circle 黒曜石研究の動向

小田静夫

Perspectives on Obsidian Studies in Japanese Archaeology

1 黒曜石とは

 日本列島は環太平洋火山帯の一部であり、多くの火山が存在し火山活動も活発である。この火山活動に伴い流紋岩質マグマが、高温高圧の状態から地上に噴出したり、地表近くに貫入し急冷した場合に「黒曜石」が生じると言われている。黒曜石の定義は、黒色ないし暗色の火山ガラス、化学組成は通常、流紋岩質で、破断面は貝殻状を呈する。鉱物組成の主体は火山ガラスで、晶子や微晶を含み、少量の斑晶も含まれることもある。斑晶の周辺には割れ目が発達していて、この斑晶が多いものはガラス部分が細かく破れるので、石器の材料には不適当と言われている。黒曜石(黒曜岩)という日本名は、歌代ほか(1978)によれば、英語の「obsidian」から明治11年(1878)に和田維四郎によって訳されたと言われている。また0bsidianはラテン語のobsidianus lapis(Obsidiusの石)から由来し、プリニウスによれば Obsius(Obsianus)という名前の旅行者がエチオピアで発見した石に似ているからだと述べている(一色 1994)。

 黒曜石は考古学分野においては、均質で貝殻状断口を示す石材であることから、「石器」などの加工には恰好の石材である。したがって、細かい整形を必要とする両面加工石器(特に石鏃)、または鋭い刃部が要求される裁断石器(ナイフ形石器、スクレイパー)などにその威力が発揮された。このことから、黒曜石は石器時代(旧石器、新石器)を通じて、石器製作の材料として重要な役割を果たした石材である。黒曜石はどの火山でも産出するものでなく、酸性の火山岩−流紋岩−に伴う火山ガラスである。日本では北海道、本州中部、九州地方に集中して産出地がある。この限られた黒曜石原産地と、それらの範囲を越えた黒曜石製石器類出土遺跡の分布は、当然のことながら、黒曜石という石器原材の需給関係が両者間に存在したことは事実である。この黒曜石の伝播が、どのような形態で行われたかは推測の域は出ないが、少なくとも何らかの「交易」活動として存在したことは確かであろう(小田1980ほか)。

2 黒曜石研究の歴史

 黒曜石で作られた石器は、他の石材(チャート、頁岩、安山岩など)の製品に比べて透明で美しく、また発見しやすいこともあって、早くから考古学者の間で注目されてきた。したがって、学史においてもその初期の頃から黒曜石は話題にされていたのである。

2-1 黒曜石石器の確認

 遺跡発見の黒曜石石器(特に石鏃)について、すでに明治時代中頃にその原石産地、分析方法について言及されている。明治19年(1886)神保小虎は人類学会の席上で、黒曜石の産地は各地にあると思われるが、北海道の十勝と信州の和田峠である。またそれらの産地を確かめるには、顕微鏡によってそれらの結晶の状況を吟味する必要があると述べている(神保「黒曜石比較研究緒言」人類学会報告第二号24ページ,1886)。坪井正五郎は明治34年(1901)に「石器時代人民の交通貿易」と題して、伊豆大島の竜ノ口遺跡(現在、龍の口遺跡)から出土した黒曜石が神津島に産出するもので、縄文時代に両島間に交通があったことを推定した(坪井 1901)。大正年間になると、赤堀英三は全国の黒曜石石鏃の分布を調べて、北海道、中央日本、九州に三大中心地があることを指摘した。さらに北海道では十勝岳を中心にして、半径約60里の円内に、九州では阿蘇山を中心に半径約50里の円内に含まれるとした。八幡一郎も大正13年(1924)に『諏訪史』第一巻(鳥居龍蔵編集)において、諏訪からコンパスで半径約50里の範囲に黒曜石石鏃が分布していると述べている。

 昭和になると篠遠喜彦が昭和10年(1935)に東京都南澤遺跡出土黒曜石の結晶質晶子に着目して、顕微鏡で分析した結果、箱根系産の黒曜石と似ていることから産地を推定した(篠遠「「南澤出土の黒曜石について」採集と飼育第六巻第二号, 1944)。渡辺 仁も昭和23年(1948)に、全国の黒曜石製石鏃を研究するとともに北海道の黒曜石の特性を明らかにし、黒曜石製石鏃の分布と原石産地との関係、また顕微鏡による黒曜石の岩石学的特徴の比較の必要性を提唱した(渡辺「北海道の黒燿石」人類学雑誌第60巻第 1号, 1948)。

 こうした黒曜石の研究史を踏まえて、八幡一郎は昭和13年(1938)に『人類学・先史学講座』、さらに昭和31年(1956)になり黒曜石の交易について、初めて体系本(『図説日本文化史体系 1』)に本格的にまとめ、日本先史時代の黒曜石交易について概観した(八幡 1938, 1956)。

 昭和37年(1962)になると、自然科学者による新潟県上野遺跡(縄文中期、約5000年前)出土の黒曜石分析が増田和彦によって行われた(増田「本邦産黒曜石の晶子形態と考古学への応用に就いて」『新潟県津南町文化財報告 4 上野遺跡』津南町教育委員会 1962)。増田は関東地方や信濃川上流の縄文時代36遺跡から出土した黒曜石石器を、晶子形態の特徴から箱根、天城、浅間山に属する富士火山系と和田峠を主体とする二つの産地群の可能性を推定した。

2-2 黒曜石の理化学的分析

 考古学者による経験的な肉眼観察や一部岩石学者による顕微鏡下による晶子形態識別法に対して、昭和44年(1969)頃から地球物理科学者による本格的な黒曜石の理化学分析が行われる時代が到来する。その端緒となったのは、昭和42年頃から東京大学の渡邊直經による「フィッション・トラック法」の開発である。渡邊のもとで研究していた鈴木正男は、このフィッション・トラック法による黒曜石の理化学分析に本格的に取り組んだ。鈴木は人類学教室の考古学研究生であった、鶴丸俊明(現・札幌学院大学)、小野 昭(現・東京都立大学)、そして小田静夫の協力を得て、東京都野川遺跡の旧石器時代の黒曜石石器をはじめ、関東・中部地方の旧石器、縄文時代の黒曜石石器を精力的に分析した。また全国の黒曜石原石を現地採集して、その基礎的分析データ作りを行った。その結果、遺跡と原産地との黒曜石の需給関係が、時間的、空間的に正確に語れる基礎が確立したのであった(鈴木 1973, 1974)。

 昭和53年(1978)から渡邊直經を代表にして、文部省科学研究費特定研究の「自然科学の手法による遺跡古文化財等の研究」が 3カ年実施された。この研究プロジェクトにおいて、黒曜石の理化学分析法が多数の研究者によって推進され、日本における理化学的な黒曜石分析が全国レベルで語れる基礎が出来たことは画期的なことであった(近藤・鈴木ほか 1980)。この組織は渡邊直經によって、その後「古文化財に関する保存科学と人文・自然科学」という名称で 2年間継続された。やはり黒曜石の研究も継続されている(鎌木・東村ほか 1984)。さらに、この研究組織は「日本文化財科学会」として新しく設立され、こんにちに至っている。機関紙は「考古学と自然科学」である。

 平成 6年(1994)東京で行われた日本文化財科学会第11回大会で、特別セッション「黒曜石をめぐる諸問題」が開催された。この招待講演の一つで通商産業省工業技術院地質調査所の一色直記が、黒曜石の岩石的特性を産地や分析値を示し解説した。おそらくこの発表が黒曜石について専門研究者が正確に紹介した原点とも言えよう。この特別セッションでは、黒曜石をテーマに現在活躍している考古学、自然科学研究者の報告が 5編、講演が 2編行われた。講演と発表者は、一色直記、小杉 康(明治大学グループ)、戸村健児・輿水達司・河西 学・瀬田正明(立教大学グループ)、二宮修治・高橋孝一郎・網干 守・大沢眞澄(東京学芸大学グループ)、高橋 豊・西田史朗(静岡県立教育研究所グループ)、山本 薫(筑波大学)、小田静夫であった。

 つぎに、新しく開発された各種理化学的分析法を簡単に紹介しておきたい。

(1)原産地推定

 黒曜石の特性を利用して、黒曜石の原産地を推定する方法である。大きく三つの理化学的分析方法が行われている。

 (1) 晶子形態法:黒曜石の薄片を光学顕微鏡下で観察すると、晶子と呼ばれる胚芽的な結晶が見られる。その晶子の形態が、原産地あるいは露頭ごとに特徴があることを利用して、原産地を推定していく方法である。

 (2) 化学組成分析法:黒曜石は急冷して生じた均質な火山ガラスであるから、その化学組成を部分分析した場合に、産地内での変異は小さい。したがって、産地間で有意の差のある元素を定量することによって産地が推定できる。この方法を用いるものとして、放射化分析、原子吸光分析、蛍光X線分析、質量分析などがある。

 (3) フィッション・トラック分析法:原子核が二つに割れる原理を利用し、黒曜石内の原子核分裂片のキズ−フィッション・トラック−を観察し計算することによって、その岩石の生成年代、つまり噴出年代を測定する。そのためには、鉱物中のウラン濃度を知る必要があり、このキズ跡とウラン濃度が、どの原産地の値に近いかをあわせて調べることによって、原産地を推定する方法である。

(2)年代測定

 黒曜石の特性を利用して、黒曜石の生成年代や石器として使用された時期を推定する方法である。大きく二つの化学的分析方法が行われている。

 (1) 黒曜石水和層年代測定法:黒曜石は打ち欠いてすぐは表面に光沢があるが、遺跡から出土するものは少し鈍くくすんでいる。これは黒曜石の表面が、時間の経過と共にその表面から水を吸収し、水和層を形成していった結果である。この原理を利用し、水和層の厚さを計測することにより、石器の製作された年代を推定する方法である。

 (2) フィッション・トラック年代測定法:フィッション・トラックが二次的な加熱(400度Cで1時間以上、500度Cで1分間以内)で消え、また新しいキズ跡を生成することを利用して、遺跡出土の焼けた黒曜石について、生成年代つまり使用年代を推定することができる。

2-3 黒曜石の交易活動

 黒曜石の交易活動などについて、積極的に取り組んだ考古学研究者を次に紹介しておきたい。

 (1) 坪井正五郎

 坪井正五郎は明治34年「石器時代人民の交通貿易」と題して、、伊豆大島・竜ノ口遺跡(タツノクチ、龍ノ口遺跡)の黒曜石が、神津島からの搬入品であり、両島間に交通があり、交易関係が考慮されると述べた。我が国における黒曜石交易を論じた最初の研究者である。

 (2) 鳥居龍蔵

 鳥居龍蔵は大正13年『諏訪史』第一巻の「第一部先史時代第二編遺物−黒曜石」の項で、信州(長野県)の黒曜石が中央日本を中心に広く分布している事実が述べられている。長野県諏訪地方は曽根湖底遺跡で、早くから学会に紹介されていた。また古くから黒曜石の原産地として有名であり、広くこの地方を日本に紹介した最初の研究者である。

 (3) 八幡一郎

 八幡一郎は昭和13年「先史時代の交易」と題して、『人類学・先史学講座』に三回にわたって講座を掲載し、黒曜石の交易についても考察した。さらに昭和31年「物質の交流」と題して、『図説日本文化史大系 1』に黒曜石の交易について詳述した。日本の黒曜石交易問題を、学問の一領域にまで高めた最初の研究者である。

 (4) 坂田邦弘

 坂田邦弘は昭和57年頃から、九州地方の黒曜石の原産地と遺跡の関係を積極的に取組み、原産地の探索に務め集成した。しかしこの努力と裏腹に、産地と遺跡出土の石器の判定基準に経験的、肉眼的手法を中心に行ったために、理化学的分析結果との間に正確さを欠く多くの事実を生んでしまった。代表的な著書には『九州の黒曜石』(広雅堂書店,1982)がある。

 (5) 金山喜昭

 金山喜昭は昭和59年頃から東京都鈴木遺跡、神奈川県橋本遺跡などの黒曜石分析を、鈴木正男ら立教大学グループと精力的に行った。また「文化財としての黒曜石」(月刊文化財298, 1988)、「伊豆半島段間遺跡出土の黒曜石原石」(考古学雑誌75-1, 1989)など積極的に黒曜石研究の普及にも努めた。

 (6) 小田静夫

 小田静夫は昭和44・45年東京都野川遺跡の発掘調査(団長J.E.Kidder・国際基督教大学)で、小山修三、小林達雄らと考古学・自然科学者が共同研究した我が国最初の大規模発掘調査に取り組んだ。出土した黒曜石石器は鈴木正男を中心にした東京大学グループで理化学的分析を行った(小林・小田ほか「野川先土器時代遺跡の研究」第四紀研究 10-4, 1971)。さらに、昭和48年には、鈴木、一色直記ら自然科学者、そして考古学者の鶴丸俊明、小野 昭などとの共同研究で、伊豆諸島遺跡出土の黒曜石石器を体系的に分析し、神津島産であることを確かめた(鶴丸・小田ほか 1973)。昭和56年には「神津島の黒曜石」と題して、日本の旧石器、縄文人が世界に先駆けて「海上交通」を行っていたことを紹介し(小田 1981)、昭和57年には講座『縄文時代の研究 8』に全国の黒曜石研究の現状をまとめている(小田 1982)。最近では神津島産の黒曜石をテーマにして、多数の交易論(小田 1996, 1997)を展開し、現在西太平洋を中心に「黒潮圏」のヒトの動態を追求している(小田『黒潮圏の考古学』第一書房 2000)。

3 各地の黒曜石産地と石器利用の現状

 日本列島には現在、北は北海道から南は九州まで約70カ所以上の黒曜石の原産地が知られている(藁科 1998ほか)。つぎに、各地域の原産地と遺跡における黒曜石利用状況をみてみることにしたい。

3-1 北海道地方

 我が国で最も大型で良質な黒曜石原産地が存在する地域である。現在10カ所近くの産地が知られ、白滝、置戸、十勝三股、赤井川産はその中では著名である。また旭川付近の河原にも黒曜石原石の産地が存在するらしく、知人が採集した原石は拳大で十勝三股に近い良質のものであった。

 北海道の黒曜石石器は大型品が多く、早くから東京の考古学研究者に知られ、その研究史も古い。この地方の石器を早くから採集していた松平義人は、見事な黒曜石石器類を東京国立博物館や東京都江戸川区立郷土資料館などに寄贈している。その後も北海道の黒曜石石器類は、地元出身の多くの考古学研究者たちが、考古少年の頃表面採集し、その素晴らしさに感動して考古学の道へ進む契機になったことも聞いている。この地方の理化学的分析は、北海道大学の近藤祐弘、勝井義雄らによって昭和55年(1980)頃から主に水和層分析を中心に行われていた(近藤・勝井ほか 1980)。

 日本最大規模の黒曜石原産地である白滝産は、道内の旧石器遺跡(白滝遺跡群)をはじめ縄文時代遺跡にも多用され、30センチを越える大型石器(両面加工尖頭状石器)も製作されている。また白滝産は日本海を越えて、対岸のロシアやサハリンでも使用されていることが、昭和63年(1988)立教大学の鈴木正男グループの分析で確認されている。さらに津軽海峡を越えた青森県の縄文前〜中期の遺跡(三内丸山)からも発見されている(金山喜昭「石材」『図解・日本の人類遺跡』東京大学出版会, 1992)。

 北海道地方の石器石材の利用状況は、西南部に良質な頁岩(大型母岩多量)産出地帯が存在し、この地域遺跡(立川、樽岸、桔梗、ピリカなど)で頁岩が使用されている他は、黒曜石石材が旧石器・縄文時代の石器に多用されている(杉浦重信「北海道における黒曜石の交易について」古代文化42-10, 1990)。

3-2 東北地方北部

 現在13カ所近くの黒曜石原産地が知られ、深浦(青森県)、脇本(秋田県)、雫石(岩手県)が著名である。特に秋田県男鹿半島の海岸部には黒曜石の原産地が点在し、脇本海岸は小粒であるが良質である。

 昭和47年(1972)磯村朝日太郎が男鹿半島研究1に載せた「男鹿半島産の黒曜石の原石について」は、この地域の黒曜石の実情を良く紹介した力作である。また不思議なことには、他の地域ですでに石器の使用する時代が終了している「古墳時代」に、水沢地方で黒曜石製石器の集中した使用も知られている。原産地は宮城県宮崎町湯倉と判定されている(岩手県立埋蔵文化財センタ−所報81、1999)。

 この地方の黒曜石の理化学的分析は、鈴木正男によって行われている。最近では脇本海岸産がロシアの沿海州地方の遺跡に運ばれていることが判明している。しかし、全体的に母岩が小さく、原産地周辺遺跡に利用範囲が限られるようである。

 北海道南西部からこの東北地方の日本海沿岸部にかけては、日本有数の大型で良質な頁岩産出地帯として知られている。したがって、旧石器、縄文時代を通してこの頁岩を使用している。また玉髄も産出し、古期の旧石器や尖頭器文化に多用されている。

3-3 東北地方南部

 現在6カ所近くの黒曜石原産地が知られ、月山(山形県)、板山(新潟県)が著名である。板山原産地はは筆者が学生時代(昭和33年頃)、同級生であった地元新発田市出身の稲岡嘉彰(現・新潟県教員)とともに確認したもので、小粒であるが良質で周辺の縄文遺跡では多用されていた。最近、新潟県北部の旧石器時代(細石器)遺跡から、コハク色した月山産の良質黒曜石が使用され注目されている。また佐渡島にも黒曜石原産地存在し現地踏査したが、佐渡は「赤玉」と呼ばれる鉄石英の産地で、縄文時代の石器、さらに弥生時代の管玉(玉作工房址)に多用されている。最近、藁科哲男の分析で、佐渡産の黒曜石が青森県山内丸山遺跡で確認されたという(読売・青森版 1998.8.14付)。

 東北地方南部も頁岩の大産地であり、山形県寒河江市内の河原には良質大型母岩礫が散布していて、周辺の旧石器・縄文時代の石器に多用されていた。したがって、東北北部地方と同じく、黒曜石は原産地を中心に使用された地域的、補助的な石材であった。

3-4 関東地方北部

 現在1カ所、高原山(栃木県)周辺に黒曜石原産地が知られるだけである。高原山産の黒曜石は全体的に小粒で、栃木県を中心にして群馬県、茨城県、埼玉県地域で若干使用されている程度である。この高原山産黒曜石の栃木県内での利用状況について、栃木県立博物館と東京学芸大学の二宮修治らによってまとめられた総合的な報告が出されている(上野・二宮ほか 1986)。それによると北関東では、黒曜石石器使用頻度はそれほど多くないようであり、高原山産以外には群馬県では信州(長野県)産が、茨城県では神津島(東京都)産が混じっている程度である。

 群馬県と長野県の境界あたりに「ガラス質黒色安山岩」の大原産地が存在しており、この石材が旧石器時代を中心にして関東一円に運ばれ使用されている。また東北地方の頁岩、玉髄の使用も認められている。

3-5 関東地方南部

 この地方には黒曜石の原産地は知られていない。しかし、多くの遺跡で黒曜石が使用されていることから、理化学的分析が最も多く行われている地域である。使用されている黒曜石は、大きく信州(長野県)系、箱根(神奈川県、静岡県)系と神津島(東京都)系の原石が複雑に利用されている。

 東京地方の黒曜石分析は昭和44・45年(1969・70)の調布市野川遺跡の発掘調査を契機にして、東京大学の鈴木正男によって推進された。鈴木の分析によって関東・中部地方の旧石器時代遺跡184文化層から2,733点の黒曜石製石器が、フィッション・トラック分析法によって分析された。その結果、約30,000年前頃から黒曜石が使用され始め、主に箱根系の黒曜石を利用していた。12,000年前頃になると箱根系と信州系が同時に使用され、さらに太平洋上の神津島系の黒曜石も使用されている。縄文時代になると、箱根系、信州系、神津島系の三者が早期と前期では50:37:13パーセント(遺跡数)、43:49:8パーセント(黒曜石数)という比率であり、中期になると36:41:23パーセント(遺跡数)、42:42:16パーセント(黒曜石数)となっている(Suzuki 1973, 1974)。

 最近では多数の分析グループ(立教大、東京学芸大、京都大、お茶の水女子大、パリノ・サーヴェイ、国立工業高専)が、この地方の黒曜石分析を行うようになっている。その成果の一つのとして、神津島系の黒曜石が約35,000年前頃に東京の旧石器遺跡(武蔵台X層文化)から確認され、旧石器人が世界に先がけて海上航海を行っていたことが判明している(小田 1997)。

3-6 中部地方中央部・北半部

 現在8カ所近くの黒曜石原産地が知られが、長野県の麦草峠、霧ケ峰、男女倉、和田峠が著名である。地元の黒曜石研究者の中村龍雄は、それらを豊富な写真でまとめているのでその全容が良く理解される(中村 1977『黒曜石上巻』, 中村 1978『黒曜石上巻』, 中村 1978『黒曜石続巻』, 中村 1983『星ケ塔』自費出版)。一般的に信州系と呼ばれているこれら黒曜石の様相は、透明なものから黒色、灰色、そして珍しい褐色のものなど種類が多い。北海道の十勝三股や白滝産に特徴的に存在する褐色の黒曜石について、立教大学の輿水達司らは山梨県の縄文時代遺跡出土の褐色黒曜石石器をフィッション・トラック法で分析し、霧ケ峰や和田峠産と同じ噴出年代を示し産地が同じ場所にあることを確かめている(輿水・戸村健児・河西 学「本州中央部より出土の褐色黒曜石の原産地」考古学ジャーナル379, 1994)。最近八ヶ岳山麓にも原産地が確認され出した。

 この地方の黒曜石は鳥居龍蔵、八幡一郎などにより、日本考古学史の初期の頃から話題にされており、各種論考も膨大な量に上っている(鳥居 1924、八幡 1924, 1928, 1979)。

 この地域の黒曜石の理化学的分析は、鈴木正男が最初である(Suzuki 1969, 1970 ほか)。その後、分析学者の全てがこの地域の黒曜石を分析していることが知れる。

 また考古学者による多くの論考が行われている。和田峠産は母岩は小さいが、無色透明で良質黒曜石が多産し、この原石は縄文時代にかなり広範囲に運ばれて「石鏃」として使用されている。斉藤幸恵によると信州系の黒曜石は、縄文時代を通して半径150Kmの範囲に原石の供給が認められるという(斉藤「黒曜石の利用と流通」季刊考古学12, 1980)。黒曜石の貯蔵例もこの地域の縄文遺跡から確認されている。長崎元廣は諏訪盆地、八ヶ岳西麓・南麓、松本盆地で確認された22遺跡36カ所の貯蔵遺構を検証した(長崎「縄文の黒耀石貯蔵例と交易」『中部高地の考古学III』1984)。長崎は黒曜石が交易の交換財であり、主に住居内のこうした遺構は火災で埋没したり、床下に埋納、隠匿し忘れられたものとした。黒曜石の採掘址も霧ケ峰地区(星糞峠黒曜石採掘址)で古くから確認されている。最近、明治大学で旧石器時代の大規模な鉱山址「鷹山遺跡群」の発掘調査が続行中であり、この地方が中部・関東地方の黒曜石の一大供給地域であったことが理解されている(小杉 康「遙かなる黒耀石の山やま」『縄文人の時代』1995, 新泉社)。

 富山県下の旧石器時代4遺跡、縄文時代4遺跡出土の黒曜石石器を分析した京都大学原子炉研究所の藁科哲男は、旧石器段階では長野県霧ケ峰産と秋田県深浦産、縄文段階では霧ケ峰産と山形県月山産と判定している(藁科「富山県下遺跡出土の黒曜石遺物の石材産地分析」大境 9, 1985)。

3-7 中部地方南部・太平洋岸

 現在7カ所近くの黒曜石原産地が知られ、大きく箱根(神奈川県)と伊豆(静岡県)系、それに神津島(東京都)系に分けられる。箱根系には畑宿、伊豆系には柏峠西、神津島系には恩馳島が著名である。この地方は信州中央部の大黒曜石原産地群が北部に存在し、一方太平洋側には箱根、伊豆、神津島の原産地群があるという黒曜石にめぐまれた地域ともいえる。

 明治34年東京大学の坪井正五郎によって、伊豆大島竜ノ口遺跡の縄文中期の黒曜石石器が、神津島から運ばれてきたことが述べられている(坪井 1901)。この論考は我が国で最初の黒曜石交易に関して論考された文献である。昭和12年には芹澤長介らは伊豆天城山麓で黒曜石の原産地を踏査し、石鏃に多く使用され、また原産地付近に遺跡が集中することを指摘している(芹澤ほか「伊豆天城山麓における黒曜石の鑛原」科学7-3, 1937)。

 この地方の黒曜石の理化学的分析は、鈴木正男が静岡県沼津市休場遺跡の石器を分析したのが最初である(Suzuki 1974, 1977)。その後、静岡県立教育研究所の高橋 豊が昭和61年頃から愛鷹山山麓の旧石器時代遺跡を中心に行った。高橋は伊豆諸島の神津島産黒曜石も分析し、静岡県の海岸地域遺跡に運ばれていることを確認している(高橋 1985, 高橋・西田 1988)。平成6年頃から国立沼津工業高等専門学校の望月明彦も、同じ愛鷹山山麓や最近では長野県、神奈川県の資料も手広く行うようになった(望月ほか 1994)。

 この地域は黒曜石原産地が近接しており、各遺跡からは複雑な関係で各産地の黒曜石製石器が出土している様子が知れる。

3-8 近畿地方

 この地方には黒曜石の原産地は知られていない。

 近畿地方には良質のサヌカイトの大原石産地が、二上山地域(大阪府と奈良県境)に存在し、旧石器、縄文時代を通して大半の石器はこのサヌカイトで作られている。

 三重県の伊勢地域や大阪府などの縄文時代遺跡で、まれに黒曜石製の石器が出土することがあり、前者は神津島産、後者は隠岐島(島根県)産の黒曜石と分析されている。

3-9 瀬戸内地方

 この地方にも黒曜石の原産地は知られていない。そのかわり近畿地方と同じくサヌカイトの大原産地が香川県(五色台、金山)と広島県(冠山)に存在し、大半の石器はこのサヌカイトで作られている。

 この地方の特に広島県、愛媛県の縄文遺跡から、大分県国崎半島東端の姫島産の特徴的な色彩、質をもつ黒曜石が多く発見されることがある。この姫島産黒曜石の利用範囲は広く、大分県を中心に、瀬戸内地方西部、そして九州全域に認められている。しかし不思議なことに旧石器時代遺跡からまだ発見されたことがなく、縄文時代になって利用された黒曜石とも考えられよう。また遠く玄界灘を越えた朝鮮半島の東三洞貝塚にも運ばれている(潮見 浩「考古学班調査報告−石器原材としての姫島産黒曜石をめぐって−」内海文化研究紀要8, 1980)。

3-10 中国地方北部

 現在4カ所、隠岐(島根県)の島に黒曜石原産地が知られ、加茂と久見が著名である。

 この地方の藁科哲男により、隠岐産の黒曜石は主に中国地方北部の海岸地域と中央山岳地帯の遺跡に使用され、一部は瀬戸内側にも運搬されていることが判明している(藁科ほか 1988)。縄文時代が中心で、隠岐島から海上交通によって本州島に丸木舟で運ばれたものである。最近、鈴木正男によって、隠岐産の黒曜石がロシアの沿海州にも渡っていることが判明している。日本海を丸木舟でロシアと日本の先史人が交流している事実が浮上してきたのである。

3-11 四国地方南部

 この地方にも黒曜石の原産地は知られていない。

 地元考古学研究者の木村剛朗によると、高知県西部の縄文時代遺跡に姫島(大分県)産の黒曜石が利用されてことが確かめられている(木村「九州姫島産黒曜石よりみたる西四国縄文期の交易圏(上・下)」土佐史談124・126, 1969・70)。

 この地方の遺跡から発見される石器は、地元のチャートを使用したものが多い。

3-12 九州地方北部

 現在17カ所近くの黒曜石原産地が知られている。佐賀県の腰岳が最大で、次は長崎県の松浦半島の牟田と針尾島の古里海岸である。また九州本島から離れた姫島(大分県)に2所、壱岐(長崎県)の島に4カ所、黒曜石の原産地が存在している。

 この地方の黒曜石石器と原産地に関する研究は、昭和35年に熊本県山鹿市の高校教員であった隈 昭志が「石器材料の石質から見た需給圏−本州西端及び北九州−」と題して論述したのが最初であろう(考古学研究25, 1960)。隈によると、この地方には大きく伊万里、姫島、阿蘇系の3つの原産地が知られている。そして各遺跡出土の黒曜石を肉眼的に識別すると、姫島系は特徴があるが、漠然と阿蘇系と呼ばれていた黒色の黒曜石は伊万里系(のちの腰岳)であり、山口県から福岡県にかけて広く分布していることが確かめられたという。

 20年後の1980年、黒曜石の理化学分析が、東京学芸大学の大沢眞澄の研究グループによって、福岡県若宮町都地遺跡で初めて行われた(二宮ほか『若宮宮田工業団地関係埋蔵文化財調査報告書3』1980所収)。分析を推進した二宮修治は、原子吸光分析法、機器中性子放射化分析法を用いて5点の石器を分析し、佐賀県腰岳か長崎県古里海岸産と判定した。当時、まだ腰岳と古里海岸産の区別が理化学的分析でも分離出来ない段階にあった。

 九州地方は本州、北海道と共に黒曜石の原産地の集中した地域である。最大の原産地は腰岳(佐賀県)で、ここの黒曜石は北は朝鮮半島(鈴木正男分析)から、南は沖縄本島(鈴木正男、二宮修治分析)にまで運ばれている。腰岳に次いで黒曜石の原産地が集中しているのは、長崎県松浦半島の牟田と針尾島の古里地域である。筆者も学生時代から長崎県島原半島筏遺跡、百花台遺跡、そして佐世保市岩下洞穴の発掘調査に携わり、同級生の佐世保市出身の下川達弥(現・長崎県立美術博物館)とこの地域の黒曜石産地を踏査したことがある。その経験によると、牟田と古里地域の黒曜石は、腰岳に似て黒色良質なものであったが母岩が小さく県内の遺跡を中心に利用されているようであった。また下川は、ハリ質安山岩に似た灰色の黒曜石原産地を淀姫で発見している(下川「佐世保市東浜淀姫発見の黒耀石産地」若木考古74, 1965)。この淀姫原石の方が、前二者の原石礫より母岩が大きく利用価値がありそうであった。

 長崎県地方の黒曜石産地の探索は、その後多くの考古学・理化学研究者によって行われている。考古学者の清水宗昭は「針尾島の黒曜石原石地帯」を速見考古創刊号(1971)に、また副島和明は「針尾産黒曜石の原石について」を『針尾人崎遺跡』(1982)に、さらに米倉浩司は「佐世保市針尾島の黒曜石・サヌカイト原産地と旧石器遺跡」を旧石器考古学41(1990)の載せている。東京学芸大学の二宮修治のところで黒曜石の理化学分析をしていた諸岡貴子は、「佐世保市針尾北町・砲台山の黒曜石産地」を考古学ジャーナル261(1986)に発表した。

 熊本県阿蘇地方にも、古くから黒曜石の原産地が知られている(隈 1960)。昨年12月大分県聖嶽洞穴の発掘調査の折、熊本県の考古学関係者から、珍しい黒曜石石器を見せられた。それは表面の状況が肉眼では安山岩状を呈する旧石器時代の大型剥片石器類で、筆者も最初黒曜石であることを疑ったほどであった。しかし新しい破損部分を見るとガラス質で光沢があり黒曜石のようであった。原産地は阿蘇にあるという。

 この北部九州地域も近畿、瀬戸内地域と同じく、安山岩の大原産地が鬼鼻山、老松山(佐賀県)周辺に存在し、旧石器〜弥生時代の大型石器はこの石材を多用している。中でも明治大学が発掘調査した多久市三年山や茶園原遺跡では、ここの安山岩を使用して大型石槍を多量に製作した地点が確認されている。

3-13 九州地方南部

 現在8カ所近くの黒曜石原産地が知られている。熊本県(白浜)、鹿児島県(日東、上牛鼻、竜ケ水。長谷)、宮崎県(桑ノ木津留)の境界地域に黒曜石の原産地が集中して認められる。

 この地方の黒曜石原産地は、昭和41年頃から出水高等学校の池水寛治による上場高原の考古学調査で知られた(池水「鹿児島県上場遺跡」考古学年報28, 1977、「熊本県水俣市石飛遺跡」考古学ジャーナル21, 1968)。池水によると出水市日東部落開拓地に黒曜石の大露頭を確認している(小田静夫「九州地方における先土器時代遺跡の編年」『藤井祐介君追悼記念考古学論叢』1980)。近年では大久保浩二によって、新発見の黒曜石の原産地が報告されている(大久保「新発見の黒曜石原産地」縄文通信4, 1991)。

 今年の春、鹿児島県立埋蔵文化財センターの牛ノ濱修、桑波田武志のご好意で、筆者が阿蘇で見た非常に珍しい黒曜石石器に鹿児島県でも出会った。阿蘇の例でも述べたが、同じく石器表面の風化が肉眼では安山岩状で、とても黒曜石には見えないものであった。牛ノ濱、桑波田のご好意で、このサンプルをパリノ・サーヴェイの五十嵐俊雄に鑑定して頂くことができ、まぎれもない黒曜石ということで安心した経緯がある。桑波田によると、鹿児島県薩摩郡上牛鼻に原産地があり、旧石器時代の松元町前山遺跡に多数使用されていた。

 近年、京都大学原子炉研究所の藁科哲男によって、加世田市栫ノ原遺跡とヘゴノハラ遺跡の黒曜石石器が分析されている。それによると栫ノ原第VI層上部縄文時代草創期の118点の石器は、地元の桑ノ木津留(46点)、上牛鼻系(40点)、竜ケ水(23点)と多く、佐賀県腰岳系(4点)、地元の日東系(1点)であった。また栫ノ原第VI層下部旧石器時代の27点の石器は、地元の桑ノ木津留(8点)、上牛鼻系(6点)、竜ケ水(1点)、腰岳系(1点)、地元の日東系(1点)であった(『栫ノ原遺跡』1998所収)。ヘゴノハラ遺跡縄文時代早期出土の15点の黒曜石石器は、上牛鼻系(7点)、竜ケ水(2点)、長崎県淀姫(2点)、桑ノ木津留(1点)、腰岳(1点)であった(『ヘゴノ原遺跡』1997所収)。

 鹿児島県は黒曜石をはじめ地元のあらゆる原石、たとえばチャート、安山岩、鉄石英、玉髄、水晶などをを使用しているようである。

3-14 奄美・沖縄地方

 この地方には黒曜石の原産地は知られていない。

 沖縄での黒曜石石器は大正15年(1926)に東京の小牧實繁による城嶽貝塚の発掘調査で、出土した石鏃の中に2点の黒曜石製品があり、沖縄では初めての発見で大変愉快であったと述べている。城嶽貝塚からは他に黒曜石の剥片が35点出土し、小牧は石鏃製作がこの遺跡で行われたことを示唆している(小牧「那覇市外城嶽貝塚発掘調査(予報)」人類学雑誌42-8, 1926)。

 黒曜石の理化学分析は、昭和52年(1977)の仲泊遺跡が最初である。鈴木正男により分析され、腰岳(佐賀県)産の黒曜石と判定された(『仲泊遺跡』1977所収)。最近、伊是名貝塚遺跡発掘調査団(団長堅田 直・帝塚山大学)によって、伊是名貝塚と隣接したウフジカ遺跡の黒曜石が東京学芸大学の二宮修治によって分析され、やはり腰岳産と判定されている(『伊是名貝塚遺跡の研究』2001所収)。

 現在、奄美地方では奄美大島から4カ所、徳之島から3カ所、伊是名島から3カ所、沖縄本島から16カ所以上発見されている(上村俊雄「南西諸島出土の石鏃と黒曜石」人類史研究10, 1998)。

 奄美・沖縄地方はサンゴ礁の発達した地域で、南海産の大型貝殻が道具に多用されている。当然石器に代わる原材であり、重量石器以外の小型軽量剥片石器にはこの貝殻が用いられている。この地域の遺跡を歩くと、表面には貝殻は多く散布するが、石片類はほとんど見つからない。発掘資料にはチャート製石器が僅かに存在し、地元のチャートが使用されていることが分かる(小田静夫「沖縄の剥片石器について」『高宮廣衞先生古稀記念論集』2000)。したがって、黒曜石は超貴重品であった訳で、九州地方の縄文人が、貝殻などとの交換財として持ち込んだものであろう。

4 黒曜石分析(組織)の現状

 日本における黒曜石の理化学的分析は、1969〜1970年に大規模発掘が行われた東京都野川遺跡の旧石器時代資料を中心にした、東京大学の鈴木正男(当時)によって初めて本格的に実施された(鈴木 1969, 1970)。その後、文部省科学研究費特別研究の組織に参加した多くの研究者によって、黒曜石分析法は進展していき研究グループも各地に誕生している。つぎにその活動を紹介してみたい。

4-1 分析グループの活動状況

 (1) 立教大学グループ

 鈴木正男は1969年頃からの経験を生かして、東京大学から移籍した立教大学で黒曜石の理化学分析を推進させた。主に関東地方の遺跡出土の黒曜石石器を分析するとともに、これまでの日本における黒曜石研究について英文で総括している(Suzukiほか 1984)。現在も遺跡出土の黒曜石の分析を多く手掛けており、旧石器時代遺跡では神奈川県橋本、東京都鈴木遺跡の分析を金山喜昭と行った(金山 1986)。またロシアの沿海州地方の新石器時代遺跡の黒曜石石片を分析して、北海道の白滝産、秋田県男鹿半島産、島根県隠岐産がそれぞれ運ばれていたことが判明している(1988年4月29日山梨中央新報)。

 (2) 東京学芸大学グループ

 大沢真澄の指導を受けて1974年頃から二宮修治、網干 守らによって、福岡県、長崎県、関東地方の黒曜石分析が行われている(二宮 1983, 二宮ほか1985)。最近では沖縄県伊是名貝塚とウフジカ遺跡の黒曜石分析を行っている(『伊是名貝塚の研究』2001所収)。

 (3) 京都大学原子炉研究所グループ

 東村武信、藁科哲男によって1983年頃から、西日本の黒曜石資料をエネルギー分散型蛍光X線分析装置を使用して産地推定を行っている(東村・藁科 1983, 1985)。また藁科は精力的に日本各地の黒曜石産地を探索して、現在約70カ所を確認し各産地の元素分析を蓄積している。最近では鹿児島県地方の分析も行っている。

 (4) お茶の水女子大学グループ

 渡邊直經の弟子である松浦秀治によって、晶子形態法、フィッション・トラック法による黒曜石の原産地推定、さらに水和層分析による年代測定が行われた。そして伊豆諸島の八丈島・倉輪遺跡が発見された際、出土黒曜石石片の科学分析を行い神津島産であることを初めて確かめている。また東京都小金井市荒牧遺跡出土の2Kgの旧石器時代石核の分析も行い、神津島産であることが判明している。さらに東京都小金井市はけうえ遺跡の黒曜石分析も担当している(松浦ほか 1983)。

 (5) 北海道大学グループ

 1980年頃から近堂祐弘と勝井義雄によって、白滝、置戸、十勝三股や赤井川などの原産地と道内遺跡の関係が分析されている。また黒曜石の水和層分析による年代測定も早くから行われていた(近藤 1975)。

 (6) パリノ・サーヴェイ研究所グループ

 渡邊直經、徳永重元の親交から、お茶の水女子大学の松浦秀治の指導のもと、五十嵐俊雄、齊藤紀行、石岡智武、矢作健二らが1998年以来旧石器、縄文時代遺跡の黒曜石石器、各地の原石について理化学機器を整備して分析法を開発してきた。現在、全国の遺跡を対象に分析を開始しており、すでに多くの結果が各『報告書』に掲載されている。分析方法はエネルギー分散型マイクロアナライザーによる主要元素組成分析(EDS)である。さらに黒曜石の水和層分析による年代測定も実施している。

 (7) 静岡県立教育研究所グループ

 1986年頃から高橋 豊を中心にして、静岡県愛鷹山麓を中心に旧石器時代遺跡、さらに神津島の黒曜石原石分析を行っている。分析方法は偏光顕微鏡による晶子形態、鉱物組合わせ法(高橋 1985)や、エネルギー分散型マイクロアナライザーによる主要元素組成分析(EDX)である(高橋・西田 1988)。

 (8) 国立沼津工業高等専門学校グループ

 1994年頃から望月明彦を中心にして、静岡県愛鷹山麓を中心にした旧石器時代遺跡の黒曜石石器について分析している。エネルギー分散蛍光X線分析装置をもちいて、一遺跡一文化層全点の大量の黒曜石試料を分析し、遺跡内での産地ごとの分布範囲などに供している(望月・池谷ほか 1994)。最近では長野県の旧石器遺跡の分析も行っている(『上信越自動車道埋蔵文化財発掘調査報告書15』2000)。

 (9) 明治大学グループ

 1996年頃から杉原重夫を中心にして、地理学部門に文化財研究施設が開設され、波長分散型蛍光X線分析装置を含む多くの分析機器の導入によって東京都島嶼部、長野県の旧石器、縄文遺跡の黒曜石分析が行われている。研究集会も1999年と2000年に行われ、その成果は学外にも普及させる状況が準備されている。明治大学では学外研究施設として、長野県小県郡長門町の鷹山地区に「明治大学黒曜石研究センター」を2001年に開設する準備が進行中であるという(明治大学大学院広報紙「シンポジオン」23号, 2000年8月31日付)。日本で黒曜石を中心にした博物館や研究施設が今まで無かったので、全国的な共同利用施設としての今後の発展が期待されよう。

5 おわりに

 黒曜石は日本の旧石器、縄文時代遺跡を中心に、石器の石材として多用されている。その利用範囲は原産地を中心にした地域であるが、原石産出量、質、母岩規模などが優れていた原産地の場合、遠距離にその利用状況が認められている。現在、北海道では白滝産が量、質、大きさで群を抜いており、津軽海峡を渡って青森県や遠く日本海を渡ってロシアの沿海州地方ヘ運ばれている。中部地方では和田峠産が透明で質も良く、中部・関東一円の石鏃用として多用されている。九州地方では腰岳産が質、量が多く、南は琉球列島の沖縄本島へ、北は対馬海峡を越えた朝鮮半島南部の遺跡に発見されている。こうした黒曜石の遠距離移動は、「交易」「文化圏」などを説明する資料として重要であり、黒曜石の科学分析はそれを証明する手段として最も有効な方法であった。また黒曜石の水和層を測定することによって、その石器が使用された年代が推定できる利点がある。他の年代測定とのクロスチエックによって正確さは確かめられている。

 黒曜石は日本先史考古学にとって重要な研究石材である。その証拠に日本考古学の開始とともに、黒曜石をテーマにした研究がなされている。その初期では肉眼や顕微鏡下での岩石の性質からの判別であった。戦後になり、現代科学の発達によって黒曜石分析法も理化学的手法による分析が行われることになった。しかし、初期の頃には資料を粉末にする破壊試料が中心であった。したがって、希少、重要遺物、完形石器などについては分析出来ないでいた。しかし、非破壊による分析が一般化した現在、こうした資料に関しても分析可能であり、関係者の努力によってすばらしい成果が約束される時代が到来したのである。

 もう一つ心配なのは、各分析グループの成果報告書をみると、それ自体の分析で終了している点である。少なくとも情報の発達した今日、他の分析グループの研究成果も多数存在しており、こうした結果を踏まえた考察をお願いしたいものである。この責任は自然科学側だけにあるのではなく、資料を提供する考古学側の事前準備の問題も大きいと思われる。これからの黒曜石分析は科学者同志の組織を越えた共通データの解析、さらに考古学者とのクロスチエック機能との連携プレイを確立させ、より正確な分析成果を共有し、世界に発信していくことが大切であろう。 (文中の敬称略)


(引用・参考文献)

 ここには黒曜石研究史において主要な文献だけを載せました。


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