都文化課の確認調査

 一九七二(昭和四七)年九月、都建設局公園緑地部都市公園課は、都立城北中央公園の整備事業として、明大、武蔵野博調査個所(一九五一年、P地点と仮称) の旧馬場跡、現グラウンドの改造計画を都文化課に相談した。栗原遺跡は、現在、復元家屋が公園内に残っており、旧石器時代(当時、「無土器時代と呼ばれた) の石器類が出土したP地点の崖は、この家屋の南側の石神井川直上に位置している。

 栗原遺跡は一九五一(昭和二六)年と一九五五(昭和三〇)年の発掘調査で、軟質(ソフト)ロームから細石器、硬質(ハード) ロームから礫群が発見されていた。しかし一九七二(昭和四七)年このP地点はグラウンドとして整備され、約二m以上が掘り下げられていた。そうした状況から、都文化課は遺物包含層の有無確認を主目的とした現地調査を指導した。

 調査は一九七三(昭和四八)年四月一八日・一九日、都立公園の整備に伴う遺跡確認調査として都文化課埋蔵文化財係(小田静夫担当)によって実施された。発掘作業は、明治大学考古学専攻生(斉藤基生、織笠昭、宮下健司、伊藤裕助、松尾吉高、伊藤富冶夫、川道究、福士広志) が調査員として参加した。

(2)立川ローム第X層から磨製石斧出土

 確認調査は、まず任意の地点を選定して、グリッドを設定し開始された。まもなくして、各地点の調査員から石器出土の報告があり、しかも包含層は明確な明褐色のやや軟質ローム中であった。そのうち斉藤基生調査員のグリッドから、一点の楕円形で表面がスベスベした大型剥片が発見され写真撮影を行った。早速、公園の水道でこの石器を洗ったところ、刃部を研磨した立派な「局部磨製石斧」であることが判明し、一同驚嘆の歓声をあげたのであった。それもそのはず、当時、無土器文化では長野県茶臼山遺跡、同県杉久保遺跡、それと千葉県三里塚遺跡No55地点の資料などしかなく、いずれも時代的認定(混入か) やローム層準の判定などに議論が存在していた。また有名な群馬県岩宿遺跡や栃木県磯山遺跡例は、「磨製か磨耗か」という論争に決着が着いていない現状であったからである(芹沢一九六五)。

 早速、P地点の崖面に残されたローム層を調べ、掘り下げられた出土層準との対比を行った。その結果、驚くことに想像していたローム最上部のソフトローム層ではなく、さらに数m深い立川ローム第二黒色帯下の「第X層」上部に包含されていたことが判明した。確認調査は事の重大性から一時中断し、都文化課の雪田孝学芸員と文化庁の小林達雄調査官に連絡し指示を待った。翌日、都建設局公園緑地部公園課と都文化課との現地協議を行うことに決定し、P地点は記録作成を行った後に「現状保存」されることになった。

 こうして東京・武蔵野台地の関東ローム層中から、原位置でそれも日本最古の確かな年代を示す地層(第X層、約四万〜三万二〇〇〇年前)から、立派な磨製石斧が出土し「無土器文化」の所産であることが確かめられた意義は極めて大きいものであった。

(3)栗原遺跡の磨製石斧

 磨製石斧は、立川ローム第X層の上部(現在の第Xa層、約三万二〇〇〇年前)に包含されていた。石材は、ホルンフェルス製。
 法量は、最大長八三cm、最大幅六四cm、最大厚一.四cm、重さ七六.六g。
 素材は、扁平の円礫を縦型に半割したような大形自然面付剥片を利用している。形状は、主要剥離面側の周縁を整形加工して楕円形品に仕上げている。

 研磨は、剥離面側に強く、自然面側には弱く認められる。方向は、刃部からやや斜めに認められる。このことから、縦斧(マサカリ)的着柄と使用法が窺える資料である。

(4)栗原遺跡の旧石器文化

 都の確認調査でP地点から、上下三枚の旧石器文化層が確認 された。

 第IV層文化:P地点の北側の崖面を調整中に、多数の焼礫が集中的に出土し、礫群の存在が示唆された。

 第IX下層文化」確認調査地の北西側に発見された石器・剥片ユニットである。立川ローム陪第二黒色帯下部に包含され、合計六点(縦長石刃一点、幅広の縦長剥片三点、横長剥片一点、敲石一点)出土した。

 第X層文化ら帷認調査地の北東側に、比較的広範囲に分布する石器・剥片ユニットである。立川ローム第二黒色帯の下層部に相当する明褐色のやや軟質のローム層である。合計一三点(局部磨製石斧一点、ナイフ形石器一点、礫器二点、剥片八点、石核一点)出土した。この文化層での「局部磨製石斧」の出土は、重要な資料と成果になった(小田一九七六・一九七七・二〇〇三、小田・Keally ―九七三・一九八九、赤澤・小田・山中一九八〇)。

3 磨製石斧とは

 石器時代の世界史で刃部を研磨した石斧、いわゆる「磨製石斧」は、一般的には1万年前以降の完新世の「新石器時代」から登場する石器である。また、磨製石斧は地球上のあらゆる石器文化段階の人々が使用した道具でもあった。そして、これほど便利で多用された磨製石斧も、金属器時代の到来で「鉄斧」が出現すると、やがてその役割を終え消滅しまう運命にあった。

 斧の用途は、木を伐採し、削り、加工する道具である。磨製石斧は森林環境が拡大した「完新世」に、木材の利用が活発化して木の伐採や加工具として、「オノ(斧)」の必要性が高まり誕生したものと言われている。斧には、刃の線(刃線)が柄とほぽ平行する「縦斧」(マサカリ) と、刃の線が柄とほぽ直交する「横斧」(チョウナ)がある。また、「縦横中間斧」と呼ばれるものも存在している。そして、斧の歴史は横斧から出発し、これに縦斧が加わる流れがあるという(佐原一九九四)。

(1)磨製石斧の研究史

@ 最初の発見

 一九四九(昭和二四) 年日本で初めて「旧石器文化」が、群馬県岩宿遺跡で発見された。今まで無遺物層と考えられていた「火山灰」(赤土、ローム)層中に、三枚の旧石器文化(下から岩宿T.U.V)が確認された。この最下層文化(黒色帯中、岩宿T)から出土した2点の両面加工石器は、当時、「ハンドアックス、握槌形石器、握斧形石器、手斧形石器などと呼称され注目された。つまり、この石器は、その形態がヨーロッパの旧石器時代下部(前期)文化段階に伴う「ハンドアックス」と呼ばれる特徴的な石器器種に類似していたのである(杉原一九五六)。

A資料評価と時代論争

 この岩宿T文化発見の二点の両面加工石器を、明治大学の芹沢長介は、「ハンドアックス、握槌」(芹沢一九六〇)、杉原荘介は「敲打器、握斧、楕円形石器」(杉原一九五六)と呼称した。そしてこの石器の解釈として、ヨーロッパ旧石器時代前期の真正なハンドアックスの形態より退化した終末的な段階と考え、年代的には旧大陸の上部(後期)旧石器時代に所属するが、それ以前の「中部(中期)・下部(前期)旧石器文化」の残存形態として位置づけたのであった(杉原編一九六五)。

 一方、東京大学の山内清男と佐藤達夫は、ヨーロッパや東南アジアの磨製石器の出現時期(主に新石器時代)などの論拠から、岩宿Tの両面加工石器の1点が「磨製石器」ではないかとの疑いから、日本の縄文時代以前の石器文化は「無土器新石器時代」か「中石器時代」ではないかと指摘した(山内・佐藤一九六二)。

 こうした意見に対して、芹沢長介は一九六一・六二(昭和三六・三七)年調査の栃木県磯山遺跡出土の磨製石斧状石器(破損品)などを根拠に「磨製・磨耗論争」を展開することになる。この論争は、日本先史時代の世界史的な位置づけを浮き彫りにし、さらにヨーロッパ先史学における磨製石器の編年的位置関係を整理した意義として重要な研究史の一コマであった。しかしこの論争は、その後の長野県茶臼山遺跡(二点)、同県杉久保A遺跡(一点)などで、確かな旧石器文化陪から明確な「研磨痕」をもつ磨製石斧の出土によって、別の解釈へと発展していった。それは「旧石器時代の磨製石器」という、旧大陸の旧石器時代遺跡(ヨーロッパ・ロシアのコスチョンキT遺跡)での磨製石器の存在を根拠にしたものであった(芹沢一九六五)。つまり磨製石器は新石器時代の特徴ではなく、旧石器時代にも存在するという路線変更であった。

B確かな磨製石斧の発見

 一九六〇年代後半から一九七〇年代にかけて東京・武蔵野台地を中心に、旧石器遺跡の大規模緊急発掘が頻発化した。この一連の調査で、厚く堆積した立川ローム層中に一〇枚以上の旧石器文化層が確認され、層位的重複関係で旧石器群の詳細な編年(武蔵野編年) が確立していった(小林・小田・羽鳥・鈴木一九七一、小田二〇〇三・二〇〇九・二〇一四)。

 磨製石斧も一九七三(昭和四八)年、東京都栗原遺跡で「立川ローム第X層」から発掘された(小田・Keally 一九八九)。また一九七〇・七一(昭和四五・四六) 年には千葉県三里塚第55地点でも、下総ローム黒色帯からC-14年代で28,700 + 1,920BP、29,300 + 1,980BPと測定された資料が発見され注目された。こうした初期の発見史で武蔵野台地の大規模緊急調査が実施され、小平市鈴木遺跡(一九七四年) 、杉並区高井戸東遺跡(一九七六年) から多数の磨製石斧が層位的に第X層〜第IX層(約三万二〇〇〇〜三万年前) にかけて出土し、磨製石斧の型式設定や型式変遷などが把握された意義は極めて大きかった(小田・Keally 一九七三、小田一九七六・一九七七)。

 こうして、「関東ローム」の示準地域での確かな層序、年代的裏付けをもって発見された磨製石斧の登場で、日本の旧石器時代に、世界の旧石器文化には類がない多数の磨製石器(斧)が確かめられていった。そして、この石器の名称も「刃部磨製製作石斧」「局部磨製石斧」「斧形石器」などと呼ばれ、今日に至っている(赤澤・小田・山中一九八〇、小野・春成・小田編一九九二)。

C全国的な研究の展開

 一九八〇年代になると、全国規模で旧石器文化の磨製石斧が発見され出した。その分布範囲は、北は東北地方北部から南九州地方にまで及び、現在では約九〇〇点を超える膨大な数に上っている。時期的には、南関東地方の層位的事実から、立川ローム下半部の姶良Tn火山灰(AT)堆積層(第VI層、約二万九〇〇〇〜二万六〇〇〇年前)以前の、第II黒色帯(第VII〜IX層)〜第X層中で、年代にして約三万二〇〇〇〜三万年前頃に集中している(須藤二〇〇七)。

(2)磨製石斧の観察

 旧石器時代の磨製石斧については、多くの報告や論考が発表されているが、ここでは白石浩之が関東・中部地方の例を詳細に考察した論文(白石一九九〇・二〇〇六・二〇一三)を参考に以下に述べる。

@形態

 旧石器時代の磨製石斧は、縄文時代に認められるような「分銅形」「短冊形」「撥形」などのように、定型化した形態を示していない。しかし、その形態を大きく分類することは可能である。その前半期には「楕円形」が多く、後半期になると「短冊形」「撥形」に変化し、全体的に小型化していく傾向が認められる。

A製作

 素材は基本的に三つ、扁平礫使用、扁平礫の表裏半割品を使用、大形自然礫から剥離された剥片使用例に分けられる。その多くは剥片より礫使用が多く、その礫周縁部を僅かに打調し、楕円形、短冊形、撥形に成形し、刃部の一部を研磨している。研磨面はそれほど大きくなく、曲刃、直刃、凸刃などがあり、自然面のカーヴを利用した例も存在している。

B法量

 平均的な大きさは、長さは約八〜一〇cm、幅は約四〜六cm、 厚さは約二〜三cm、重さは約四〇〜六〇gに集中している。

C研磨

 打製だけの例も若干存在するが、研磨が施され「磨製石斧」としての機能を持たせるのが目的と考えられる。研磨部分は刃部を中心にしており、「刃部磨製石斧」とも呼べるものである。刃部の研磨は片面のみの例や、表裏で研磨面積が異なる例、表面が自然面で裏面だけ磨いた例など多様である。また研磨は先端の刃部が中心で、基部の研磨は皆無である。特殊な例であるが、側縁を僅かに磨いた例が若干知られている。

 研磨の方向は、刃部に対して直交するものと、表裏の方向を違えた例もある。さらに、微妙な研磨痕を持つ例も多く、使用による摩耗痕との識別も明確ではない。

D破損

 発見された磨製石斧の多くは完形品で、五〇%以上存在している。欠損品としては、刃部片や基部片、そしてこの二者が欠損した胴部片の出土が多く認められている。また、少ない例として、斧身の縦割れや斜め割れ例がある。 石斧の再生例も多く認められる。

E着柄

 日本列島の旧石器遺跡は酸性のローム層中に遺物包含層があり、有機質製品は消失してしまう運命にあり、低湿地遺跡を多く持つ縄文時代のような磨製石斧を装着した木製柄の発見は望めない。したがって、石器自体の観察から着柄を推測する方法しかないのである。

 まず研磨個所から、磨製が施された形跡のない基部が着柄部分と考えられる。つぎに着柄の方法であるが、基本的に刃部の形態が両刃を呈していることから「縦斧」(マサカリ)が推定されるが、刃付の状況が表裏で同一例が少なく、「横斧」(チョウナ)、縦斧かという区別は難しそうである。ちなみに世界の斧の歴史は、横斧から縦斧へと発展していくと言われている。

F石材

 関東地方の遺跡では、緑色凝灰岩、緑色岩、輝緑岩、砂岩、透閃石岩ホルンフェルス、千枚岩などが使用されている。その特徴として緑色系岩石を多く使用していることから、他の石器石材(黒曜石、頁岩)と異なり、何か「緑色」に意義を持たせたことが推察されている。これは縄文時代に多用された、蛇紋岩製磨製石斧(緑色系石材)の利用意識とも共通しているという。

G使用目的

 刃先は直線例が少なく曲線例が大多数で、単なる木材の伐採・加工や骨の打割用だけではなく、多目的機能、例えば細かい加工、削り、皮なめしなどのスクレイパー的使用も考えられる石器である。

Hその他

 黒色のタール状付着物が、東京都はけうえ遺跡、埼玉県東久保東B地点で確認され、着柄の際に接着剤を使用していた例と考えられる。また、はけうえ遺跡の半割接合例で、着柄部分と刃の部分の表面色調が異なっており、破損してからの二次的遺存状況で変化したものと推察されている。

4 世界の旧石器時代の磨製石斧

 現在、旧石器時代の磨製石斧は、ヨーロッパ、ロシア、オーストラリアなどで発見されているが、日本の例のように三万年を超える古さと、二五〇ヵ所以上の遺跡から九〇〇点以上も出土している地域は確認されていない(小野・春成・小田編一九九二、佐原一九九四)。

(1)ヨーロッパ

 ヨーロッパではフリント製の打製石斧(横斧)が中石器時代(約一万−八〇〇〇年前)に存在し、磨製石斧(横斧と縦斧)は約九〇〇〇年前頃に出現している。オーストリアのヴィレンドルフU遺跡の第8層(約二万五〇〇〇年前)からは、長楕円形の表面が磨製された石器が一点出土している。

(2)ロシア

 コスチョンキT遺跡の第1文化層(14,020 ± 160Y.B.P.)から、両面加工の打製石斧(縦斧)が一点出土し、日本で磨製か摩耗かという有名な議論があった資料である。またアフォントヴァゴラT遺跡(20,900 ± 300Y.B.P.)の下層から、両面加工した片刃磨製石斧(横斧)が一点出土している。

(3)オーストラリア

 南半球の旧石器時代遺跡で、ナワモイン遺跡(21,450±380Y.B.P.)から一六点。マランガンガー遺跡(29,000±11,OOOY.B.P.)から五点の磨製石斧が出土している。オーストラリアのこの種の磨製石器は、自然礫の一端を直接磨いた例が多く、また着柄部分に溝が認められる例もあり、この地域の独特の形態を呈している。縦斧か横斧かの記述はないが、最古の例は横斧的使用が考えられるという。また驚くことに原住民のアボリジニによって、この種の磨製石斧が現代にまで長く受け継がれて使用されている事実である。

5 磨製石斧出現期の様相

 日本の旧石器時代の磨製石斧は、東北地方北部からと九州地方離島部まで約二五〇ヵ所近くの遺跡から約九〇〇点以上出土している。その大半は約三万二〇〇〇〜三万年前に集中し、これは武蔵野編年の「第Tb亜文化期」(「ナイフ形石器文化T」)に相当している。つまり、限られた一時期に、製作され使用された特異的な石器であった(小田二〇〇三)。

(1)武蔵野台地の自然環境

 武蔵野台地の武蔵野・立川ローム層準を調べると、両ローム期の境界線の約四万年前頃は、温暖な気候で広菓樹とスギ属主体の「疎林」が広がっていた。雨が多く度々洪水が発生し、台地上に河川小礫(いも石)が堆積するような環境であった。日本列島に初めて人類(ホモ・サピエンス)遺跡が確認されるのは、この立川ローム最下層部の「第X層文化」(約四万〜三万二〇〇〇年前) からである。現在、一遺跡の層位的上下関係では確認されていないが、より下層部に包含されている「第Ta 亜文化期」(「先ナイフ形石器文化」)と、やや上層部に包含している「第Tb亜文化期」(ナイフ形石器文化T)の二枚の石器群が認められている。その中で磨製石斧が確認される文化期は、第X層上部〜第IX層下部に発見される「ナイフ形石器文化T」の前半期である(小野・春成・小田編一九九一)。

(2) 石刃技法をもつ旧石器人の渡来

 磨製石斧は先ナイフ形石器文化には未だ存在せず、次のナイフ形石器文化Tに集中して発見される。この時期の特徴は、それまでの不定形剥片を使用した錐状石器やナイフ状石器、そして礫器に特徴を持った石器群に代わって、石刃技法を持ち、基部加工のナイフ形石器、横長剥片を使用した台形状石器が登場している。こうした石器群は、先ナイフ形石器文化には認められないことから、新しく日本列島に渡来した石器群と考えることが可能である。いまのところ周辺大陸の旧石器文化との比較は難しいが、「石刃技法」の存在という観点から推定すると、南の東南アジア方面の礫核石器群より、北の剥片石器群(中国北部、朝鮮半島) の旧石器文化との関係を検討していく必要が あろう(小田二〇一三)。

(3) 磨製石斧は日本列島人が開発か

 磨製石斧の出現する「ナイフ形石器文化T」(約三万五〇〇〇〜三万年前) は、立川ローム第X層〜第VII層に位含され、層位的に磨製石斧の形態変遷が読み取れる。現在、立川ローム第X層(下部)からは、人類の生活した痕跡(遺跡)は確認されていない。小金井市中山谷遺跡、同・西之台遺跡B地点の第X層中部から「先ナイフ形石器文化」(約三万五〇〇〇年以前)が確認されたが、この文化層には磨製石斧は確認されていない。その代わり、大型自然礫から剥離された自然礫面付「スクレブラ」(大型削器)や扁平自然礫使用の「チョッパー、チョッピング・トゥール」(片刃、両刃礫器) が出土している。府中市武蔵台遺跡の第Xa 層と第Xb 層からは多くの「磨製石斧」が出土し、下層の第Xb 層例には長楕円形で自然礫面を多く残す資料が確認されている。

 一方、武蔵野台地の磨製石斧の形態的変遷をみると、最古の第X層の段階は自然礫の形状を生かした「楕円形」(わらじ型)例が多く、第IX層になると礫核から剥離した大型剥片利用の「短冊形」「撥形」に変化し、大きさも「大型」から「小型」に変化していくようである(白石二〇一三)。

 磨製石斧は約三万二〇〇〇〜三万年前頃に集中して発見され、これは「世界最古」の年代を示し、その量も九〇〇点以上という大量に存在する特異な石器ということができる。この日本列島の旧石器時代の磨製石斧は、一体どこから渡来したのであろうか。いまのところ、周辺大陸には認められないことから、日本列島内で発生した可能性が大きい石器と考える必要があろう。

 では、日本列島で磨製石斧が発生した様子を探ってみよう。まず古期の第Xb層段階の遺跡には、長楕円形の扁平自然礫を使用し、周縁部を両面調整的な加工を施し、刃部を僅かに研磨した例が多いという事実である。これは素材の利用として「礫器」と共通しており、礫器の一部が研磨されたとも考えることが可能である。小平市鈴木遺跡第X 層文化に、長方形の扁平自然礫の周縁部を加工した礫器が出土しており、刃部を研磨すれば立派な磨製石斧の形態を呈していることから、日本列島における磨製石斧の出現を考える上で注目される資料である(小田二〇一二)。

諏辞

 最後に、本稿を草するにあたり多くの先学諸兄、諸先生、諸機関のお世話になりました、以下にお名前を明示し、心から御礼を申し上げます。なお、諸先生、諸氏の敬称を省略したことをお詫び申し上げます。

小野 昭、春成秀爾、大澤鷹邇、橋本真紀夫、新里 康、戸田哲也、麻生順司、水山昭宏、宮下数史、白石浩之、小林達雄、C・T・Keally、和田 哲、河合英夫、東京都教育委員会、板橋区教育委員会、板橋区立郷土資料館、小平市教育委員会、パリノ・サーヴェイ(株) 研究所(順不同)。

引用・参考文献

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板橋区立郷土資料館・守屋幸一編2005『夢を掘った少年たち−小茂根・稲荷台・志村・小豆沢−西台の遺跡−」板橋区立郷土資料館。
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