circle 宮城県の旧石器及び「前期旧石器」時代研究批判

『人類学雑誌94-3』1986,pp.325−361.  [PDF版


LETTER TO THE EDITOR

A Critical Look at the Palaeolithic and "Lower Palaeolithic" Research in Miyagi Prefecture, Japan

Shizuo ODA and Charles T. KEALLY

Abstract

After talking to the principal investigators, OKAMURA and KAMATA, and a thorough study of the relevant publications and the lithics themselves, we have concluded that no proven artifacts of human origin predating 30,000 B. P. exist in Miyagi prefecture. The claims of OKAMURA, KAMATA, and some other Miyagi archaeologists that they have discovered a "Lower Palaeolithic" there are based on flawed research and are dubious claims. The artifactual database for the Miyagi Palaeolithic is extremely small and much of it has been picked out of road and field cuttings. Several obviously Jomon artifacts are being called Palaeolithic, the oldest lithics are probably not artifacts, and the dates being assigned to the geological strata by the archaeologists disagree with the actual age measurements published by the dating specialists. Furthermore, sensationalizing these very controversial finds in the press is unethical.

<英文本文>


抄録

宮城県の旧石器及び「前期旧石器」時代研究批判

小田静夫・C. T. キーリ

 日本の旧石器時代の研究において,一つの関心事は日本列島に最初に渡来した人類の問題であろう.現在多数の研究者は1万〜3万年前頃の旧石器時代人類の存在は認めているが,3万年以前に遡るとされる所謂「前期旧石器時代」になると,その存在に賛否両論があり現在未解決の問題として残されている.日本の前期旧石器時代については,1969年頃から芹沢長介により本格的に研究され始め,全国に遺跡,遺物の発見があった.しかし,ここ数年,岡村道雄・鎌田俊昭らが宮城県内で推進している「新たな前期旧石器時代」の提唱は,芹沢により研究されてきた本来の「前期旧石器問題」を解決させることなく,これこそ真の石器であり,遺跡も完璧なものであると力説する.現在宮城県内で33カ所の前期旧石器時代遺跡が発見されており,その中でも座散乱木,馬場壇A,志引,中峯C.北前,山田上ノ台遺跡等が有名である.

 筆者らは上記遺跡の報告書,論文,東北歴史資料館の実物資料,現地,1986年2月2日のシンポジウムの聴聞を通してこれらを検討した結果,宮城県の旧石器,前期旧石器時代の研究はかなり不充分であり,彼らが公言するほどの明確な編年や周辺との対比は無理であることが確認できた.こうしたデータベースの不備が,独自の編年観,年代観を生み出し,孤立した旧石器時代相を作り出す要因になっている.つまり,隣接した山形県,秋田県は言うに及ばず,汎日本的な旧石器時代研究の正道からはずれ,ひたすら古い年代値のみを追い続けるあまり,無理な「前期旧石器時代像」を宮城県に現出させてしまったのである.

 宮城県の前期旧石器時代を批判しようとすれば,同県の旧石器研究全体を対象にしなければならないことに気がつく.したがって,現在までに提唱されている宮城県の旧石器時代編年を彼らの最新の資料に基づいて解説し検討してみることにする.宮城県の同時代の研究は江合川流域に遺跡が集中していることもあり.この地域の資料が最も充実している.江合川流域には現在62カ所の旧石器時代遺跡が発見されており,この数は同県の約半数に当り,このうち前期旧石器時代に属するものは13カ所にものぽっている.石器が包含される地層は,各遺跡で複雑な様相をみせている.層序は隣接遺跡でも対比が難しく,降下火山灰,火砕流が繁雑に重層し,水成堆積物,二次堆積物などの区別も未だ正確に把握されていない.わずかに表土黒色土の下部に約1万年前頃の肘折パミス(HP)が,幾つかの遺跡に確認され,時期判定と共に層序対比の鍵層となっているにすぎないのである.また,広域火山灰の姶良Tn火山灰(AT−約21,000〜22,000年前頃)[Web註:液体シンチレーション法による14C年代]の検出がこの地域にあるが,遺跡との関係はこれからの課題になっている.

 宮城県の旧石器時代編年は以前5期に区分されたことがあるが,最も新しい報告書にはI〜XIの11区分が図示という形で提示されている.それらを筆者らのフェーズという呼称で整理し解説することにする.

 フェーズ I(中石器時代)は,爪形文,隆起線文土器と有舌尖頭器,箆状石器,片刃石斧,鏃状小形尖頭器などがあり,珪質頁岩を石材の主体にしている.
 フェーズII(中石器時代,旧石器時代末期)は,有舌尖頭器,木葉形尖頭器,箆状石器と馬の土偶,羽状縄文の土器などがある.珪質頁岩,黒曜石が石材として主体を占めている.
 フェーズIII(中石器時代〜後期旧石器時代)は,舟形石器,細石刃があり,珪質頁岩,黒曜石を使っている.
 フェーズIV(後期旧石器時代)は,ナイフ形石器,両面加工尖頭器と,問題の錐があり,珪質頁岩が主体でメノウ,黒曜石も使われている.座散乱木8層上面資料.
 フェーズV(後期旧石器時代と前期旧石器時代の過渡期)は,ナイフ形石器,石刃剥片があり,珪質頁岩が中心.座散乱木9〜11層上面資料.このフェーズVとVIの間に座散乱木12層上面資料が入り.楕円形石器,箆状石器,尖頭器,円盤形石核がある.珪質頁岩が主体に使われている.
 フェーズVI〜XI(前期旧石器時代)は,不定形到片が多く,同一母岩資料,接合関係が見られない.
 フェーズVIIは,礫器が中心で,安山岩製がほとんどである.座散乱木15層上面資料.
 フェーズVIIIは,不定形石器で珪質頁岩の使用が多い.未発表.馬場壇A10層上面資料.
 フェーズVIII〜IXは,楕円形石器,礫器など.安山岩,珪質凝灰岩,珪質頁岩,チャートの順で少なくなる.断面採集品・馬場壇A14〜17層上面資料.
 フェーズIXは,石片の形態,石質も粗雑.詳細は未発表.馬場壇A19a層上面資料.
 フェーズX,XIは,小さな色々な型をした石片,石塊・玉髄質の石材が主体.詳細は未発表.馬場壇A20・30a層上面資料.

 ここで他の発掘された遺跡を見てみよう.志引遺跡は5枚の文化層が設定され,7〜9層上面が前期旧石器である.全体に層が薄く,自然撹乱の堆積状況も看取できる.9層上面資料は自然石の可能性が強い.中峯C遺跡も5枚の文化層があり,IV,VII層上面が前期旧石器で,VII層上面は7カ所の集中部と106点の遺物が出土した.石器とされる多くの資料は,不定形で板状の折れ面剥片で全て単品である.石材は碧玉,玉髄が主体で,粗雑な石材使用例が大形品に顕著に存在する.接合や同一母岩が見られないのも他の遺跡と同様である.山田上ノ台遺跡は9枚の文化層が発見され,6〜9層上面が前期旧石器であるが,残念ながら6〜9層は水による二次堆積層であった.珪質頁岩,安山岩,流紋岩を使用したもので,自然破砕品の可能性が強い資料である.北前遺跡は5枚の文化層で,9,15,17層上面が前期旧石器である.やはり15,17層上面資料は水による二次堆積部分出土である.打製石斧,スクレイパーがあり,珪質頁岩,チャート,玉髄などが石材として選ばれている.鹿原D遺跡は2枚の文化層があり,5層上面は細石刃文化に入り,座散乱木6層上面に対比されている.

 次に年代について触れておきたい.この地域では45点の年代が熱ルミネッセンス法(TL),フィッション・トラック法(FT),14C年代測定法により出されている.しかし,各層順による年代のバラツキが大きく,また逆転もみられることから,資料として使いにくい状況であるが,宮城県の前期旧石器を推進する岡村,鎌田らは,この中から都合の良い年代資料のみを利用している.概してTL,FT法は古い時代を測る場合に便利であるが,この程度の年代値は14C法が充分使用できる時代である.ちなみに荷坂凝灰岩中の木材は41,000〜42,000年前と14C法で測れるのに,同層準中の石英粒子をTL法で測ると,73,000年前の古さになってしまう.このことは座散乱木11層にも言え,14C年代で26,000年前より新しい層準であるのにTL法では33,200年前となっている.14C年代値をほとんど用いない宮城県の前期旧石器研究者の,測定資料並びに測定方法にも多くの問題点をかかえているTL,FT年代値を,検討することなく便利に利用する研究姿勢は不可解としか言いようがない.

 ここまでくると批判したいと誰でも思うであろう.その訳は簡単である.これだけの日本考古学史上重大な見解を提唱するにしては,あまりにも宮城県の旧石器時代基礎資料は不充分ということである.県内130カ所の遺跡,発掘遺跡はその中で9カ所,報告書は6カ所しか出版されていないし,発掘面積も宮城県全体で東京の武蔵野台地の中程度の遺跡一つの面積にも満たない狭さのうえ,出土石器数も比較にならないほど少ない.そして,致命的なことに石器が包含されている各遺跡の地層は,数百メートルも離れると比較ができなくなってしまう複雑さである.関東地方では3,000km2で同じ火山灰の分布と層準の対比が可能である.また,石器や石製資料の出土状況にも問題が多い.宮城県の旧石器は地層と地層の間に石器が水平に出土するという.この理由を遺物の上下もなく,当時の地表面が一次的に良好に保存されている結果であると説明しているが,はたして事実であろうか.筆者らの経験では遺物は15〜20cm程度上下して出土するのが一般的であり,それが上下せず層理面にのみ出土するとすれば,異常な出土状態と見るのが常識である.恐らく,水の影響や二次堆積環境がこうした現象をつくり出しているのであろう.また,地層の撹乱証拠は,TL年代や花粉分析結果にも表われている.座散乱木4,6,8層の年代は,その下9〜11層の年代の倍もあり,逆転しているし,志引遺跡の層別花粉分布は土壌の撹乱を正しく証明してくれている.

 また,遺跡から出土する石器は全て単品であり,石器を作った形跡が認められず,剥片,砕片,そして接合資料も無い事実である.どんな使われ方をした遺跡でも,製品,剥片,砕片という組合わせは少なからず認められている.偶然としてもこの地域の前期旧石器人は居住地内で石器を製作または加工せずに暮していたとは考えられない.もっと基本的な誤ちは,当然新しいとされる土器片を隆起線文土器より下層に位置づけたり,縄文中・後期の石錐の型式を持つ石器を1万5千年前の錐にしたり,風倒木の撹乱ピット中の粘土塊を1万年前の世界的に珍しい、馬型土偶と発表するなどの行為である.当然学界でも議論を呼ぶ重要な資料だけに考古学者であれば,特に慎重に取扱うべき内容と考えられる.

 ここで彼らの時代観の根拠になっている年代を見てみよう.まず彼らの測定値はTL,FT法が中心である.TL法の石英粒子,FT法のジルコンについては,その鉱物の供給起源を検討する必要がある.残念ながら宮城県地方はかなり地層の自然撹乱,二次堆積状況が顕著に認められることから,同層中及び同層準から採取した資料と言えども混合体と考えることができる.こうした測定資料の基本が不確かであることが,TL,FT法測定年代が逆転していたり,相互に一致しないどころか連続的につながらない結果や,かけはなれた年代値が生じる原因の一つになっている.また,彼らは段丘面形成が古いことを理由に,その上面の遺跡の古さを結びつけて説明しようとするが,これは無理な援用と考えられる.第三紀の段丘礫層の上に縄文時代の包含層が直接堆積している遺跡を筆者らは発掘調査したことがある.

 それに,前期旧石器時代を3万年を境に区分することである.この3万年という数字に何の意味が有るのであろうか.普通,時代や文化を画する場合,文物,社会などにそれを特に区分する必要が生じるほどの変革や画期が認められる場合,その境をもって区分するのが一般的である.武蔵野台地では石器組成の流れ,礫群,配石の有無などにより,第I期から第IV期まで設定された。そして,現在最も古い石器群は立川ローム層の下部に含まれる第Ia文化期のもので,14C年代によると約3万年前後の値が出されている.しかし,この程度の古さになると年代値はバラツキが大きくなり,正確な数値は出ないとみる方がよい.こうした状況を考慮に入れて,宮城県の前期旧石器資料を検討すると,座散乱木12,13層上面,馬場壇A10層上面石器群は,南関東の第I文化期の石器群に型式学的に類似している.とすれば,この地方の14C年代などを考慮に入れれば,確かな石器群の出土層準は南関東の立川期に充分入り得る年代値におさまるのである.そして,座散乱木15層上面,馬場壇A14層上面以下及び中峯CIV,VII層上面資料は人工品としての検証も乏しく,自然物の可能性が大きいとすれば,宮城県から「前期旧石器」は消失してしまう結果となる.

 宮城県の前期旧石器推進者らは,座散乱木15層上面,馬場壇A14層以下,中峯C IV、VII層上面.志引9層上面の石器とされる資料について,自然物ではないという明解な証明を行っていない.筆者らはこの程度の資料なら,自然堆積破砕礫層中や,原産地の自然剥片などに類品を探すことは困難ではないと考える.座散乱木15層上面の大型で粗雑な石片,馬場壇A20〜33層上面,中峯C VII層上面の小形で不定形な石片類はとても人工品には見えない.たとえば,人工品であれば,石器としての統一した製品,また二つ以上の同型式例が存在するはずである.しかし,そうした人間の意志による製作形態が認められないし,それに小形すぎるのも使用に適さない.もっと不利な点は層位的に石器群変遷が読みとれないことである.それと,彼らは石器の証拠として,石器に使用痕が認められる事実をあげているが,芹沢長介が以前栃木県星野遺跡下層の石片でも同様の使用痕の存在を指摘しており,同じ検鏡方法で宮城県のものにも確認されたとすれば,岡村,鎌田らは星野下層を石器と認定していないので,両資料の矛盾をどう説明するのであろうか.

 また石材撰択の上でも不可解な点がある.この地方の石器には珪質頁岩が多用されていることは周知の事実である.しかし前期旧石器には,凝灰質頁岩,石英安山岩,凝灰岩,流紋岩と,緻密な玉髄,メノウ,碧玉,チャートなどの二種の石材利用がかなりのバラツキとしてどの包含層にも認められている.どうして,縄文,旧石器期に多用される石材として良質の珪質頁岩,黒曜石などを10万年以上生活していながら知らなかったのであろうか不思議である.もっと大切な問題は生活環境でも指摘できる.宮城県北部は多数の火山が分布し,多量の火砕流が頻繁に流れ出し,軽石の降下,大雨による洪水など自然災害が多発している様子が地層に明瞭に刻まれている.たとえば,座散乱木13〜15層は火砕流であるし,この地域のプラントオパール分析では,極端に検出量が少なく,地表下草の繁茂も貧弱であった.こうした生活環境が不良な場所に連綿と居住した要因は何んであろうか理解に苦しむ.南関東地方は富士山から適度な火山灰の降下があり,火砕流も見られず,少なくとも宮城県より当時の生活条件は良好と考えられるが,前期旧石器の発見はない.彼らは南関東地方の発掘が武蔵野ローム層にまで及んでいないと力説するが,筆者らは武蔵野台地の遺跡でこの程度の層準までは掘り下げの大小はあるが,文化層の追及はしているのである.最近神奈川,千葉県でも立川ローム下部から多くの石器群が検出されており,東京都多摩ニュータウン地域では毎年15ha以上の広い面積を全掘しており,多摩ローム層以降の全層準が各所で露出し,研究者の眼も行きとどいているのである,しかし,依然として3万年を越える古さの遺跡は発見されていない.なぜ,日本の前期旧石器時代の遺跡は,生活環境条件が劣悪な宮城県にのみ集中するのか説明して頂きたい.

 以上ながながと,宮城県の前期旧石器時代についての率直な疑問を提示してきたが,今後の新しい事実によってはこれらの批判が全て徒労に終る日も来るかもしれない.しかし,少なくとも筆者らが指摘したような多くの問題点が,宮城県の前期旧石器時代には存在するということはご理解いただけたと思う.したがって,彼らが好んで使う前期旧石器問題は「決着」したという単語は訂正しなげればならないであろう.もっと残念なことは,1985年10月26日の日本考古学協会レジゥメでの岡村の「石器か否かという基本的な問題は,水掛論となり易い」という内容である.宮城県の考古学者が全てこのような無暴な発言を支持するはずもないし,考古学者が石器か否かをそれこそ真剣に決着させずに誰れが解決させるというのであろうか.最後に宮城県のための新しい編年を筆者らが,汎日本的な資料を基礎に作成してみたので,以下に解説してみたい.

 (1) 座散乱木6b,c,馬場壇A3,鹿原D3,中峯C IIc,志引3層上面文化は,縄文草創期または,武蔵野台地フェーズIVに相当し,年代は約1万〜1万2千年前。江合川のフェーズI,II.

 (2) 鹿原D5a層上面文化.細石刃文化で武蔵野台地フェーズIII.年代にして約1万2千〜1万4千年前.宮城県ではこのフェーズはまだはっきりしない.

 (3) 座散乱木8,9,馬場壇A4〜7,中峯C IIc,III,志引4層上面文化.ナイフ形石器文化.武蔵野台地フェーズII.年代にして約1万3千〜2万年前.江合川のフェーズIV,V.ATより新しい層準.

 (4) 座散乱木12,13,志引7,8,北前15〜17層上面文化.武蔵野台地のフェーズI.年代にして約2〜3万及び3万5千年前.江合川のフェーズVI〜VIII,プラス座散乱木12層上面・マイナス座散乱木15層上面で,江合川の約2万2千〜4万2千年前に入る.

 (5) 座散乱木15,馬場壇A14以下33a,中峯C IV,VII,志引9層上面資料.これらは全て石器と考えられないので文化編年は存在しない.

 (1)〜(5)までの説明は充分に信用の高いデータに基づいたもので今後の宮城県の正しい編年として他地域とも,充分に比較検討できるレベルに訂正されたものである.現在,宮城県の旧石器時代研究は“日本の前期旧石器問題”という非常に重大な課題に取り組みながら,最も基本である多くの事実を解決することなく独走している感がある.学問に修正は付きもので,ここらで早く正しい旧石器研究に立ちもどっていただきたい.

まとめ

 筆者らは宮城県における旧石器及び“前期旧石器”時代に関する多くの文献と実物資料,現地を詳細に検討した結果,3万年以前に遡る人工遺物についての確かな証拠は未だ存在しない、という結論に達した.

 最近,岡村道雄,鎌田俊昭らは,宮城県地方に正しい前期旧石器時代の存在が確定したと公言しているが,その裏付となるデータベースは不充分である.石器及び石器と認定する石製資料の多くは,丘陵,道路,畑などの地層断面からの採取品であり,なかには,明確に縄文時代の遺物と考えられる資料が,旧石器時代品として公表されるなど,資料検証の厳密さが欠除している.

 発掘調査された遺跡も少なく,当然発掘面積も微少であり,宮城県全体の旧石器時代遺跡調査面積は,東京の武蔵野台地の中程度の一遺跡にも満たない狭さである.遺跡の立地条件,地層の堆積状況も悪く,通常の遺跡で観察される炭化した木材の細片分布も認められない.しかも,遺物は地層と地層の境に水平に出土するという異常性も認められる.こうした事実は,水の影響,二次的堆積環境を示す証拠にほかならない.

 また,彼らが唯一3万年以前の位置づけに利用する年代測定値は,測定資料の安定性,測定方法の信頼度などの問題点が山積みされている現状からして,直ちに使用できない.そして,石器として提示される下層の資料は,自然物では無い理由の根拠に乏しく,筆者らの鑑定では人工品とは判定できないほどの石片,石塊であった.

 したがって,このように不確実要素を多く持つ宮城県の「前期旧石器」問題を,真剣に議論することなく,あたかも真実であるかのように宣伝,報道する行為は研究者として厳に慎むべき態度と考え,ここに敢えて批判に踏みきった次第である.この批判に対し,是非ともコメント,反論を頂きたい.

<References 略>
(文中敬称略)


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