『南島考古』第26号, 2007年3月, pp.37−48 所収

カダ原洞穴とその調査史
―伊江島から始まった沖縄の旧石器文化研究―

小田静夫
(東京大学総合研究博物館)

はじめに

 日本列島に於ける先史時代遺跡の多くは、酸性土壌であることから本来は残存しているはずの人骨や動物骨などは、貝塚や洞穴遺跡でもないと発見されない現状がある。そうした我が国の考古学資料の制約下にあって、唯一サンゴ礁島の発達した沖縄は、琉球石灰岩に守られて野外・洞穴・フィッシャー遺跡などから豊富な人骨・動物骨が出土する貴重な地域である。その沖縄において、日本ではまだ旧石器文化が確認される以前の昭和初期に、更新世化石骨を求めて、古生物学者らが研究活動を展開していた事実はあまり知られていない。沖縄で旧石器時代資料の探索が行われた場所は、沖縄本島中部の本部半島西海上に浮かぶ「伊江島」と呼ばれる小島で、この島の北海岸に存在する「カダ原洞穴」(地元ではハダバルと発音)がその舞台であった。

 このカダ原洞穴から出土した「シカ化石骨」には人間による「加工痕」が観察された。これに類似した骨角製品は、すでに中国大陸の更新世人類遺跡でも発見され、当時議論されていた資料でもあった。したがって東アジアの旧石器文化を理解する上で、このカダ原洞穴のシカ化石骨角製品は内外の研究者間で注目されていたのである。そこで筆者は、この沖縄をフィールドにした日本旧石器時代研究史の黎明期に焦点を当てて、そこに大きな足跡を残した「多和田真淳」を初めとする沖縄考古学のパイオニア達の研究軌跡の一端をここに紹介することにしたい。

1 伊江島の地理的位置

 伊江島は、沖縄本島北部本部半島の西海上約9kmに位置し、周囲約25km、面積約23km2の東西に細長い楕円形の島で、本部半島から望見でき本部新港からフェリー船で約30分程度の近距離に在る。島は琉球石灰岩の平坦な島の中央部に、標高172mの伊江島タッチュー(城山)と呼ばれるシンボル的チャート岩山が高く聳え(図2-A)海上航行の目安にもなっている。島の南側はなだらかな段丘海岸で、砂丘が発達し海には豊かなサンゴ礁が形成されている。これに対して北側は急峻な段丘崖線海岸で、砂丘やサンゴ礁の発達は認められない。

 カダ原(ばる)洞穴は沖縄県伊江村(伊江島)ミナト原地内に位置し、この洞穴が存在する島の北海岸には、現在多くのシカ化石出土地点が確認されている。以下にその地点を列挙する(図1-A)。1.カダ原鹿化石出土地(第一)、2.カダ原鹿化石出土地(第二)、3.キジャカ鹿化石出土地、4.真謝礁原鹿化石出土地、5.ウカバ地先礁原鹿化石出土地、6.カダ原礁原鹿化石出土地、7.イヌガ洞穴遺跡、8.竹山洞穴鹿化石出土地、9.親竹岩礁鹿化石出土地、10.ゴへズ洞穴鹿化石出土地(安里1976,1977,岸本ほか1999)である。

2 発見の経緯

 1934(昭和9)年、沖縄県伊江村伊江小学校の訓導(教諭)で熱帯魚に興味を持っていた青年・上里吉堯は、ある日島の北海岸の「つり場」と呼ばれる礁原で、いつものように魚釣りをしていた。ところが昼頃突然スコールに遭遇し、近くの海岸崖下の半洞穴で昼食を取ることにした。その後も雨はなかなか止まなかったので、暇つぶしに上里は腰に挿し持っていた手鎌で洞内の崖土を削ったところ、偶然にも石灰岩が付着した動物化石を発見した。さらに掘り進めると「シカの角」の化石骨に遭遇したが、上里はシカが沖縄には棲息していないことを知っていたので、この化石の発見が何か別の問題に発展することを懸念し、この化石骨を新聞紙に包んで自宅押入れ深くに封じ込めてしまった。

 同年12月に美里村(現沖縄市)美東小学校の教員であった多和田真淳は、冬休みを利用して伊江島に植物調査に出かけた。そして島の情報を入手すべく友人であった上里を訪ねたところ、考古学にも興味を持っていた多和田に心を許したのか、今まで神罰が当たると恐れて誰にも話さなかった北海岸の半洞穴発見のシカ化石を見せたのである。上里はシカ化石が沖縄本島北端辺戸岬のフィッシャー(裂罅)で発見され、新聞ですでに報道されていたことを知らずに秘密にしていた経緯もあったが、この伊江島での上里と多和田の出会いが、翌年行われた東京帝國大学の「沖縄島動物分布調査」の現地踏査の実現に繋がって行くのである。そしてこの半洞穴(カダ原洞穴)の発掘調査が、東京の古生物研究者らによって行われ、その後の日本旧石器時代文化確認前史に大きな影響を与えることとなった(安里1976,1999,藤野1983)。

3 カダ原洞穴の環境

 伊江島北海岸は、石灰岩段丘崖が発達し、標高約5m、高さ約20m〜25m程度の断崖中腹に海蝕洞穴やフィッシャー(裂罅)が各所に形成されている。1936(昭和11)年の徳永重康・高井冬二らの調査で、北海岸に4ヵ所のシカ化石産出地点が確認された。第1号、第2号は海蝕の半洞穴、第3号は岩陰、第4号はフィッシャー(裂罅)であった(徳永・高井1938,Tokunaga・Takai1939,鹿間1943,直良1954,安里1976,岸本ほか1999)。

 第1号は北に開口した半洞穴で、幅約6m、高さ約3m、奥行き約4m、面積約30uの中央部に堆積層が認められた。現在は「カダ原鹿化石出土地(第一)」と呼ばれ、県指定史跡標識板設置場所でもある(図1-Aの地点1)。

 第2号はやはり北に開口する半洞穴で、幅約10m、高さ約2m、奥行き約3.5mで、現在は「カダ原鹿化石出土地(第二)」と呼ばれている(図1-Aの地点2)。

 第3号は小さな崖に形成された北向きの岩陰で、幅約4m、高さ約1.5mで、現在は「キジャカ鹿化石出土地」と呼ばれている(図1-Aの地点3)。

 第4号は標高5mの礁原に形成されたフィッシャー(裂罅)で、400m以上の距離に亘って認められており、現在は「真謝礁原鹿化石出土地」と呼ばれている(図1-Aの地点4)。

4 カダ原洞穴の調査史

① 岡田彌一郎・鹿野忠雄の調査

 1935(昭和10)年3月2日〜4月8日、侯爵・山階芳麿の支援で「沖縄島動物分布調査」の第一回探査として、東京帝國大学理学部の岡田彌一郎、鹿野忠雄、東京文理科大学の木場一夫、上野科学社の上野末治らが沖縄本島、伊平屋島、久米島の調査を実施した。この調査期間中に、地元の多和田真淳から「伊江島」でシカ化石が発見された事実を知らされ、3月23日に突然日帰りで伊江島踏査行を行っている(図1-C)。この日、岡田と鹿野、木場の3名は名護市を午前8時30分に出発し、本部港発の江島丸で伊江島の東江港に上陸し、直ちに伊江小学校を訪ね上里吉堯の案内で3名は東海岸のシカ化石発見洞穴に到着し、現地で20分ほど真剣に発掘作業を行い、多数のシカ化石を採集した後船着場へ急行し伊江島を離れている(岡田1939)。

 この現地調査では、第2号半洞穴から多数のシカ化石骨 (叉状骨器?多数) と石英製の巴旦杏(スモモ)型の石器1点が出土している。石器は鹿野によると握槌か打製石斧と考えられたが、早稲田大学の研究室に送られた資料中には存在していなかった。資料整理を担当した直良信夫によると、これは鹿野らがシカ化石骨とともに、東京への輸送途中で紛失したのではないかと説明されている(桜井1955、直良1956)。

 2006(平成18)年1月〜3月に、筆者は東京大学教養学部に保管されていた「鹿野忠雄コレクション」を同大学文化人類学研究室の伊藤亜人(現・琉球大学)、西澤弘恵氏らのご好意に依り観察する幸運に恵まれた。この鹿野コレクションには、多数の台湾地図、写真原版、論文抜刷、台湾の石器・土器などの資料が含まれていた。その中に少量ではあるが「伊江島」「久米島」と記名された沖縄の土器、石器(磨製石斧)、シカ化石骨などが存在していた。国立民族学博物館に移管される前の同年6月〜7月に、同館の関雄二氏のご好意で沖縄関係資料の研究の許可を頂いた。その整理作業中に伊江島と記された厚紙の小箱が偶然発見され、その中にシカ化石骨数点と1点の「扁平剥片石器?」が含まれていた。石器の形は西洋梨型を呈し、石質は一見白色の石英岩に似ているが、表面は褐色で古色(パティナ)が進んでいた。この剥片は転礫母岩から剥離されたもので、基部がやや欠損しているが長さ約6cm、幅約4cm、厚さ約1.5cmで、側縁に約2.5cmに亘る小さな加工痕が認められる。石質についてはパリノ・サーヴェイ研究所の五十嵐俊雄氏に、石器のカラー写真を観察して頂いたところ「トラバーチン」(石灰華)ではとの鑑定が出ている。沖縄の剥片石器は、石材として一般的にチャートが用いられている。しかし2005(平成17)年2月〜3月の玉城村読山原フィッシャーの発掘(2005年2月〜3月沖縄タイムス・琉球新報記事)で、トラバーチン製の石器らしい資料が多数出土し、現在石器としての利用が可能か否かを検討中である。

 とすると上記の鹿野コレクション資料は、1935(昭和10)年3月23日に岡田・鹿野らが伊江島渡島時にカダ原洞穴第2号から発見(岡田1939)した残りの資料とは考えられないだろうか。直良信夫が鹿野から早稲田大学へ送付された梱包中に無かったと残念がっていた「紛失石器」(桜井1953、直良1954)であれば71年ぶりの大発見となる。この鹿野コレクションは、2006年7月に東京大学教養学部から大阪の国立民族学博物館に移管され、近い将来同館の考古学部門で整理・研究され出版されるとの事でもありその成果が期待される。

② 徳永重康・高井冬二の調査

 岡田彌一郎と鹿野忠雄らは帰京後、この伊江島でのシカ化石調査結果などを古生物学者の徳永重康(1873〜1940)に報告している。当時徳永は早稲田大学教授で東京帝国大学の講師をも兼ねる日本の地質学・古生物学界の重鎮であった。

 1936(昭和11)年8月、徳永重康(図1-B)と東京帝國大学理学部の古生物学者高井冬二らは、帝國学士院の補助金を受けこのシカ化石発見地の「カダ原洞穴」を、地元の上里吉堯、多和田真淳の協力を得て正式に発掘調査した(徳永・高井1938,Tokunaga・Takai1939)。徳永は発掘した多量のシカ化石を早稲田大学に持ち帰り、徳永の私的研究員をしていた直良信夫に整理・研究させた。その結果一部に「人為的な加工」が認められる資料が存在したと帝國学士院紀要に英文で発表された(Tokunaga1936)。発表された写真資料(図1-D)は、1・2はシカの四肢骨の両端を叉状にしたもの、3は掌骨の遠位端に2孔を穿ったもの(4は比較の自然掌骨)、5は下顎骨の先端を叉状にしたもの、6は1の製品の不完全なもの、7は一端を三叉状にしたものであった。後に直良信夫は、シカの角を僅かに削って尖らせたものと、角座を円形平板状にしたものもあると報告している(直良1954)。

 徳永はこの報文で、シカ化石の所属年代を明らかにしていないが、これらのシカは日本・中国・東南アジアの現存種とは異なっていることや、また沖縄には人為的に持ち込まれたシカ以外は棲息しないこと、さらに琉球の貝塚(新石器時代)からは多数のイノシシが発見されているがシカは皆無である事等の理由から、貝塚時代よりさらに古いと見る必要があろうと述べている。

③ 鹿間時夫の調査

 新京工業大学教授で満州國立中央博物館学芸官の古生物学者鹿間時夫(1912〜1967)は、1940(昭和15)年初頭に東北帝国大学理学部の古生物学者矢部長克と沖縄の地質学的研究を行い、1943(昭和18)年の研究論文で「カダ原洞穴」の年代を具体的に提示した(鹿間1943)。それによると伊江島の洞穴(Loc.1〜3)のシカ化石哺乳類含有層(伊江層、陸成)は、琉球石灰岩、国頭層(海成伊江層)以後から赤土層以前迄であった。また沖縄のシカは、中国大陸と陸橋で繋がった時に渡来した動物で、中国の顧卿屯文化、ジャライノール文化、周口店上洞文化に対比されるとし「洪積世末期」の年代を示唆したのである。

 第1号は純然たる海蝕半洞穴で間口6m、高さ3m、奥行き4m、面積30m2の短形で入口は海に直面している。層位は二枚に区分され、上層は陸成トラバ−チンで、厚さ40cm、琉球石灰岩塊を含み淡褐色で硬く締まっており、下層は海成トラバ−チンで、厚さ30cm、サンゴ砂、サンゴ塊、海産貝が包含され淡紅白色である。鹿化石は、この下層部に密集して発見された。

 第2号も純然たる海蝕半洞穴で、間口10m、高さ2m、奥行き3.5mである。層位は上層から海成トラバ−チン10cm 、骨層10cm 、陸成トラバ−チン10cm で、その上に赤土(マージ)が堆積している。骨は黒色で水磨を受けたものが多い。骨角製品はこの骨層中から発見された。

 第3号は岩陰で、間口4m、高さ1.5m、石筍と陸成トラバ−チンが認められただけである。

 第4号はフィッシャー(裂罅)で、長さ400m、深さ1.5〜3.5m、幅は0.5m程度で、層位的には大半が空洞であるものの、一部に淡紅白色の陸成トラバ−チンの堆積が認められる。骨は水磨もなく保存もよく黒色でない(鹿間1943)。

 鹿間時夫は東京の成蹊高等学校(旧制)時代に、栃木県葛生へ獣類化石の採集に出かけたほど古生物学に素養を持っていた。1933(昭和8)年東北帝国大学理学部に入学し、日本の古生物学の父と呼ばれた矢部長克に師事する。大学時代は兵庫県明石地方の地質学的・古生物学的研究をテーマに、直良信夫のもとにも赴き明石人骨や西八木層の研究もしている。1936年に卒論「明石海峡付近新生代地史」を矢部長克に提出し、この中で明石人骨を完新世の所産と結論づけた。卒業後も同大学の地質学古生物学研究室の研究員として活躍した。その後、1938(昭和13)年開設の満州帝國國立中央博物館の学芸官と新京工業大学教授を兼任した。満州では同博物館部長であった同じ東北帝国大学出身の古生物学者遠藤隆次の指揮下で、1933・34(昭和8・9)年徳永重康・直良信夫らが調査したハルピン市郊外の顧郷屯遺跡(徳永・直良1934,1936,1939)の再発掘を二度に亘り(1937・38)行っている。しかし1945(昭和20)年の初めに補充兵として北満州に招聘された為、中国大陸における古生物学研究は中断させられてしまった。戦後、帰国して一時長野県に居住し、後に横浜国立大学に籍を置き教授に就任した。1949(昭和24)年に発掘された群馬県岩宿遺跡の現地視察も行い、1954(昭和29)年に直良信夫が著した大著『日本旧石器時代の研究』の書評も行っている。1967年に死去したが没後の1975(昭和50)年に国際的に権威のある「古脊椎動物学協会(SVP)」の名誉会員に日本人で唯一選ばれた優れた研究者であった(遠藤1965,春成1994,1997)。

5 直良信夫と「叉状骨器」の命名

 ここで直良信夫の生涯を辿り、沖縄旧石器時代研究における「叉状骨器」命名に至る軌跡を浮き彫りにしてみたい。

 大分県臼杵に生まれた直良(旧姓村本)信夫(1902〜1985)は、1920(大正9)年東京で働きながら岩倉鉄道学校工業化学科を卒業し農商務省臨時窒素研究所に就職した。この頃、歴史学の喜田貞吉の講演を聞いて考古学に興味をもったという。しかし研究所での実験作業中に、ガス中毒で肺を冒され21歳の若さで退職する。1923(大正12)年東京を離れ故郷の大分に帰る途中、少年時代にお世話になった女教師の直良音と姫路で再会したが、奇しくもこの日は関東大震災で東京の家が灰に帰した日でもあった。すべてを失った直良は、音の世話で明石で生活することになり、やがて1925年音と結婚し直良姓になった。明石では療養中に「直良石器時代文化研究所」を設立すると共に、約9年間に亘る考古学活動を開始した。

 1931(昭和6)年4月1日、29歳の直良は兵庫県明石郡大久保町の西八木海岸崖下の崩壊土壌から化石化した人骨片を発見し、続いて18日には後の「明石原人論争」を巻き起こした人間の腰骨(寛骨)を粘土層中から採集した。こうして直良は日本にも数十万年前の旧石器時代に人類が棲んでいたことを確信した。がしかし、この明石人骨の発見報告は東京・京都の官学の人類学・古生物学者の賛同を得られず、むしろ研究者としてではなくアマチュアとして誹謗中傷の憂き目を見る結果になってしまった。

 1932(昭和7)年直良は再び上京し、明石の現地調査でお世話になった早稲田大学の徳永重康を訪ね、本格的な古生物学の指導を受けることになった。徳永は1931(昭和6)年9月の満州事変を経て「満州帝國」が建国されると同時に、外務省を中心にした満蒙学術調査団が結成されその団長に就任した。調査は主に外蒙古地域であったので徳永は1933・34(昭和8・9)年直良を助手に別働隊を組織し、満州国ハルピン市郊外の顧郷屯(クーシャートン)遺跡の発掘調査を二度行った。この調査報告書は直良が中心になって、全三冊の大部書(徳永・直良1934,1936,1939)として完成している。

 1936(昭和11)年8月に、徳永と東京大学の高井冬二による沖縄県伊江島カダ原洞穴の調査が行われ、直良は膨大な資料を顧郷屯遺跡と比較しながら整理・分析・研究を進め、旧石器時代遺跡や化石資料についての多くの知識と経験を培った。こうした努力が実ってやっと早稲田大学高等工学校書記として正式の職員に採用された。その後不幸なことに、最大の支援者であった徳永が1940(昭和)2月に風邪が原因で肺炎にかかり急逝してしまった。

 1941(昭和16)年12月8日太平洋戦争が勃発し、病弱であった直良は軍人採用から免れたが、この戦争は直良の人生に大きな転機を迫られることになった。1945(昭和20)年5月25日深夜の東京大空襲は、早稲田大学の「獣類化石研究室」、江古田の直良の「自宅」をも焼失させた。この為「明石原人腰骨」や「沖縄・伊江島カダ原洞穴のシカ化石骨」など、直良が20数年に亘って蒐集した膨大な古生物標本はすべて灰に帰してしまったのである。

 1945(昭和20)年8月15日太平洋戦争は終了し、戦後直良は早稲田大学理工学部の講師になったが、病気がちな音夫人の面倒を見ながらの実生活は悲惨であった。やがて1947(昭和22)年に東京大学の長谷部言人が、明石原人の石膏模型を発見し「ニッポナントロプス・アカシエンシス」として発表した。そしてその翌年に東京大学を中心にした発掘調査が行われた。そしてその調査報告書(1949)には、直良の資料への疑問視と旧石器遺跡存在を否定する内容が記されていた。

 一方、時を同じくして日本の旧石器時代研究史は大きな画期を迎えようとしていた。1949(昭和24)年9月、群馬県新田郡笠懸村岩宿遺跡に於いて今まで人類活動が無いと考えられていた赤土層(火山灰層・関東ローム層)中から確かな「旧石器」が確認され、そしてその後引き続き日本各地で先入観を持たない若い考古学徒が台地上の赤土層から旧石器遺跡を多数発見した。さらに新しい遺跡研究方法は年代・環境・材質・技法など自然科学的手法が多く取り入れられ、また他分野研究者との学際的な調査・研究へとその方向性が変遷して行った。それは最早、直良らが経験してきた個人的に石灰岩洞穴や化石層を小規模調査する研究体制では、新しい日本旧石器時代研究は通用しない時期が到来したのである(小田2003b)。

 1954(昭和29)年直良は、自分の旧石器研究の総括とも言える『日本旧石器時代の研究』を早稲田大学の考古学研究室報告として出版した。その中で徳永重康が報告(Tokunaga1936)したシカ化石骨角製品を、直良は「叉状骨器」(図1-E)と命名した(直良1954)。この命名以後、沖縄の旧石器時代には「骨角器文化」が存在するという説が定着し、シカ化石骨角製品の本格的な発見と研究が開始された(多和田・高宮1965, 当真1975,安里1976)。しかしこの直良の大著は、関東ローム層を対象にした本土の旧石器研究者に利用されることもなかった。以後直良はぷっつりと旧石器研究から離れ、1956(昭和31)年に別分野の著書『日本古代農業発達史』(さ・え・ら書房)で文学博士号を受け、1967(昭和42)年に58歳で早稲田大学の理工学部採鉱冶金学科教授に昇任した。1972(昭和45)年定年退職し、妻の故郷島根県出雲市で1985(昭和60)年11月2日83歳で他界した(直良1997,春成1994,1997)。

6 多和田真淳と「カダ原洞人」の発見

 多和田真淳(図2-B)は、戦後の1954(昭和29)年にアメリカ軍施政下にあった琉球政府に文化財保護法が制定されるとともに、この文化財保護委員会の専門委員(研究官)に任命され沖縄考古学の発展に活躍した研究者である。

 多和田真淳は1962(昭和37)年に、再度伊江島のカダ原洞穴(図2-C)を一人で探訪し、黒色に炭化した「頭骨」片1点と「石器」らしい遺物2点を発見した。頭骨片は真っ黒に炭化しており、帰島後付着した石灰華を落とそうと希塩酸に浸して初めて人骨であることが判明した。石器は洞穴内(第1・2号か不明)の岩棚上で発見したもので、1935(昭和10)年の岡田・鹿野らの発掘時の忘れ物ではないかと考えられている(藤野1983, 高宮1999)。石器については、沖縄大学の考古学者の高宮廣衞が報告している(高宮1965)。それによると、1点は右端下半部の1ヵ所、2は左右と前面部及び同裏面部の4ヵ所にそれぞれ打裂が認められるという。因みに最近筆者がその写真(図2-F)を観察・分析してみたところ、2点とも砂岩製(ニービの骨)の河原石で礫の長軸の一部に打撃による欠失部が存在しており、おそらく「敲石」の破損品の可能性が大きい資料と考えられるものであった。

 1966(昭和41)年秋、多和田真淳はカダ原洞穴採集の人骨(図2-E)を那覇市在住の沖縄歯科医師会長の平良進に託して、東京大学理学部人類学教室の鈴木尚に届け(9月29日)鑑定を依頼した(鈴木1975)。

 人骨は、左頭頂骨片1片 (矢状径7cm,最大横径5.5cm)であり、鈴木尚の鑑定では成人男性、骨は厚さがあり石灰華(トラバ−チン)に被われ黒色を呈し、化石化の程度が著しいとされている(鈴木1975,楢崎・馬場・松浦・近藤2000)。

 人骨の年代はお茶の水女子大学の田辺義一によりフッ素分析が行われ、0.42%の値であったことから後期更新世後期のものと推定された(鈴木1975、松浦・近藤2000)。

7 カダ原洞穴の意義

 まだ日本で旧石器文化の存在が確認(1949年群馬県岩宿遺跡)される以前(1936年)に、すでに沖縄で更新世に遡る「シカ化石骨」製品の発見があった(Tokunaga1936)。当時、中国大陸では北京原人の発掘に端を発して骨角製品の研究も進展しており、この沖縄の資料についても検討されていた(Pei1938,裴1960)。しかし日本本土の考古学界では旧石器時代を話題にするには時期早尚で、さらに本土から遠く離れた南の島の出土品で、また報告が英文学術誌であったことなどから特に注目されずに終わってしまった。僅かに京都大学の人類学者三宅宗悦が資料を実見し、咬傷痕ではなさそうだが石器が伴わないので今直に旧石器時代とは断定できないが注意する地点であると述べているに止まった(三宅1940)。

 戦後このシカ化石骨角製品は早稲田大学の古生物学者直良信夫によって「叉状骨器」と命名(直良1956)され、沖縄旧石器文化の特徴として「骨角器文化」の存在が定着することになったがその一方、考古学者らの見解としては、東京大学の八幡一郎が動物の咬傷痕ではないが人工品かどうか今後の研究が必要であるとした(八幡1950)。また早稲田大学の桜井清彦は人工品であるが旧石器時代という年代観は保留したい(桜井1953)と述べた。唯一アメリカの考古学者で日本でも活躍したジェラード・グロートが、日本にはまだ旧石器文化は存在しないが、沖縄のこの例はメンギーンのいう旧石器時代の骨角器文化に属するのではとの指摘をしている(Groot1951)。その後このシカ化石骨角製品は、琉球政府文化財保護委員会の多和田真淳、沖縄大学の考古学者高宮廣衞らによって発掘された山下町第1洞穴(多和田・高宮1964,高宮1968, 高宮・玉城・金武1975)や数ヵ所の洞穴で類品が追加発見され、人工品として定着していった(当真1975,安里1976)。

 1975(昭和50)年同じ伊江島で「ゴへズ洞穴」が発見され、沖縄県教育委員会の安里嗣淳らの踏査が行われシカ化石骨角製品の存在が確認された(安里1976)。翌年から2年間筑波大学の考古学者加藤晋平、横浜国立大学の古生物学者長谷川善和らによって発掘された(加藤・長谷川ほか1977・78)。加藤らは出土した多量のシカ化石骨を分析し、シカ化石骨製品はシカがリン不足で「オステオファギア」という症状を示し噛んだ噛痕で「自然物」であると判定した(加藤1979)。これを受けて地元の考古学・古生物学者が琉球列島でのシカ化石骨の再検証を行った結果(野原・大城1994,安里1999,2002,立澤2001)、加藤の自然物(擬骨器)説が追認され現在に至っている。

 こうした沖縄の旧石器文化研究史を見ると、カダ原洞穴の調査と出土資料が果たした役割が如何に大きかったかが容易に理解される(高宮1991,1999)。一方、直良信夫が残念がった鹿野忠雄発見の石器らしき資料(直良1956)は、筆者が東京大学教養学部の「鹿野忠雄コレクション」中にその存在を確認している。さらに多和田真淳が発見した石器らしき資料(高宮1965)については、実物は不明であるが写真を見る限りでは山下町第1洞穴の敲石類と酷似していた(小田2003a)。

 現在沖縄の旧石器文化の現状は、洞穴・フィッシャー遺跡から発見された8ヵ所の「更新世化石人骨」(鈴木1975, Suzuki and Hanihara eds.1982)と最近再確認された山下町第1洞穴の3点の「旧石器」(高宮・金武・鈴木1975,高宮・玉城・金武1975,小田2003a)が明らかになった。今後は奄美諸島で確認されている数ヵ所の旧石器遺跡と同様な、海岸段丘上の赤土(マージ)層に包含された「野外遺跡」(オープン・サイト)の探査が不可欠となろう。

おわりに

 現在カダ原洞穴出土の遺物は、今次の大戦で「早稲田大学」「直良信夫宅」が焼失し消滅してしまったが、鹿野忠雄が採集した若干のシカ化石と石器らしき遺物は、2006(平成18)年7月にと東京大学教養学部から「国立民族学博物館」考古学部門に移送され現在「鹿野忠雄コレクション」の一部として保管されている。また多和田真淳発見の人骨は「東京大学総合研究博物館」(東京都文京区本郷、東京大学内)に保管されている(楢崎・馬場・松浦・近藤2000)。そしてカダ原洞穴は1956(昭和31)年10月19日琉球政府指定埋蔵文化財(現・県指定史跡)「伊江島鹿の化石」として登録され、現地にはその由来を説明した標識板が建てられている(沖縄県教育委員会編1996:25)。

 最後に本稿を草するにあたり多くの諸先生・諸氏・諸機関にお世話になったことを感謝申し上げると共に、ここにお名前を明示し心からの御礼に代えさせて頂きたい。(順不同)

安里嗣淳、岸本義彦、新田重清、嵩元政秀、高宮廣衞、上原 静、池田栄史、長谷川善和、大塚裕之、春成秀爾、馬場悠男、松浦秀治、小野 昭、橋本真紀夫、徳永重元、五十嵐俊雄、伊藤亞人、西澤弘恵、関 雄二、東京大学総合研究博物館、東京大学教養学部文化人類学教室、国立民族学博物館


(引用・参考文献)


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